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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第18回 「雲の峰は大阪の焼けたる煙かな」青木月斗 −この一年を締めくくる掛け軸をどう掛ける−

関東煮にグローバルな大阪を知る

 死にそうに暑かった夏があって、台風の直撃で屋根の一部が被害を受けて大変だと慌てていたら、知らぬ間に神農さんの祭りになって、例年通り屋台で“関東煮”をアテに燗酒を飲んでいるうち、月が変わって年の瀬である。

 この“関東煮”だが、大根やちくわ、はんぺん、卵などを煮込んだ食べ物を、私などは子ども時分から「関東煮(かんとだき)」の名で親しんできた。つまり「おでん」のことである。

 この秋に研究室旅行で台湾の故宮博物院に行ったとき、宿のテレビで映っていた日本のグルメ番組に浅草のおでん屋が登場し、店の大将がご機嫌さんで皿に盛りつけていた“おでん”に振られた中国語字幕が「関東煮」だったことに感銘した。
【図版01】


 昭和40年代前半、小学校の頃を思い出す。長堀橋近くの同級生の家が雑貨兼駄菓子屋を営んでおり、夏はかき氷、冬は「関東煮」を副業にしていた。毎日のように遊びにいって「関東煮でも食べていき」と玉子やちくわをいただいた。最近は大阪でも「おでん」と言うことが多い。 
 しかし、台湾では大阪式の「かんとだき」と呼ばれる食べ物だったのである。大阪はグローバルやん、と改めて自信をもって帰国した次第である。

 思い出すのが、上方落語の人間国宝、桂米朝師匠のはなしだ。東京からの客が大阪見物をして「きみー、大阪には哲学的な食べ物があるんだね。新世界に行ったら看板に“カント煮き”と書いてあった」と言ったというのである。

 ケーニヒスベルク大学のドイツ観念論の大哲学者ゆかりの食べ物なら、毎日、時間通りに配膳される病院食を連想するが、むろん「関東煮」のことである。ナベの中で色とりどりの具材がアバウトに煮込まれているわけで、イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724~1804)も、今煮える関東煮に間違えられそうである。

 ついでに台湾で確認した大阪の誇る世界基準のはなしだが、大阪では1970年大阪万博のときに世界からの来客に対応するため、エスカレーターでは右側に立ち、左側を空けることにしてきた。しかし東京では逆に左に立ち、右を空けている。京都も最近はこの東京式の空け方になびいている。

 出張で東京駅や品川駅に降り立つや否や、さしもの大阪人も通行の障害にならないようにエスカレーターの左側に立つことになるが、そうしたエスカレーターの立つ位置の違いを、東京人は偉そうに、大阪がローカルで特殊であるかのように語ることがある。

 しかし、台湾でもエスカレーターは大阪と同じ右に立ち、左を空けるかたちである。パリでも同じである。大阪式の方がグローバルであったのだ。現在ではエスカレーターは歩かないよう掲示されているが、少なくとも2020東京オリンピックのために東京は反省して、実は大阪式の方が国際ルールであったことを啓蒙しないといけないのではないか。老婆心ながら思ったりするわけである。


近代都市景観の写真を読み解く

 ウダ話はさておき、今年もいろいろ美術関係の仕事をさせていただいた。

 展覧会は、監修などを含めて3つにかかわった。大阪大学総合学術博物館と豊中市立文化芸術センターでの「探求の旅、描きとめる熱情 洋画家中村貞夫展」、大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)での大阪市中央公会堂竣工100年記念・特別展「大大阪モダニズム−片岡安の仕事と都市の文化−」、堂島リバーフォーラムでの関西経済同友会主催、運営協力・公益財団法人関西・大阪21世紀協会の「なにわの企業が集めた絵画の物語」展である。

 展覧会というには規模も小さく、資料の掲示程度だが、大阪市中央公会堂の展示室では、開館100周年記念展示「橋爪節也プロデュース アートでひもとく中央公会堂の100年」などというのもさせていただいている。

 講演地獄にもはまりこんでいて、11月末から最近では、逸翁美術館「百貨店で花開く−阪急工美会と近代の美術家たち−」展、大阪大学での大阪朝日会館のシンポジウム、和歌山県立近代美術館の特別展創立100周年記念「国画創作協会の全貌展」で講演した。1月もシンポジウムや講演会が4つ控えている。

 出版では11月に刊行された『写真アルバム 大阪市の昭和』(樹林舎)の監修も行った。
【図版02】


 他の執筆者と手分けしたとはいえ、全体で600枚を超える写真があって大変な作業だった。古い大阪を写した写真がどこを描いたのか、いつ撮影されたのかを特定するのに苦労したのである。

 しかし、こうした写真の解説は、「大大阪モダニズム」展でも大阪を描いた絵画が具体的にどこから描かれ、どんな建物を描いたかを探るのに昂奮したが、謎解きがスリリングで大いに愉しんだのである。

 その『写真アルバム 大阪市の昭和』より、重要文化財の綿業会館(大阪市中央区備後町2丁目)を管理する日本綿業倶楽部から提供いただいた、終戦すぐのカラー写真について、どのように被写体を特定したか紹介してみよう。


