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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第4回 まことのとこのま/とこのまのこと −日本流アンチーム(intime)な展示空間−

 サマー・ハズ・カム! 夏が来た。
 とはいえ、私は長いこと海水浴に行っていない。皮膚が脆弱で、すでに五月ごろから街を歩いて陽にあたると、腕や顔が火ぶれしたようになったりする。体質が変わったのは20数年前で、若気の至りでバブル全盛期の盛り場をうろうろしたあげく、朝日に弱い吸血鬼ドラキュラになったかと訝しむが心あたりはむろんなく、紫外線カットのサングラス越しに、青空にむくむくわきたつ入道雲を眺めては、潮風かおるビーチで横になってキーンと冷えたBEERを呑めないのが残念で仕方がない。しかし、海水浴に行った少年時代の“夏の日の思い出”を回想すると、記憶の引き出しにしまい込まれていた“絵のある場所”が思い出されてくる。

 大阪ならば海水浴は、近くは須磨や二色の浜、遠くは南紀に伊勢志摩、瀬戸内、若狭湾などか。その海水浴の旅先で絵のある空間を目撃した。家族旅行で泊まった旅館や民宿にあった「床の間」である。掛け軸は安物だが、客室や宴会場の「床の間」に、高砂の翁と媼、布袋に大黒、寒山拾得、松に鶴などが描かれ、子供の目には不気味な雰囲気を漂わせていた。お盆に里帰りした祖父母や親戚の家にも「床の間」があった。現代はマンション生活が主流で、住居内部における伝統的な日本の美術品展示空間「床の間」は絶滅寸前である。日本人の大多数が、もはや「床の間」のある家に生活したことがないだろう。しかし「床の間」こそ日本人が発明し、独自の美意識を醸成した装置であった。

 日本の住宅の歴史をひもとけば必ず登場するのが、古代の「寝殿造り」、中近世の「書院造り」である。「床の間」は、「寝殿造り」から「書院造り」へと変化するなかで、手紙や書物を読むために設けられた「付書院」、器物を飾りつける「違い棚」とともに誕生する。軸をかける壁の前に置く机から変容した「押板」が原型とされ、座敷に付随したスペースとして自立した。
 二条城二の丸御殿を思い浮かべてもらいたいが、将軍や大名が臣下と対面する大規模な書院の「床の間」は、豪華な飾りによって権力者の威厳を視覚的に強調する装置として機能した。反対に、京都大山崎の妙喜庵にある国宝の「待庵」など、千利休が完成した茶室の「床の間」は、茶器や書画を鑑賞するスペースの域を超え、佗茶の精神を象徴するものとして様々な工夫が施された。江戸時代以降「床の間」は民家にも普及し、一般的な町家の座敷にも設けられることになる。夏休みに体験した旅館や民宿の「床の間」は、こうした歴史上の「床の間」の子孫である。


 「座敷」や「床の間」が日本的な美意識を象徴する空間であったことは、文豪・谷崎潤一郎が有名な随筆『陰翳礼讃』に記している。

 もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床の間を見る毎に、いかに日本人が陰翳の秘密を理解し、光りと蔭との使い分けに巧妙であるかに感嘆する。なぜなら、そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧たる隈を生むようにする。にも拘らず、われらは落懸おとしがけのうしろや、花活はないけの周囲や、違い棚の下などをめている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。

『陰翳礼讃』には谷崎特有のユニークな美意識が反映されているが、絵画や写真の額縁や置物で室内を埋め尽くす欧米の住宅とは異なって、静謐な空気が張り詰めた伝統的な日本空間に入ると心が落ち着く感じは、現代人にもよく分かる。

思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ無気味な静かさを指すのであろう。われらといえども少年の頃は、日の目の届かぬ茶の間や書院の床の間の奥を視つめると、云い知れぬ怖れと寒けを覚えたものである。しかもその神秘の鍵は何処にあるのか。種明かしをすれば、畢竟ひっきょうそれは陰翳の魔法であって、もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉こつえんとしてその床の間はたゞの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽しておのずから生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである。

