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いきかたのカタチ

絵を飾る人のキモチ

橋爪節也

橋爪節也(大阪大学総合学術博物館教授・前館長)
「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。
気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも。

いきかたのカタチ

絵を飾る人のキモチ

第12回 花街の演舞場から百貨店までアート、アート、アート……
なんと芳醇な大阪文化

 「絵を飾る人のキモチ」として何回か、日本家屋を飾ってきた襖絵というものが環境絵画であり、画題やモチーフ、部屋の描き分け方などに方式や工夫があることを紹介してきた。新年度でもあるし今回は話題を少し変える。

 この春、桜の咲くころから大阪府立中之島図書館で「大阪四花街展~上方文化としての大阪花街~」展が開かれている。会期は4月3日から28日(金)まで。入場無料、日曜・祝日休館。



「大阪四花街展」より。筆者の所蔵品は「羽雀塗荘」という名で展示されている


 花街を「はなまち」と呼ぶケースもあるが大阪では「かがい」と発音し、宴席が開かれる御茶屋が建ち並び、芸妓が歌舞音曲の芸を客に見せる町のことである。近代の法律において、芸妓が芸事を磨き披露する歌舞練場・演舞場があることが花街としての営業条件となった。
 
 大阪の四つの花街とは、南地(なんち)五花街 ―五つの花街の集まりだが一つと数える― 、新町、堀江、北新地の四箇所を指し、京都は五花街(祇園甲部、先斗町、上七軒、祇園東、宮川町)、東京は六花街(新橋、赤坂、神楽坂、芳町、向島、浅草)となる。他都市でも金沢の「東の廓(ひがし茶屋街)」「西の廓(にし茶屋街)」などが観光名所として知られる。

 図書館の企画展示では、各廓にあった演舞場の記録や番付、プログラムに加え、芸妓たちがお役を務める十日戎の宝恵籠(ほえかご)、住吉大社の御田植神事(おたうえしんじ)、天神祭の陸渡御(りくとぎょ)・船渡御(ふなとぎょ)などが紹介されている。花街は文化の発信地でもあり、伝統芸能である地唄(じうた)は、南地の宗右衛門町が発祥の地ともされる。

 私が所蔵する資料も何点か展示されているが、面白かったのが「北陽演舞場」の設計図面や写真の展示である。

「大阪四花街展」より。北陽演舞場関連の展示にボリュームを割いている


 平成21年(2009)に、私のいる大阪大学総合学術博物館で、大阪市が制作した映画『大大阪観光』(大阪市指定文化財)をとりあげ、第4回企画展「昭和12年のモダン都市へ−観光映画「大大阪観光」の世界−」を開催し、『映画「大大阪観光」の世界−昭和12年のモダン都市』(大阪大学総合学術博物館叢書4、大阪大学出版会)を刊行した。

 この映画のラストシーンに登場する華やかな踊りが「浪花踊り」であり、北陽演舞場で開催されたものだった。しかし、阪大での展覧会の段階では、北陽演舞場の建物などの詳細までは調べる手がまわらなかった。

 しかし、今回は大林組に残されていた資料が出品され、発見が色々あった。北陽演舞場は大正4年(1915)に竣工している。
 現在の大阪市北区曽根崎新地二丁目、桜橋の交差点の一つ南側の道を西に入った北側である。平等院鳳凰堂や二条城二の丸御殿、西本願寺飛雲閣を組みわせたようなインパクトのある外観であり、内部も、凝りに凝って圧倒的な大舞台や客席の造り、演舞場を飾る襖や壁面の障壁画も印象的である。

絢爛、という言葉がふさわしい北陽演舞場の外観/大林組提供


 部屋数も多くて障壁画は何面も描かれ、人物や花鳥など画題も豊富だが、北新地で今も現役の芸妓であるお姉さんたちの思い出話によると、絵を描いたのは、大阪市名誉市民第一号である日本画家・菅楯彦(すが・たてひこ/1878~1963)だという。

  菅楯彦は鳥取市に生まれ、幼少時に大阪に移って育った。画家であった父に日本画を学ぶも早くに父が没し、独学で大和絵はじめ円山四条派、狩野派、浮世絵などを研究する。歴史に関心が深く、国学を鎌垣春岡(かまがき・はるおか)、漢学を山本憲(梅崖=ばいがい)に学んだ。若いころは神戸新聞で挿絵を描いたり、大阪陸軍幼年学校で歴史と美術を教えたりしている。

