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平野 愛

平野 愛/写真家

その日の記憶を文字だけでなく写真と一緒に残せたらどれだけ素敵だろうか。 身の回りの「残像」を積み重ねていく楽しさを書きとめていきます。

第2回 「ああ、そうだったよね」の断片

 4年前からこどものいる生活が始まり、それとほぼ同時期に手にしたのがKLASSE(クラッセ)というフィルムコンパクトカメラだった。
 単焦点の35mmという標準でもなく広角でもない、何ともいえない中ぐらいの距離感を持ったレンズ。仕事で使うカメラの5分の1ほどの軽さと小ささ。設定は露出(光の量)を+1とフラッシュをOFFにするほかは全部オート。常にリビングのどこかに置いておいて、すぐに手にできるようにしている。
 そして大事なのは、充分な光を得るため、場所は窓際を選ぶことが多い。特に朝の光は清々しく柔らかで、全体を包み込むような写真が撮れるからいい。

 この4年間、残す写真はほぼこのカメラ1つで撮ってきた。一眼レフのカメラでは大き過ぎてやっかいだったし、デジタルカメラは撮り過ぎてしまってやっかいだったし、このカメラとの出会いが、家での写真を気取らず気張らず気楽なものへと変えてくれた。
 フィルムは24枚撮りの感度400。これもまた、気張らなくてちょうどいい具合。

 こうしてじょじょにリズムを決めていくと、家ではその場のその風景をそっと見つめるように撮りたいとも思うようになった。
「こっちを向いて」と声をかけることや、こどもの顔にクローズアップすることは滅多にない。むしろその顔の向こうに広がっている世界を一緒に残したい。
 その日その時だけの向こう側。片寄っているクッション、ころがっているヘッドホンにミニカー、いつものティッシュケースも全部そのままに。それが我が家の日常だから。そしてそんな何げない日常は、もう二度と同じようには作れないから。

 わたしは幼い頃から、父と母が撮ってくれた写真を見るのが好きだった。いや、もう大好きだった。何度も何度も見返しては、切り取られた風景からその時間を思い出し、心が和むのだった。なぜならまさに、何気ない日常のワンシーンばかりがそこにはあったからだ。
 顔のクローズアップや記念写真的なものはアクセント程度。こっちを向いている写真と同じくらいに、こっちを向いていない写真の数々。軒先で洗濯物をひっくり返している風景や2階でぬいぐるみたちと戯れている風景、玄関先でこけて泣いて鼻水たらしながらも飴を食べている妹との風景。どれもこれも、背景の空間が写っているから 愛しい気持ちが倍増する。
 ああそうだったよね、こんな洗濯カゴだったよね、2階のカーペットの色はこんなに濃かったんだね、玄関扉はこんな形だったよね、と記憶を辿る。

 そして、こう思う。こんな風に父や母はわたしや妹を見てくれていたんだね。と。

 わたしの写真の原点。それはもしかしたら家族アルバムにあったのかもしれない。
 趣味のように見返し続けていた写真は、そうか家の中の何げない暮らしの風景だったんだ。
 顔のアップだけでは見えてこないものが、周りの風景が入ることで感じ取れるものが増える。
 それを知らず知らず引き継いでいることに、いまさらながら気づいたのだった。

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