 少年の頃に茶の間や書院の床の間の奥を見つめて「云い知れぬ怖れと寒けを覚えたもの」とするニュアンスは、少年時代の記憶という点で、夏休みに親戚の家や民宿の「床の間」で味わった微妙にゆれる心境と近いかもしれない。

元来書院と云うものは、昔はその名の示す如く彼処で書見をするためにあゝ云う窓を設けたのが、いつしか床の間の明り取りとなったのであろうが、多くの場合、それは明り取りと云うよりも、むしろ側面から射して来る外光を一旦障子の紙で濾過して、適当に弱める働きをしている。まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明りは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくゞり、廊下を通って、ようようそこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、たゞ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。

 緩やかに外光を内部に誘導する障子について「外光を一旦障子の紙で濾過」するという表現が印象的である。西洋のレースのカーテンならば向こうが透けて見えるのに対し、障子紙は光の“明るさ”しか透過しない。

私はしばしばあの障子の前に佇んで、明るいけれども少しも眩ゆさの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繁たてしげの障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈が、あたかも塵が溜まったように、永久に紙に沁み着いて動かないのかとあやしまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばだゝく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつゝあるからである。

「床の間」に漂うデリケートな光に魅せられて谷崎は「悠久」の時を感じる。

諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にたゞようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持がしたことはないであろうか。或はまた、その部屋にいると時間の経過が分らなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の怖れを抱いたことはないであろうか。

 谷崎が記した「座敷」や「床の間」のもつ神秘的な力は、現代でも京都や奈良の古社寺を探訪し、なにかのタイミングに他の観光客の姿が消えて、自分一人だけ畳に坐しているといった時、鮮烈に感じることができるだろう。
 しかし、谷崎の話は『陰翳礼讃』というユニークな美意識としてリアリティがあるのだが、「床の間」に掛けられる絵には触れていない。自分以外に人がいない空間としての「座敷」「床の間」を評した印象があり、何人もの人が詰まった座敷の姿は想定していないようである。
 絵のある空間の意味を考えるには、「座敷」にすわって「床の間」の絵を眺める人の存在を加えなくてはならない。パソコンに喩えて言えば、「座敷」というハードディスクに、「床の間」というソフトをインストールした以上、それをアクティヴ化する必要がある、という訳である。


 檜の一間床といった巨大な「床の間」がある御殿のような特別な建物ではなく、普通の町家にある標準的な「座敷」の「床の間」を考えてみよう。高級料亭や居酒屋の畳席などの「床の間」もあるが、今回はとりあえず家族が住んでいる住居を想定する。
 その「床の間」を飾るにふさわしい絵にも、場所に適した画題や構図、描き方がある。「座敷」は何のためにある部屋だろうか。一つには来客を迎える部屋であり、主人が寛ぐ部屋でもある。“アンチーム(intime=仏=くつろいでいるさま)”な気分を漂わせた部屋でなくてはならない。「床の間」の絵は、第一に心和やかに室内を飾る装飾品、調度として需要があるというのが正解だろう。それも、夏ならその絵があるだけで気分的に室温が下がる絵とか、素麺に鱧の照り焼きが食べたくなるとか、麦酒がほしくなる絵である。

「床の間」にしっくりと合う絵を「床うつり」「床映」が良い絵と呼ぶ。現代の画家に「床の間」用の絵を描かすと、強烈な自己主張のうちに画面をビッシリ埋め尽くし、日々の生活を重ねている居住者にとっては暑苦しいこと限りない。「床の間」という空間の特性を熟知していた昔の画家たちは、絶妙の筆の冴えで「床うつり」の良い絵を楽々と揮毫できたのである。
「床の間」にあって、心なごます絵は造形的にどのような絵画だろうか。まず、掛け軸を鑑賞するにあたって、一番ふさわしい視線の高さから考えてみる。恐らく畳に座った時の目の高さであろう。客として座敷に招き入れられ、座布団を勧められて腰を落ち着ける。当家の主を待つ間、ふと目に入るのが「床の間」の掛け軸である。主人の方も用件にあわせて画題を選んで軸を掛け替えていることもあるだろう。慶事での来訪ならば吉祥的な画題だろうし、四季折々の画題や、趣味や遊び仲間の到来ならば、それにふさわしい軸を掛けるだろう。主人が席に着いて客が本題に入る前に、時候の挨拶同様に最初の話は軸の絵についての話題かもしれない。主客のやりとりは座った状態でなされるので、絵の構図上の中心は必然的に座った時の目の高さを基準に描かれる。

