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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第6回 すべて世は事もなし、か?
 As Time Goes By 私の部屋を飾るもの…むかし/いま

 春だ、四月だ、新年度、新学期だ。毎年この季節になると、煤けた記憶を煤払いするかのように、英国の詩人ブラウニングの「春の朝」が浮かんでくる。
「時は春/日はあした/朝は七時/片岡に露みちて/揚雲雀なのりいで/蝸牛枝に這ひ/神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し。」(上田敏『海潮音』より)

 鬱陶しい事だらけの昨今の世、最後の一節「すべて世は事も無し」を読んで心安らいだり、古い詩がうかぶこと自体、頭を叩けば、ぽんと音がするぐらい馬齢を重ね、私も骨董化しているのだろう。思えば、学生時代や新社会人のころの自分はいたって呑気であり、昭和から平成にかけてのバブルで世間も浮かれ、春は太平楽に花見を謳歌していたものである。

 そこで今回のテーマである。春らしく大学進学で親元を離れて下宿したり、就職して独立したとして、新しく借りた部屋に若者はどんな絵をかけるだろうか? はどうでしょうか。
 さぞ、若い人らしい瑞々しい感性あふれる斬新な室内が見られるだろうと一瞬思ってみたりするが、案外、答えは単純で簡単な気もする。若くて所持金が限られるのだから、部屋に掛けられるのは、アニメやアイドルや映画のポスター、展覧会で買った絵はがきや額絵といったところかと想像するのである…。そこで、私の美術史演習を受講している学生に聞いてみた。

 すると、自分の部屋に絵やポスターを飾っていることを自慢する学生は少なかったのだが、さすがに美術史専攻らしい“つわもの”もいて、現代美術を代表する国際的アーチストの河原温を崇拝している戦後美術史専攻の院生のS君は、アルバイト等で購入可能な価格の現代美術の作品をこつこつと収集し、下宿の壁にちりばめて悦にいっているらしいことが分かった。
 また絵ではないが、明治の細密な工芸、特に漆芸の光沢感やつるりとした肌の手触りを愛してやまない学部のM君は、奮発して購入した漆塗りの器を下宿で時々とりだしては一人で愛玩しているという。
 蓼喰う虫もすきずき、幸田露伴『骨董』や黒川博行『文福茶釜』の登場人物、あるいは『へうげもの』よろしく生涯、彼らは美術を愛し、数寄者として斯道に邁進してくれそうである。

 かく言う私が大学生の時は、東京日暮里の下宿で、横尾忠則の画集の付録のポスターと、アニメ映画『じゃりン子チエ』(監督・高畑勲)のポスターを、机の前の壁にセロテープで貼り付けていた。なんとも、なんともチープな室内装飾だが、別に横の壁にかけたのが入学記念にもらった版画である。

 1970年代の関西では、三人の新進気鋭の版画家が、別々の版画技法を駆使して活躍していた。リトグラフの吉原英雄、木版の黒崎彰、シルクスクリーンの木村光佑(こうすけ)である。奇しき縁があって私は木村光佑(1936~)先生に芸大受験の相談に乗っていただいた(以下、敬称略で失礼します)。

 木村は大阪市に生まれた。
 京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)で日本画を学ぶが、卒業後、広告代理店でグラフィックデザインなどに携わり、シルクスクリーンを用いた版画制作へと進んだ。木村の作品は、写真などをとりこんで多種多様なイメージをコラージュし、透明感ある色彩によって虚実が入り混じる現代社会をシルクスクリーンで表現する。早くから国際的に評価され、1970年の第2回イギリス国際版画ビエンナーレで「ゲインズ・ボローメモリアル賞」、1971年の第9回リュブリアナ国際版画ビエンナーレ展で大賞を授賞した。
 日本画や洋画といった美術ジャンルの一つとして版画をとらえず、あくまでメディアの一つと考えて日常社会へ作品を浸透させることを目指し、アクリル、ステンレス、ガラス、琺瑯などにプリントしたり、立体モニュメントも制作している。
 1987年、京都工芸繊維大学教授に就任し、1998年に同校第9代学長に就任した。

 私が記念に頂戴した作品は《飛翔》と題された版画で、飛翔する一羽のカモメが、シルクスクリーンによって大きく白い画面にプリントされている。この時代、カモメといえば、リチャード・バック原作の『かもめのジョナサン』(1973年)が映画化され、翌年に出た五木寛之の訳本はベストセラーになっている。自由に未来へと羽ばたくモチーフとしてカモメは時代好みのモチーフであり、浪人を重ねたが希望に満ちて大学生となった私への励ましのメッセージだったのだろう。木村は大阪のアーチストとして、郷土の歴史文化にもこだわり、わが家には文楽を題材にした作品などもある。

