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いきかたのカタチ

絵を飾る人のキモチ

橋爪節也

橋爪節也(大阪大学総合学術博物館教授・前館長)
「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。
気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも。

いきかたのカタチ

絵を飾る人のキモチ

第14回 年末年始、祝祭的な色彩を求めて〜日本のガウディから
仏手柑(ぶっしゅかん)そしてネオンアートからゴッサム三題噺

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 日本の家屋ではサンタクロースがすり抜けて入ってくる煙突はないだろうが、限られたマンションのスペースでクリスマスツリーを飾る場合、住まいの環境はどのように非日常化するのか気になるし、反面、クリスマスツリーは飾るが、日本古来のお正月については、同じ植物由来でも伝統的な門松はあまり見なくなったとか、いろんな疑問と妄想がわいてきた。

 しかし早速ここで閑話休題。クリスマスやお正月に思いを巡らしていると、今秋、大阪大学文学研究科の東洋美術史の学生見学旅行で行った長崎のことが気になりだした。
 長崎旅行では、国宝・大浦天主堂や、慶長元年(1597)に宣教師と日本人信徒が殉教した丘にたつ日本二十六聖人記念館なども見学した。後者はキリシタン弾圧の凄まじさを展示して精神的にもきついもので、お歳暮などの歳末商戦と絡まる現代日本の浮かれたクリスマス風俗と並べることはできないが、キリスト教関係として、今回はお許し願いたい。

日本二十六聖人記念館(長崎市西坂町4-21)の壁のモザイク

 ご存じの方も多いだろうが、アントニオ・ガウディ(1852~1926)の日本への紹介者として知られ、ユニークなデザインの日本二十六聖人記念館と、隣接する聖フィリッポ西坂教会を設計した建築家・今井兼次(1895~1987)について触れたいのである。

 今井は昭和初期に東京の地下鉄駅舎の設計のため、ソヴィエトから北欧、ヨーロッパ諸国を回り、バウハウスなどモダニズムの作品のほか、ガウディやシュタイナーらの作品に触れる。ガウディは、誰もが知るバルセロナのサグラダ・ファミリア(聖家族教会)など、合理的・機能的なモダニズムとは異なる建築を設計した。その影響を受けた今井の設計もガウディを彷彿とさせるものである。

 昭和37年(1962)に日本二十六聖人記念館は竣工する。建築に職人の手技を残すことを意識し、自ら職人に混じってタイルを張ったなどのエピソードも残される。記念館の外観のモザイクを見ると、壺や皿など割れた陶器などが貼り付けられていて面白い。また、記念館入口のあたりの庇や、二十六聖人の殉教で引き回された、京都から長崎までの空間を象徴化した壁などもユニークである。

 この壁の表側は広場に面し、彫刻家・舟越保武(ふなこし・やすたけ/1912〜2002)の代表作《長崎26殉教者記念像》がある。舟越はこの作品で「高村光太郎賞」を受賞、宙に浮遊するような群像彫刻も素晴らしい。見学した当日、広場は長崎の歴史散歩のスタンプラリーの出発点になって賑わっていた。

「昇天のいのり」と題された《長崎26殉教者記念像》と聖フィリッポ西坂教会

 ここから大阪の話である。最近、今井兼次の作品が復活した。というか大阪市中央区の堺筋と本町通の交差点にあったビルの建て替えで、屋上にあった今井のモザイク作品《フェニックスモザイク「糸車の幻想」》が新たに復元され、地上におろされたのである。

 建て替え前のビルは、大阪市より「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」に指定されていた建物で、本町通から見上げると、以前からモニュメントの頭部が少しだけ屋上に見えていた。一度、屋上にのぼって近くでじっくり見たいと思っていたが、2017年9月、安藤忠雄氏の設計で建てかえられ、大阪商工信用金庫の本店が移転されるに際して、現状のようになったのである。
 いまは通りから「商工信金ホール」への案内のある階段をのぼると間近で見ることができ、一段ずつ現れてくるその偉容は、誰もがびっくりし、体のなかから力が湧いてくるパワフルなモニュメントである。