 掛け軸は、絵の部分(本紙と呼ぶ)だけではなく周囲の表具もいれて縦長の画面が多いが、美術館では掛け軸を上部からか比較的均質に照明するので、本来、暗くて良い部分まで明るく照らしてしまい、展覧会に行くと大きなガラスケースのなかに何本もの掛け軸がぶらさがり、画面上部の白い余白が気になるかもしれない。しかし、日本画の軸は「床の間」に掛け、座った位置から観賞すると、上の余白は、それこそ谷崎の言う「床の間の濃い闇」に吸収され、画面全体の構図も安定して眺められるのである。

 また「床の間」にあって心なごます絵は、濃密な極彩色よりも、あっさりした筆致の絵がよいかもしれない。何気なく目に図がひっかかる、といった感じだろうか。現代に置き換えれば、「床の間」は大きなモニターであり、掛け軸をそこに掛けることは、四季の美しい風景を写した爽やかな環境ビデオが常にそこに映し出されている状態である。見るともなく見ないでもなく、気軽なBGMのような絵とも言える。
 絵画作品を画家の個性が発揮された芸術品でなければならないとするのは、近代の考えであって、室内を装飾する絵画は壁紙としての機能を果たせばよいのである。血のようなオスロ・フィヨルドの夕景を背に絶叫する坊主頭のムンクの《叫び》は、近代人の孤独や不安を造形化した名作だが、これを「床の間」に掛けて、家族とともに日々の生活を平静に過ごせるだけの図太い神経は、ユニークな個性をもつ強者でなければ涵養できない。

 大阪商人がパトロンとなって「船場の画家」と称えられ、「床うつり」がいい絵を得意とした近代大阪の大家、庭山耕園にわやまこうえん(1869~1942)の作品で見てみよう。耕園は、明治2年(1869)に姫路に誕生し、父に随って大阪に出て上田耕冲(こうちゅう/1819~1911)に師事した。耕冲は、円山応挙門下の上田耕夫の息子として生まれ、円山四条派の流れを汲む。明治17年(1884)、耕冲は大阪市東区道修町に開設された浪華画学校の教員となった。浪華画学校は、明治12年の東京の竜池会結成、明治13年の京都府画学校開校に刺激されて設立され、明治22年(1889)の東京美術学校開校に先立った民間の画学校である。つづいて大阪画学校となり、耕園はそこで助手をつとめたとされる。

 明治26年(1893)、耕園は日本青年絵画協会第2回絵画共進会で三等褒状、明治28年の第4回内国勧業博覧会で褒状、明治30年の第1回全国絵画共進会で二等褒状、明治36年(1903)に天王寺公園で開催された第5回内国勧業博覧会で褒状を受賞する。大規模な展覧会でのめざましい活躍ぶりである。しかし、明治40年に文部省美術展覧会展(文展)が設立されて以後は、全国的な公募展には出品せず、大阪画壇の重鎮として活躍、後進の指導にあたった。
 その背景には、大阪からの応募者が文展にほとんど入選しないことへの不満と、それまでの内国勧業博覧会では美術工芸品も殖産興業の一端だったが、文部省が主管の文展では、個性の表現を意識した新傾向の作品が主流になったことがあったかもしれない。卓抜した力量をもちながらも耕園は、展覧会用の大画面よりも、富商たちをパトロンとして、彼らの居宅を飾るにふさわしい、「床うつり」のよい作品を描く大阪の町の絵描きとして生涯を送ることになる。