 大正元年(1912)、後で述べる北野恒富(きたの・つねとみ)たちと大阪における新しい日本画団体である大正美術会の設立に参加する。大正6年(1917)、南地五花街(宗右衛門町、九郎右衛門町、櫓町、坂町、難波新地)の筆頭、宗右衛門町の大茶屋[富田屋(とんだや)]の芸妓で、東京の萬龍(まんりゅう)、京都の千賀勇(ちがゆう)らとともに日本三名妓といわれた八千代(遠藤美紀子)と結婚し、大阪中の男性が嫉妬したと伝えられる。

 楯彦は独自の「やまと絵」を唱え、大阪の風俗や日本史を好んで題材にとりあげた。昭和33年(1958)には日本画家初の日本芸術院恩賜(おんし)賞を受賞した。谷崎潤一郎の『月と狂言師』の吉川英治『私本太平記』の挿絵も描いた。

 演舞場は戦争の空襲で焼失し、障壁画の写真もモノクロでしか残らず、すべてが楯彦の筆とは思えないが、一番メインとなる正面入口の障壁画は、中央に立つ二人を囲み、笙(しょう)や篳篥(ひちりき)、鞨鼓(かっこ)など楽器を奏でる人たちが円形に並ぶ様子を描いていて、確かに楯彦で間違いなさそうである。



正面入口にある菅楯彦の障壁画/大林組提供


 楯彦は、若い時から雅楽が好きで、四天王寺の雅亮会(がりょうかい)に入会し、戦後に発足した天王寺舞楽協会初代会長もつとめている。舞楽を描いた《舞楽青海波(せいがいは)》(1917年・倉吉博物館所蔵)と同じ図柄であり、倉吉の作品を描くよりも時期的に早く、演舞場入口に舞楽を描いたのだろう。

菅楯彦《舞楽青海波》屏風六曲一双のうち右隻 大正6年/倉吉博物館提供


 また、大阪市中央公会堂の大集会室の舞台の上にある《蘭陵王(らんりょうおう)》の面や、京都・先斗町(ぽんとちょう)の歌舞練場の屋根の鬼瓦も蘭陵王であり、舞楽や舞楽面は劇場を守護するように飾られたらしい。

 大正13年(1924)に37歳で妻の八千代は亡くなるが、花街の雰囲気を知り、雅楽も愛した楯彦の障壁画は、芸妓たちが日ごろ磨いた芸を鑑賞するため客席にむかう観客たちの浮き立つキモチをさらに高めただろう。

 楯彦の絵を今日にでも見たければ、東京の明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館にいけばよい。明治天皇の御生涯を描いて自治体や企業、篤志家などから奉納された日本画・洋画を常時展示する絵画館である。建物は大正15年(1926)に竣工し、昭和11年(1936)に壁画の完成式が挙行された。
 大阪市が寄進したのが《皇后冊立(こうごうさくりつ)》であり、描いたのが楯彦であった。

 ついでに述べれば楯彦の弟子で、そのスタイルを最もよく継承した女性画家の生田花朝(いくた・かちょう/1889~1978)も、天神祭をはじめ大阪の風俗を好んで描いた。これも作品を知りたいならば、大阪国際会議場や天満天神繁昌亭の緞帳にある天神祭の原画が花朝の作品である。見覚えのある人も多いだろう。

 楯彦から脱線して話は進むのだが、 楯彦とともに近代の大阪画壇で活躍したのが、日本美術院の同人でもあった北野恒富(1880~1947)である。この6月6日から、あべのハルカス美術館で「没後70年 北野恒富展−なにわの美人図鑑」(7月17日まで)が開かれる。大阪発の大回顧展である。

北野恒富展の案内/あべのハルカス美術館提供


 明治末から大正前期にかけて恒富は、宗右衛門町の御茶屋を創作上の拠点として芸妓を描き、濃艶な画風を展開した。再興した日本美術院への参加を誘った横山大観は、恒富の作品は色気がありすぎて困ると語ったとも伝えられている。

 《浴後》(1912年・京都市美術館所蔵)なども見た目の印象は、洋画風で、堺市に美術館のあるアルフォンス・ミュシャが描いたアールヌーヴォーの女性である。しかしモデルは、宗右衛門町の御茶屋2階の縁先でくつろぐ、湯上がりの芸妓である。道頓堀河畔の柳が涼やかで、画面には描かれていないが、川を挟んだ対岸には芝居茶屋が並び、道頓堀五座がそびえていたはずである。

北野恒富《浴後》明治45年・大正元年/京都市美術館提供


 恒富には、院展をはじめ本格的な展覧会への出品を意図して芸術性を前面に出した大作と、日常的に床の間に掛ける楽しい作品があるが、この絵はむろん前者である。
 恒富の絵も今日のうちに見たければ、楯彦と同じく聖徳記念絵画館に行けばよい。大阪を代表する富豪・鴻池善右ヱ門が奉納した《御深曾木(おんふかそぎ)》という作品が掛けられている。