《フェニックスモザイク「糸車の幻想」》地下鉄堺筋本町駅上「本町1丁目」交差点の南西角にある(大阪市中央区本町2-2-8)

 船場は日本の繊維産業の中心地である。戦前には昭和6年(1931)に渡辺節の設計で竣工した綿業会館の名建築があるし(重要文化財、大阪市中央区備後町)、前回とりあげた昭和35年(1960)、輸出繊維会館(同じく中央区備後町)の堂本印象の壁画も、大阪の繊維産業の隆盛を象徴する。翌昭和36年、業界大手の東洋紡が「東洋紡本町ビル」を建設したとき、地域の憩いの場として屋上を開放するためこの巨大なモニュメントが制作された。

 不死鳥を意味するフェニックスがタイトルにあり、茶碗や皿など欠けた陶器を素材として用いたのは、焦土と化した街からの戦後復興に「再生~永遠の力強さ」への思いがこめられているからである。細部を見ると、茶碗か丼鉢の蓋が密集して円形や菱形になったり、黒牛のレリーフがあったりして面白い模様を形作っている。

左下部分の拡大図。カラフルかつお茶目なあしらいが随所に

《フェニックスモザイク「糸車の幻想」》は、輸出繊維会館の堂本印象の壁画の翌年に完成し、さらに翌昭和37年(1962)に日本二十六聖人記念館が竣工した。長崎にある記念館や教会の意匠は、そのまま大阪と結びつくものであった。同時に、このモザイクからは、戦災復興から高度成長期を迎えたかつての大阪の繁栄が目に見えてくる気がする。

 同ビルの外壁にあった、モダンアート協会の創立会員・植木茂(1913~84)の石彫レリーフ群も、新しいビルの東側壁面と駐車場に移されており、大阪では歴史的な建築が安易に取り毀されがちななか、新たな本店ビルを計画し、地域のシンボルとして今井の巨大モザイクや植木のレリーフを復元保存した、安藤忠雄氏と大阪商工信用金庫の見識をたたえたい。

駐車場に移された植木茂のレリーフ

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 もう一つ長崎旅行では、江戸時代より華僑が信仰する仏教寺院“唐寺”に関心があった。私の専門は江戸時代に中国から入ってきた新しい傾向の絵画を学んだ文人画(南画)の歴史である。有名な画家では江戸時代の池大雅や与謝蕪村、近代では富岡鉄斎が知られる。今年は、10月に奈良の大和文華館で開催された日本の文人画の先駆者の一人、柳澤淇園(やなぎさわ・きえん)の展覧会カタログに原稿を書かせてもらった。

 彼ら日本の文人は中国の詩文や書画を愛し、文物に関心を寄せている。鎖国体制下、オランダ人が滞在した出島ほど狭隘ではないが、中国人も垣根で周囲を囲まれた「唐人屋敷」と呼ばれる空間のなかで居住が許されていた。多くは通商のために渡来した商人だが、日本の画家にとって彼らに会うことは、中国情報を手に入れる貴重な機会であり、多くの画家が長崎を訪れている。

 長崎に滞在する中国人のために創建されたのが、“長崎三福寺”とも呼ばれる寺院である。寛永元年(1624)創建の興福寺、寛永5年(1628)創建の福済寺、寛永6年(1929)創建の崇福寺で、各寺を菩提寺とする中国人の出身地から、「南京寺」「泉州寺(漳州寺)」「福州寺」とも称された。これに聖福寺を加えて四福寺ともされる。
 義に篤いことから商売の神に変貌した「三国志」の関帝や、航海の女神である媽祖(まそ)を祀るなど、境内には今もエスニックな雰囲気がただよっている。江戸時代の文人画家たちが憧れた中国の雰囲気を長崎の唐寺は伝えていて、私もその余韻を長崎で味わったのである。



