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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第3回 《モナリザ》がわが家にきたら…… それと《香里風景》の謎解きとは

Ⅰ.
 絵を飾る人の気持ちを探ろうと踏み込んだはいいが、絵を飾る気持ちは状況によって千差万別、国や民族、時代や個人のキャラクターによっても異なるのは言うまでもない。
 とりあえず、現代の標準的な日本人を想定したとしてみよう(中間層の崩壊で、だいぶ標準は崩れているが)。その住まいに掛かる絵画とは何か。その問題を考える最初の糸口になるのが、
1.どんな建築のどのスペースに、
2.何を目的として、
3.どのような絵画(作者、絵の形状、絵画様式、制作年代など)が飾られるのか
 を明確にすることだろう。

 例えば、もしもの話である。あなたのお住まいが、古都の古刹や老舗の日本旅館とまではいかないが、都心から少し離れ、大戦の空襲をまぬがれた先祖伝来の日本家屋であり、複数の部屋を有している場合、必ず座敷には床の間があって花鳥風月を洒脱に描いた掛け軸が掛けられ、襖には水墨の山水などが描かれているのではなかろうか。
 また例えば、あなたのお住まいが、戦前に私鉄沿線が開発した近郊の住宅地にあって、少し古い間取りの洋風日本家屋ならば、玄関の脇には、マントルピースがある応接間があり、そこに置かれたピアノの上には古錆びた額におさめられた洋画家の油彩画が掛けられているのではなかろうか。来客がそこでトイレを借りに廊下の奥へ進むと和室の茶の間があり、廊下には色紙か短冊が掛けられている。

 さらに例えばの話、お住まいが、バブル時代のシングルライフを象徴し、夜はネオンが点滅する都心風景を眺望できるようなマンションならば、コンクリート打ちっ放しのリビングの壁に、ポップ・アートの巨匠アンディ・ウォーホルの代表作《マリリン》のサンデーモーニング版が掛かっているのではなかろうか。サンデーモーニング版は、ウォーホルの版画の海賊版だが、ウォーホル自身、創作の原点に複製を強く意識しており、海賊版ではあるがサンデーモーニング版の存在を容認したものである。現在は価格にして十万円程度か(オリジナルなら数千万円)。
 またまた例えば、この二年以内に都心の新築マンションを購入した場合、家族で住むには狭くて収納スペースを増やした結果、下駄箱の上かトイレの壁ぐらいしか絵は掛けられないなぁ、トイレに掛けるのに高額の美術作品はどうもなあ、などと思ったりしているかもしれない。

 つまり、「絵を飾る人の気持ち」を色々と考察するわけだが、いざ現代の我々の状況を考えてみると、理想とする絵画鑑賞空間を自宅に出現させるのは、なかなか困難であるということなのだ。最初にあげた、1.どんな建築のどのスペースに、2.何を目的として、3.どのような絵画(作者、絵の形状、絵画様式、制作年代など)が飾られるのかというのも、実は住んでいる家の条件で最初から決定づけられているとも言える。


Ⅱ.
 逆にひねってこんなことも考えてしまう。あなたが、仮に3LDKのマンションに家族と住んでいるとして、いかなる神の恩寵か、はたまたルパン三世と懇意だったからか、いつも画集で眺めて愛してやまない、ダ・ヴィンチの《モナリザ》やゴッホの《向日葵》の本物を手にいれることができたとする(これらの名画をあげるのはあくまで架空の議論であり、人類共有の文化財を愚弄する意図はない)。

 まあ、《モナリザ》かな。空港まで美術品専門の運送業者と受けとりにいって(税関とか保険の話は無視して)、マンションに到着、作業員を指図しながらエレベーターで運び上げ、鍵を開けて作品を室内にいれる瞬間、さて、ご自宅のどこに《モナリザ》をどのように掛けるかをイメージして下さい(むろん、自宅マンションを《モナリザ》専門の美術館し、入館料を1万円取っても世界中からの人であふれ、一瞬にして億万長者になることも想像できるが、それもここでは論じず、せいぜい職場の友だちに「今度の日曜日、おれの家に《モナリザ》を見に来るか」と自慢する程度の話でお考えください)。

 玄関をあけたところの下駄箱の壁ではカッコがつかないし、土埃が舞って保存上も危険である。キッチンの壁ならば、名画を見ながら食事が出来るが、子どもが味噌汁やスープをはねかけるかも知れない。冷えていない缶ビールを空けたら急に吹き出す危険性もある。結局、3LDKのうちの子ども部屋をつぶし、壁紙からスポットライトなど照明器具、空調までやりかえて、作品が一点だけ掛かっている特別展示室をつくることになるのではないか。
 しかしですよ、まだ油断はできない。ほとんど隙間のないコックピットのように改造された一室ではあるが、それでもキチンと盛装して椅子に腰掛け、ルネッサンス時代の歌曲であるマドリガルをBOSEかどこかの最高級のスピーカーで流して悦に入り、《モナリザ》を鑑賞しながら、俳句のようにソネットでもひねろうかとしている矢先、隣から家族が見ているテレビの声が漏れきこえてきて、《モナリザ》がお笑いトーク番組に微笑しているように見えてくるおそれもある。