 さらに木村には、京都工芸繊維大学に巨大なモニュメントがあるほか、大阪大学にも陶板によるモニュメント《飛翔》が豊中キャンパスに、吹田キャンパスの本部大会議室に巨大な壁画《孤独の輪郭》がある。
 《飛翔》は、昭和60年(1985)に大阪大学経済学部同窓会創立30周年を記念して同会より贈られたもので、私の所蔵する作品と同じカモメのイメージをモチーフとし、陶板に焼き付けられた、青や赤、緑、白など明るい色調のカモメが25羽、舞い飛んでいる。

《飛翔》1985 大阪大学豊中キャンパス(豊中市待兼山町)

 大会議室の壁画《孤独の輪郭》は、総金地の壁に15脚の椅子とその影がならんだレリーフで、1脚につき各1色ずつ、臙脂から赤、橙、黄、緑、紺へとグラデーションのように変化して色彩が美しい。色彩の多様さと、それでいて全体として調和したモチーフの配列は、議論のための場である会議室らしい空間を巧みに演出している。しかし《孤独の輪郭》とはうまいタイトルである。会議における一人一人の決断とその責任の重さを、椅子が並んだイメージとタイトルで表現する。この会議室の末席に私もよく座らされるのだが、会議の内容が深刻になってくると、15脚ある椅子がヘンリー・フォンダ主演の映画『十二人の怒れる男』(1957)の椅子や、アンディ・ウォーホールのポップな版画《電気椅子》(1971/滋賀県立近代美術館所蔵)にも見えてくる…と言ったら不謹慎な奴と叱られますよね。

《孤独の輪郭》1980  大阪大学本部棟401会議室(吹田市山田丘)

 私がいる大阪大学総合学術博物館長室にも、海老蔵なみの睨みを期待し、わがコレクションから木村の《OUT OF TIME 24》をかけてはみたが、こちらは「ゲインズ・ボローメモリアル賞」受賞作品のパワーに比して、現在の館長は力量不足のようであるが…。

《OUT OF TIME 24》1970



 若々しい日々の思い出とは別に、現在のわが陋屋の壁に架かる1点も紹介しておこう。
 玄関を入って靴を脱ぐすぐ横にかけているのが『失楽園』にある挿絵の一枚である。
『失楽園』といっても渡辺淳一の恋愛小説ではありません。イギリス17世紀の詩人ジョン・ミルトン(John Milton 1608~1674)が著した長編叙事詩(Paradise Lost)で、挿絵は後にフランスの画家ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré 1832~1888)が制作したものである。ドレは版画や挿絵で活躍し、『聖書』やダンテの『神曲』などの挿絵でも知られる。油彩の大作も描き、オルセー美術館などが収蔵する。

 私が架けている版画は、何枚もの挿絵で編じられた原本をバラして額装したものだが、絵の下にタイトルが“Satan's Flight Through Chaos”と記され、訳せば「カオス(混沌)を飛ぶサタン」とでもなるだろう。『失楽園』(あくまでミルトンの)は、『旧約聖書』を題材に、神に叛逆した堕天使サタン(ルシファーと呼ぶ方が私は好きだが)が再起をはかってさまよい、ようやく天国と地獄の端境に楽園を見つける。サタンはそこで策謀を煉り、アダムとイヴが楽園から追放されるという物語である。

ギュスターヴ・ドレ《Satan's Flight Through Chaos》


 なぜ、私はこの絵を玄関脇に架けているのか? 一つ目の理由が金銭の問題で、神保町の骨董市で見つけ、1万2000円ぐらいで入手できて廉かったのだ。海外から各種グラフィックを輸入している店の話では、「ドレなどのこうした絵は現在のヨーロッパでは流行らない。なぜ日本人はこんな古くさい絵が好きなのかとよく聞かれるんですよね」とのことである。
 しかし作品の質を甘く見てはいけない。画面全体は浪漫性をただよわせながらも品格が高く、正確なデッサンと細部に至るまでの緻密な線には驚かされる。また、『失楽園』一冊に何十枚もの挿絵があるので、一冊まるごとだと200万しても、それを一枚一枚分売すると割安になるわけである。

 二つ目の理由は、文芸愛好や宗教的な意味は全くなく、金銭とは別の“琴線”に触れたことによる。なんということであろう、描かれているサタンの姿が、度重なる呑み会でヨレヨレになって、家にたどり着いたおのが姿に似ているではないか。この歳になると、自由な世界へ飛びたつ若き日のカモメの翼は摩り切れ、職場がらみで義理の呑み会も重なる。盛り場と酒席のカオスをさまよう酒飲みトラの私と、岩にたどり着いてしがみつく辛そうな顔のサタンが重なりだして、涙なしでこの絵を見ることは出来ない。

 嗚呼、尾羽うち枯らし、現代のカオスを迷い飛ぶサタンの姿は、私だ、私なのだよ。半世紀にわたり人生を彷徨したあげく、うまし報いがこれだっか! などと怒り出し、一杯一杯又一杯と痛飲して、病院送りにならないように、戒めとしてこの絵を玄関に飾った次第(三方ヶ原の大敗後に家康が描かせた肖像画みたいなものか)。

 そこで一句、「すべて世は事ばかり。汝、呑みすぎる勿れ」。

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