 絵を見ることにしよう。たとえば、春の草花から飛び上がる揚雲雀あげひばりを描いた《春野雲雀図》である。空高く飛び上がり、しばらくさえずってから一気に降下する揚雲雀は、俳句の春の季語であり、同じ意味の朝雲雀、夕雲雀、叫天子などの季語がある。ブラウニングの詩 「時は春、日は朝…揚雲雀なのりいで…神、そらに知ろしめす…この世はすべてよし」(「春の朝」)は、日本の雲雀とは異なるかもしれないが、上田敏の訳詩集「海潮音」(1905年)に収められており、時代の雰囲気はよく伝えている。この《春野雲雀図》を美術館のガラスケースにつり下げられた状態で見ると、あっさりした感じの花鳥画に見えるが、「床の間」に掛け、畳替え直後の青臭いにおいがする畳にすわって鑑賞するならば、黄色い花が咲く草むらから、われわれの視線の上へと、いままさに雲雀がとびあがった瞬間を体験している印象をうけるだろう。

春野雲雀図(大阪市立美術館所蔵)

 もう一点、《八重桜と雀》は、咲き誇る八重桜に可愛らしい雀が五羽集まっている。構図的には画面上部、視線を見上げるかたちで桜と雀が描かれているので、それこそ船場あたりの商家の「座敷」ならば、「床の間」に窓が開いて、都心では求めにくい長閑な春の田園風景が出現した感じとなるだろう。同様に、紅葉を描いた掛け軸を掛けたとしたら、座敷に座った状態で箕面や高尾などに紅葉狩りに行った気分満喫というわけである。

八重桜と雀(大阪市立美術館所蔵)

 数年前に東京の古書目録で見て、なんとしても買えばよかったと後悔している耕園の作品がある。名作(迷作)というか珍品というか、画題はなんと「蟻三匹」! 目録の写真も小さいので、具体的な図はさっぱり見当がつかないままだが、目を凝らして目録を見ると縦長の画面に小さな黒い点が三つほどあった。こんな作品を大規模な公募展に出品したならば、審査員から何を考えておるのじゃと怒号が飛んできそうだが、それはまだ見識がお若い。ユーモアを解する大阪商人を喜ばす、実にエスプリに富んだ掛け軸である。
「座敷」に案内された客が「床の間」を見ると、なにやら白いだけの、何も描かれていない軸が掛かっている。はてな? と首をかしげること暫し。ぐっと身をのりだして見ると、小さな蟻が三匹いた。床の畳には、三宝にのせた祝い砂糖の祝鯛とか、饅頭とか、西瓜をかたどった置物が鎮座しているかもしれない。「ご主人、この白紙の軸はナンですか」「見えませんか、どこかに巣でもありますんやろ」「黒い点が三つ…蟻が三匹…えへーっとこんなんアリか。あんさんらしいアリがたい御趣向でんな、わははのは」と、丁々発止のやりとりもアリえたのであります。

 さて今年2月27日、うめきた・グランフロント大阪ナレッジキャピタルにある積水ハウスの「住ムフムラボ」で、住ムフムセッション〈第8回〉『絵のある空間 その素敵な生活へのヒント』と題し、江弘毅さん、 積水ハウス総合住宅研究所の中村孝之氏と私のセッションが開かれた。そこで私は以前に書いた《モナリザ》やウォーホルの「マリリン・モンロー(サンデーモーニング版)」のある「床の間」の図を合成して実験的に映写してみたわけだが、うーむ、アヴァンギャルドなジャパネスクが斬新だが、古典的な「床の間」論から見れば「床うつり」はいかがなものか、と心配になるかもしれない。ここでも「ご主人これはマリリンですな」「ショッキングピンクのシャワーを浴びながら、お食事にキャンベルスープでもどうぞ」といったやりとりが浮かんでくる。

ちょっと描いてみました(橋爪節也・画)

 小さなお子様のある方々は、夏休みの旅行にはぜひ、「悠久」に対する一種の怖れを抱かすためにも、「床の間」のある旅館や民宿に行ってみてください。缶ビール片手に寝転がって「床の間」の絵を眺めるのも、なかなか乙な風情かもしれません。

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