 自分の住まいに、間違いない真筆のダ・ヴィンチの《モナリザ》、ゴッホの《向日葵》があったとしても、その空間にある限り、鑑賞のありかたとして、これらの名画は全人類の文化遺産としての感動を生み出せるだけの力を発現できるのだろうかと思い悩むことになるだろう。
 逆に現代美術が好きな人も、住まいとの兼ね合いで別の困難に直面する。現代美術には、ともかくも巨大な作品が多い。ギャラリーや美術館での発表を前提としての創作活動が作品を巨大化させている。それもニューヨーク近代美術館がはじめたとされる、シンプルな四角い室内を真っ白の壁面が囲っているホワイトキューブが、展示会場としてイメージされがちである。

 大阪新美術館建設準備室が所蔵するイギリスの現代美術を代表するギルバート&ジョージの代表作《デス・アフター・ライフ》(1984年)は、大きさが縦約5m、横11mである。「生きた彫刻」を標榜し、個展会場に二人が立っているパフォーマンスで出発したギルバート&ジョージのことがいかに大好きでも、これは住まいに飾るための作品ではない。翌1985年の「パリ・ビエンナーレ」の堂々たる出品作品だ。この作品を横に置くと、5×11の55㎡となるので、マンションの間取りや物件によって異なるが、2LDKより少し広いぐらいか、狭い3LDKぐらいの面積となる。
 過去に準備室の開催した展覧会では、南港のATCミュージアムではこの作品は展示可能だったが、中之島の国立国際美術館は、5mの作品が展示できる壁面が案外と狭く、作品のあまりの大きさに《デス・アフター・ライフ》は展示できなかった。ATCミュージアムでの展示風景は、大阪都市協会が出していた『SOFT』No.14号(1995)の「特集・“都市熱”が生み出す時代の尖端ムーヴメント 大阪の美術」の表紙(写真)になっている。逆に言えば、ATCミュージアムならば、日本のマンションの間取りを原寸大でカンヴァスに転写した平面図でも、作品と題して壁面に展示できる訳だ(ところでこうした大阪の文化情報を発信する雑誌、いまはどうなっているんでしょう?)。

Ⅲ.
 絵画作品と展示空間は、当然ながら密接に結びついており、展示場所を住居に限定するだけでも、様々な制限が発生すると同時にいろいろ面白い時代背景や制作の状況が見えてくるのである。今回はこの問題に関連するものとして、調べていて私が「ああ、なるほど」と思った事例を一つ紹介しよう。

 かつてのJR大阪駅の中央コンコースに巨大な陶板壁画《大阪の四季》があった。作者は、法善寺横丁の織田作之助の文学碑の発起人の一人でもある版画家、前田藤四郎(1904−1990)である。前田は、明石に生まれ、神戸高等商業学校(現・神戸大学)卒業後、昭和2年(1927)に松阪屋大阪店へ入社して宣伝に携わった。幹部候補生として2年間、姫路の連隊に入営中、建築用材のリノリウムに“版”を彫る「リノカット」という版画技法を独習した。
 除隊後は、松坂屋を経て昭和4年(1929)、船場の淡路町にある「船場ビルディング」(写真)にある宣伝広告印刷の「青雲社」に入社し、雑誌広告からポスターやショーウインドーのディスプレイにたずさわった。道修町の塩野義商店(現・塩野義製薬)の図案やデザインを担当する一方、「もっぱら前衛絵画の方へ飛び込もう」と志し、「新しいものは美しい」の信念からシュールレアリスムなど前衛美術を意識し、リノカットを駆使して版画の世界で鮮烈な表現を開拓していく。戦後は、万国博美術館を国立現代美術館として再開する推進協議会の二代目代表(初代は吉原治良)などもつとめた。

 大阪アバンギャルドのパイオニアの一人である前田が、いかに大阪を拠点とし、都市のモダニズムの洗礼を受けた美術家であるかを示すのが、次の言葉だろう。昭和8年(1933)の版画誌『新版画』で前田は「今の私の版画姿勢は二つある」と言う。
 一つは「素晴らしい発展をたどる印刷美術を版画に応用すること」、もう一つは「次は私だけの呼び方“三文版画”、あるいは“昭和エピナール”」を実現することである。“昭和エピナール”は、フランスの民衆版画エピナールにちなみ、“三文版画”はブレヒトとワイルの「三文オペラ」に触発された呼称だろう。「大衆の生活諸相を簡単にかつ複雑に表現する版画の意味」と前田は定義する。
 年配の方なら版画というと、板に彫って手摺りした年賀状の素朴な味わいを思い出されるかも知れないが、ここで前田が宣言したのは、最先端の印刷技術の美術作品への応用であり、もう一つが大衆へのアピールであった。

