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平野 愛

平野 愛/写真家

その日の記憶を文字だけでなく写真と一緒に残せたらどれだけ素敵だろうか。 身の回りの「残像」を積み重ねていく楽しさを書きとめていきます。

第4回 薮入り日記

「次のコラムは家族でピクニックのお話なんて、いかがでっしゃろか」

 と編集のNさんからこのコラムのお話を頂いたのが1か月前。我が家の夏休みといえば夫は趣味の山登りへ出かけ、わたしは5歳になった息子を連れて京都の御所南にある実家で過ごす。薮入りスタイルでこれがまたのんびりできていいのである。食虫植物を見たり触ったり、小川で水遊びをしたり、リニューアル中の京都市動物園まで出かけたり。そんな日々を楽しく軽やかに描かせてもらえればと夏を過ごしていた。

 京都は五山の送り火の16日のことだった。

 朝からしとしととこぼれ落ちる雨の音。家の中では退屈になってきた息子とお向かいの家までお出かけすることにしたのが午前10時半。お出かけと言っても、歩いて10歩ほどで到着。お向かいさんは70代の老夫婦のお住まいで、我が実家が築90年の洋風町家(洋館)ならば(第1回のコラムをご参照ください)、こちらは築100年以上の京町家である。茶色い格子が表にある、昔ながらの。

 そんなお家が里帰りする度に出迎えてくれる。といってもここは京都式。約束をするわけでもなく、帰ったよと言いに行くわけでもない。合図はお向かいさんの玄関の引き戸を見るだけ。そっと20cmほど開かれていたのならば、「居ますよ。どうぞ」の印。雨でもその日の戸はそっと開かれていたので、「おはようございます」と声を張って、1歩中へと入らせてもらった。

 老夫婦の町家で一体何をして過ごすのか。むしろ退屈なのではと思われるかもしれないが、5歳のこどもが喜々として向かう先は奥の居間。何とそこにはご主人が趣味で作り上げられた、大きなシネマスクリーンと5.1chのサラウンドシステムが広がる映像空間となっているのである。

 わたしは10代からこの居間と元映像作家のご主人から多大な影響を受けて来た。そしていま2代目の息子がもうかれこれ5年間お世話になっていることになる。昔は一本一本のフィルムを上映してもらったりしていたのだけれど、いまはそれが“Apple TV”というインターネットを通じて映像を投影する方法に変わった。すっかり慣れた息子がメニュー画面からお気に入りの昆虫アニメーション映画をセレクトして、果汁100%のリンゴジュースを頂きながらの鑑賞がスタートした。雨の音と映像の音、スクリーンの向こうに見える坪庭の木々の揺らめきが、何とも美しく艶かしい。ここまではいつも通りだった。そう、ここまでは。

 正午頃だっただろうか。窓越しに見える木々が激しく揺れ、雨音がおどろおどろしい響きを立て始めた。築100年の京町家ゆえの音の聞こえ方だろうかと、最初は気にしないでおこうと思った。それも束の間。

「大変。烏丸通りが川になっています」

 と父の運転で移動していた妹からのメールを受信。
 これはえらいこっちゃと、玄関先へ飛び出てみると、烏丸通りと平行するこちらの道路も妹の言葉通りになっていた。車で戻ってきていた父と妹はガレージの上で孤立。さあどうしたものか。なんて考えているうちに冠水、深さ20cmほどの川となった。その間3分、いや1分ほどか。

 息子を母に託して、わたしは真っ先に目の前の川へと分け入った。まずは身動きできない父が動ける状態を作るのが第一。父は白いズボンに白い靴という出で立ち。そのまま水には入れない。私はジャブジャブと川を渡って家に飛び込んで、とりあえず履けそうな長靴・サンダル・スリッパを孤島に放り投げた。素早く長靴姿に変身した父とともに、私はホウキを握りしめて水をせき止めている側溝に挑んでいった。

 来るは来るは泥水に乗って、松の葉に枯れ枝。これがいちいち突き刺さって痛い痛い。ご近所も総出になっていて、スッポンが流れてきたやのコイが流れてきたやの怪情報が飛び交う大騒動だった。御所の池でも溢れてるんとちゃうか、いよいよ鴨川も溢れるんちゃうか、おばあちゃんから聞いた昭和10年の洪水(鴨川大洪水。死傷者12名、家屋流出137棟、床上床下浸水24,173棟に上った)みたいになるんちゃうか、家つぶれるんちゃうか、とだんだん足から身体全体も冷え始め、心までひんやり恐ろしくなってきた。

 冷たい。雨水が川になるとこんなにも冷たいのか。
 とつぶやきながら側溝に詰まり続ける松の葉や枝を一心に取り除き続けた。ついに土木に詳しいご近所の旦那衆が「あぶないですけど、こうしましょ」と言って側溝のふたを開けてくれた。が、勢いを増した水の流れに恐怖は倍増する。こんなところに流されてしまったら明日はない。実際に丸太町通という御所の南側を走る大通りは膝丈まで冠水していたため、たくさんの側溝のふたが開けられていたそうだ。幸い何事もなかったものの、最も危険を感じた部分であった。

 それから約2時間半の水との格闘を経て、水はほぼ引いた。危険な濁流が収まってからは、息子も交えて家族総出で復旧に当たった。そんなタイミングにテレビ局や新聞記者が次々に到着する。もう遅いでっせと思うと同時に、わたしも写真家なのにカメラの「カ」の字も頭に浮かばなかったことに気づいた。元映像作家のご主人と、会社員の妹の方がしっかり現場を押さえていたのだった。

 その後、福知山や広島は大変な土砂災害が発生して、たくさんの方々の身と心に衝撃を与えた。いまも辛い日々をお過ごしだろうと思うと、我々が遭遇した水の勢いなど小さなものなのだろうなと感じる。だけど、家を守らねばならぬ時はみな同じようにやってくる。そう思って準備したいと思った。

 大仕事を終えたその夜。京の街では五山の送り火が予定通り点火された。
 しばらくして大阪に戻ると、そこは何事もなかったように鮮やかな太陽の光が降り注いでいた。

 そして何事もなく日焼けした夫が待っていた。


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