国宝に指定されている崇福寺の大雄宝殿



同じく 崇福寺、第一峰門(国宝)の扉。コウモリはラーメンの丼鉢にも描かれるが、中国では「蝙蝠」の「蝠」の字が「福」の字と音が同じことから、お目出度い吉祥的な図案とされている。長崎らしいエスニックな装飾

 そこでもう一つのお題である正月との関係である。文人画的な飾り物として、私はお正月に仏手柑を家に飾ることにしている。形が合掌する手に似ているので、仏の手に見立てて仏手柑と呼ばれ、インド東北部原産のミカン科ミカン属の常緑低木樹で、カボスやユズと同じ香酸柑橘類である。

 主に観賞用で食用には向かないが、砂糖漬けにしたり、粉にして漢方薬に用いるようである。秋の紅葉狩りで京都・永観堂に出かけたら、売店で仏手柑で作った飴を売っていた。



木村蒹葭堂《仏手柑図》展覧会図録より

 大坂の文人画家である木村蒹葭堂(きむらけんかどう/1736~1802)が、花瓶に活けた仏手柑を描いているし、やはり明治から大正に大阪で活躍した森琴石(もりきんせき/1843~1921)が、木版による画集『墨香画譜』(ぼっこうがふ/明治13年刊=1880年)に描いている。



森琴石『墨香画譜』に描かれた仏手柑 筆者個人蔵

 うちの近所の花屋さんが年末になると仏手柑を仕入れるので、自宅用に買って飾っている。形も面白いし、黄色の色彩も鮮やか、柑橘系の香りも楽しい。いつもお世話になっている心斎橋筋の古書店[中尾書店]にはお年賀がわりに持参する。中尾書店は漢籍や和本、浮世絵なども扱っており、新年の店頭にそれをショーウインドーに飾ってくれるので、いかにも文人画の雰囲気である。


新年、中尾書店に飾られた仏手柑

 なお、長崎では、旧正月として中華街が催していた春節祭が今は市全体のイベントとなり、旧暦1月1日から15日まで「長崎ランタンフェスティバル」が開かれる。年によって異なるが、2018年は2月16日~3月4日に開催される。


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 ところで、なんでもない日常的なものが、ある日、突然イマジネーションを誘発し、その人間に決定的な“ヴィジョン”を幻視させることがある。ヴァン・ゴッホにとっての向日葵や糸杉、葛飾北斎にとっての富士山はそうした存在だろう。一般には何でもない草木がゴッホには生命の輝きやうねりとなり、富士山に啓示を受けた北斎は「富嶽三十六景」を制作した。

「ジングルベル」「赤鼻のトナカイ」の歌が流れ、デコレーションの明滅が通りを覆うクリスマスのミナミに出かけると、私の場合、戎橋にある大阪のシンボルであるグリコの像が、キリスト像のイメージと重なった“ヴィジョン”として立ち現れることがある。

「グリコ」の広告塔は昭和10年(1935)戎橋南詰に建設された。高さ33メートル。初代通天閣(約75メートル)の半分である。陸上競技のランナーの像と文字が 6色に変化し、毎分 19回点滅する花模様で飾られたネオン塔だったという。
 戦後は昭和 30年(1955)に二代目が再建され、ネオン下の特設ステージで人形のワニがピアノを弾き、人形劇やロカビリー大会が催された。親に連れられて夕食に出かけた日曜日、漫画映画がそこで映っていたのを見たおぼろな記憶が、私にはある。平成15年(2003)大阪市都市景観条例による「大阪市指定景観形成物」に指定された。

 むろん私だけの“ヴィジョン”だが、道頓堀のグリコの像がクリスマス期間中、十字架ではなく、愛する大阪市の市章「澪つくし」を背にしたキリスト像に見えてくるのである。両手をあげて駆け込んでくる腕の角度も「澪つくし」の角度に似ている。大阪を象徴するアイコンでもあるグリコのランナーが、この街の文化や人の生き方、そのほか諸々を背負い、身代わりとなって歳末の道頓堀に顕現している気がするのである……。