 この時期の作品では、昭和5年(1930)頃の《空中曲技》(写真)は、眼球奇譚よろしく、スリリングな空中ブランコと医学書の解剖図を合成した超現実主義の作例であり、昭和6年(1931)の《屋上運動》(写真)は、モダンスポーツの盛んな時代、球技をする女性たちの背後に、船場ビル屋上から見える大阪の近代建築群を、どこか西欧都市風景のように描いている。そのほかショッピングモールの華やかなショーウインドーケースをモチーフにした《婦人帽子店》《装飾窓》など、新しい市民層の消費生活をとりあげ、都会生活のエスプリを画面に結晶させていく。

 というように、新しい美術表現の世界を開こうとしていた前田藤四郎だが、この時期の版画で、私には少し理解しにくい作品があった。《香里風景》(写真)である。昭和7年の版画展「第三回三紅会」や「第二回版画協会展」などに出品され、ヒバリでもさえずっていそうな郊外の長閑な風景に、波紋のような年輪が強調され、画面の奥にギュンと伸びた材木が転がっている。
 時はまさに昭和初期の“大大阪”の時代、新しく建設される都市の尖端をテーマに作品を制作しつづけている前田にとって、この牧歌的な気分はなにか? なぜ香里風景でなければいけないのか? そこに何が託されているのか? いろいろ分からないことが多かった。
 しかし、平成18年(2006)に「生誕100年記念 前田藤四郎−“版”に刻まれた昭和モダニズム」展を大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室で開催したとき、納得できる事実関係が分かったのである。

 香里、あるいは香里園といえば、近代に京阪電車が開発した住宅地として知られる。現在は寝屋川市と枚方市にまたがるが、明治43年(1910)に京阪本線が開業するに際し、この地域の地名、友呂岐村大字郡(ともろぎむらおおあざこおり)を、阪神沿線の「香櫨園(こうろえん)遊園地」に倣って字を「香里」に当てた「香里駅」が誕生した。大正時代後半から駅の東側に宅地が造成され、京阪の手で「香里園経営地」として住宅が分譲されるようになる。昭和5年(1930)に「香里駅」は急行停車駅にもなり、昭和13年(1938)に「香里園駅」に改称される。
 《香里風景》は、この京阪による宅地開発とつながっているのである。年代月日はさらに精査する必要があるが、急行が停車するようになった翌昭和6年(1931)、現地で「香里改善住宅展覧会」が開催される。「展覧会」というのは、要するにハウジングフェアであろう。そのなかの現地モデルハウスで開かれたのが「室内美術展」であり、《香里風景》はこの「室内美術展」の出品作品だった可能性が高いのである。つまり、最初にあげた項目に沿ってどういうことかと言えば、

1.どんな建築のどのスペースに
 当時、私鉄が競って開発した近郊型の住宅。モダニズムの時代にあってサラリーマン層に提供される田園都市にふさわしい住宅。伝統的な和室を残しながらも、洋風の応接間のマントルピースの上に掛けられる作品。

2.何を目的として、
 家族はもとより郊外の環境の良い住宅地で生活し、環境が悪い都心に通勤する父親も休日は自宅で疲れを癒す。宅地開発をする側が提案する新しいモダン生活のスタイルを明確に演出、補助するものとしての絵画や工芸品の存在。

3.どのような絵画が飾られるのか
 モデルハウスでの美術展覧会なので、来場者の直接の嗜好と異なることもありうるが、主催者である宅地開発側が求めているのは、都市近郊での新しいモダン生活のイメージを提供できるような、明朗で健康的、西欧的な匂いもする洗練された作品。価格の安い版画であることも中堅サラリーマン層の住宅購入への関心を引きやすいかも知れない。

 などなど、「室内美術展」なる展覧会の背後での色々なやり取りも想像できるのであるが、確かなことは、のんびりした《香里風景》は、新興住宅地のモデルハウスにふさわしいモチーフとして構想されたものであり、アバンギャルド精神全開で時代の尖端を抉ろうとする前田の本領を発揮した《空中曲技》のような超現実的作品は、場合によっては小さい子が玄関で立ちすくみ、怖がって泣き叫ぶような事態となって、戦前のサラリーマン家庭でもダメだったのである。
 でも、私ならトラウマになりそうな目玉の《空中曲技》を玄関に掛けますけどね。

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