 楯彦は公的な大阪市、恒富は民間代表の鴻池善右ヱ門という違いがあるが、どちらも近代大阪を代表し、公式の場への揮毫の依頼がくる実力ある画人たちであった。

 それならばこんなことを妄想するのはどうだろうか。楯彦以上に恒富は花街について精通しており、北陽演舞場の障壁画を恒富が描いていたら、どんな絵を描いただろうか。

 そこであらためて恒富の作品を思い起こすと、襖絵などの建物の室内を飾ることを第一の目的とした絵画を、ほとんど描いていないことに気づく。その辺に楯彦と恒富の見かけのイメージとは異なる、画家の資質の違いが反映されているのかもしれない。

 ひとつだけ恒富が壁画を意識して、内装用に描いた絵画がある。かつて心斎橋筋の大丸に掛かっていた額である。大正元年(1912)9月の『大阪新報』は、大丸呉服店新設の応接室の壁画を恒富が依頼され、高さ七尺、横六尺(一尺は約30.3㎝)の等身大の現代美人を描くため舞妓を写生中と報じる。
 つづいて10月1日の『大阪新報』では、恒富が計画した「夜と昼の屏風」はできないが、大丸呉服店新館楼上の壁画は、同じ日の開店に間に合うと伝えている。

 開店に間に合った壁画とはどんなものか。大正2年夏号のPR誌「大丸」の巻頭に写真掲載された大阪支店新館階上の恒富筆《婦女立姿》が、それに該当するだろう。



北野恒富《婦女立姿》。PR誌『大丸』大正2年夏号の口絵/J・フロント リテイリング史料館提供



 面白いことに、写真で見る限り、《婦女立姿》の女性は、後ろ向きの姿で描かれ、顔は分からない。この時代の恒富が描けば《浴後》のようなアールヌーヴォー風の美しい女性が描かれていただろうに……。

 「おとうさん、何をご覧になっているのですか」
 「どこのお嬢ちゃんを描いたんやろう。
    階段の上の絵、お綺麗な人やなあ」
 「今日は、うちの着物を買いに来ましたんだす。
    綺麗なおなごはんの絵があるからゆうて、
    キョロキョロしてもろたら恥ずかしおマス」
 「すまん(そやけどまた見に来たろ)」

 といったように、男性の視線がそちらにむかってしまい、店を訪れた女性たちが嫉妬するので顔を後ろに向けたのか……?
 いや、恒富の描く女性像は女性にも人気があり、恒富に入門した弟子たちにも女性の画家が多いことが知られている。



大丸にあった恒富の壁画《婦女立姿》。階段踊り場の上に掛けられていた/J・フロント リテイリング史料館提供

 後姿で描くのは、女性客を意識して顔を避け、着物や帯、髪飾りなど、呉服店ならではの商品が強調されるポーズをとったのかもしれない。
 そうとすれば、これも絵が飾られる場所をよく理解した上での画家の工夫と言えそうである。

 なお、恒富の額が飾られた心斎橋筋の大丸の建物は、大正2年(1913)に落成した「木造新館」と思われる。このあと大丸は、「木造新館」とは別に、大正7年(1918)ヴォーリズ建築事務所による木造4階建ての洋館を竣工させた。しかし大正9年(1920)、大阪店は火災で全焼する。恒富の壁画の所在が分からないのも火災のためかもしれない。
 現在、建て替え中の、我々がよく知るヴォーリズ設計の華麗な大丸心斎橋店は、この火災から復興して建設されるのである。

 というところで、唐突に今回は終わる。あべのハルカス美術館の「北野恒富展」の監修者は私であり、大変だ、カタログ執筆のスケジュールが迫っている。

 みなさま、ぜひとも展覧会を見に来てください。素晴らしい作品が全国から集まります。私の話は面白くもないが、世界的に活躍される美術家の森村泰昌さんの講演「恒富に学ぶ、大阪の文化力」もあり、芳醇な時間をお楽しみいただけることと思います。

 なんて思っていたら、私の方はパソコンに向かいつづけて眼はかすむやら、肩やら腰やら痛いの痛くないのって……

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橋爪節也
大阪大学総合学術博物館教授・前館長

1958年大阪市生まれ。東京藝術大学助手を経て大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員、現在は大阪大学総合学術博物館教授・前館長。近世近代の美術史を研究し、編著書に『大大阪イメージ─増殖するマンモス/モダン都市の幻像─』(創元社)など。今春、八尾市立八尾図書館に開設された「今東光資料館」の基本構想を座長としてまとめた。

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