内外の観光客でごった返す日曜夕方の戎橋

 現代では広告の照明は、ネオン管ではなくLEDに変わり、動画を映すのも容易となった。しかし、省エネ時代のことで仕方がないが、注文に応じて作られる職人技や色彩の鮮やかさと暖かみをもつ昔のネオン管に、独特の芸術性と郷愁があったことも事実である。

 ネオンはフランスで開発され、大正元年(1912)のパリ万博で初公開された。その十数年後、「道頓堀行進曲」(昭和3年=1928年)に「赤い灯青い灯」と歌われる道頓堀界隈は、ネオンや電球が煌々と光り輝く街となり、カフェやキャバレーのネオン広告、明滅する劇場のイルミネーションが氾濫する。

 織田作之助の「雪の夜」で「下味原町から電車に乗り、千日前で降りると、赤玉のムーラン・ルージュが見えた。あたりの空を赤くして、ぐるぐるまわっているのを、地獄の鬼の舌みたいやと、怖れて見上げ」たとあるのが、モンマルトルにあるキャバレーをイメージして回転する道頓堀のキャバレー「赤玉」の風車型ネオンである。また、大阪のネオンは全国的にも有名で、「鉄道唱歌」を当世風のコミックソングにした三木鶏郎の「僕は特急の機関士で」(昭和26年発売)でも「ネオン・サインの大阪は」と歌われる。

 現代美術でもダン・フレイヴィン(1933~96)など“ライト・アート”の作家がいたが、モダン大阪が誇った絢爛たるネオンの世界を再現し、アーチストを国際的に招へいして、クリスマスの季節に「世界ネオンアート・フェスティバル」を開催するのはどうだろうか。

 テーマは両手をあげてゴールのテープを切るランナーでもいい。パリや香港、ラスベガス、国や民族によって芸術も多種多様で、ネオンの色感も違うはずである。それを道頓堀の川辺の遊歩道にずらりとならべる。観光客であふれかえっている戎橋やその一つ東の太左衛門橋付近は無理でも、東側や御堂筋の西側は、まだスペースに余地がありそうで、川面に映る姿を対岸の遊歩道から眺め歩くのも楽しそうだ。「ランタンフェスティバル」が長崎情緒を演出するならば、「世界ネオンアート・フェスティバル」で「ネオン・サインの大阪」の記憶を後代に伝える訳である。

 映画『バットマン リターンズ』(1992年)では、ゴッサムシティで秘書をしていたヒロインが、怪人キャットウーマンとなった時、ベッドルームの壁で点灯するネオン飾りをたたき壊す。愛らしい“HELLO THERE!”(「やあ!」呼びかけの言葉)のネオンの文字が、真ん中の二文字が壊れて“HELL HERE! ”(ここは地獄)となるのが印象的だったが、ネオンがチカチカ妖しく光る住まいは、デビット・リンチの映画やブレードランナーのようでもあり、明日の仕事や健康を考えると睡眠の邪魔である。
  
 しかし、今回はここまで書いた話の成り行き上、富士山と鷹となすび(いや仏手柑か)のネオンが道頓堀でチカチカする初夢を見てしまうかもしれない。めでたしめでたし、実にお目出度い……。

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いきかたのカタチ

橋爪節也
大阪大学総合学術博物館教授・前館長

1958年大阪市生まれ。東京藝術大学助手を経て大阪市立近代美術館建設準備室主任学芸員、現在は大阪大学総合学術博物館教授・前館長。近世近代の美術史を研究し、編著書に『大大阪イメージ─増殖するマンモス/モダン都市の幻像─』(創元社)など。今春、八尾市立八尾図書館に開設された「今東光資料館」の基本構想を座長としてまとめた。

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