終戦直後を写した貴重な写真−空襲の惨禍

 まずは、この写真である。
【図版03】
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵

 通りを往来する人々の向こう、画面左上に時計台の塔がそびえている。大阪市の中心部には、いくつか時計台があり、それを探ることで場所が特定できるはずだ。そういった観点で写真を手にして眺めてみる。

 すると時計台に特徴があることに気がつく。大阪の都心部は船場、島之内など通りが碁盤目状に通っており、時計台も通りに平行して立っているケースが多いのだが、この時計台は45度、首をふった形である。

 ははぁーん、こうした斜めの時計台ですぐに思い出すのが中之島の朝日新聞本社ビルである。
【図版04】
肥後橋南詰の東側、大同生命ビル辺りから撮影
肥後橋南詰の東側、大同生命ビル辺りから撮影

 それに決まり、いっちょうあがりと思ったが、よく見ると塔の形が異なるし、地図に落とし込んでみると、時計台と通りの位置関係が中之島界隈では一致しない。

 首をかしげながら、次に昭和3年(1928)の『大大阪画報』(大大阪画報社)のページをくってみた。なんと他にも時計台が45度斜めになった建物があるではないか。『大大阪画報』にパース図が掲載されていたのは、高麗橋にあった旧・第三十四国立銀行である。
【図版05】
『大大阪画報』より
『大大阪画報』より

 高麗橋の地図にあてはめてみると、中央のまっすぐな道は丼池筋であり、中央右側の煉瓦建築は第百三十銀行大阪支店、右手の壁と建物は隣町の伏見町にあった大阪貯蓄銀行だと分かった。これが終戦直後の船場の街なのかぁ、とあらためて息をのむ。

 さい先はよし、と次の写真を取り出す。空襲の惨禍を綿業会館の屋上から記録した2枚である。
【図版06】
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
 遠くに大阪城天守閣と大阪府庁とを望むことから、綿業会館より東北東を写したことが分かる。右側手前の建物は、上部の窓あたりの装飾が三角形にとんがっているのが特徴的だが、この形、どこかで見たことがあると思った。

 それもそのはず、「大大阪モダニズム」展で設計図を展示した、かつての白木屋百貨店(後の東急百貨店)のビルである。『大大阪画報』の写真は、堺筋に面した東側の正面入口だが、焼け跡の写真は西側の裏面を写している。
 白木屋百貨店は昭和7年(1932)にこの地から撤退しているので、終戦時は、第二野村ビルであった。
【図版07】
『大大阪画報』より
『大大阪画報』より

 眼下の道は瓦町通り(東西)で、交差しているのが堺筋(南北)。綿業会館のある備後町とも矛盾しない。大阪のメインストリートである堺筋に人影はほとんどない。白昼に静寂だけが広がっている。
 大正末から關一(せき・はじめ)大阪市長を中心に営々と築いてきた「大大阪」の街の繁栄が、幻となっている。

 もう一枚。
【図版08】
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
       

 遠くは六甲山から北摂の山々で、見馴れた山並みである。画面中央やや遠方、「真珠塔」の愛称で親しまれた朝日ビルディングの航空灯台が望まれる。画面中央の黒い建物は御堂筋のガスビルらしい。大阪ガスの社史に、戦時中、空襲に備えて黒く迷彩色に建物を塗ったことが記されているが、これほどはっきり分かる写真は貴重である。

 東西を横切る通りは、手前から順に瓦町、淡路町、南北の道は丼池(どぶいけ)筋となる。焼け残っている街並みはガスビル南側の通りにあたる平野町と淡路町の北側で、今も平野町付近には古い建物が残っている。

 2021年度に開館する[大阪中之島美術館]に作品が寄贈された版画家・前田藤四郎(1904~90)の自宅も、この写真に写る焼け残った一軒で、当時の平野町3丁目である。シュールリアリズムなど前衛的な戦前の前田作品を現代でも鑑賞することができるのは、このときに焼け残ったおかげである。
【図版09】
前田藤四郎《ベンチレーターと子供》1931年(大阪中之島美術館蔵)。淡路町の船場ビル(現存)屋上で描く。ビルは残ったが、通りを隔てた背後の船場の街も爆撃で壊滅した
前田藤四郎《ベンチレーターと子供》1931年(大阪中之島美術館蔵)。淡路町の船場ビル(現存)屋上で描く。ビルは残ったが、通りを隔てた背後の船場の街も爆撃で壊滅した

 少し確定に手こずったのが、ガスビルの手前にある特徴的な煉瓦造りの建物である。これは何の建物か。これが特定できないと、前後の通りも厳密には確定できない。また、この建物はきわめて特徴があり、大阪の近代建築史を語る上でも意味があるだろう。

 調べる手がかりになったのが、大阪市立住まいのミュージアムの「大大阪モダニズム」展で展示されていた東亜地誌協会発行の吉田豊制作『大大阪市市勢大観:鳥瞰式立体図』(大阪市立図書館所蔵)である。

 現在の著作権者が分からないため図版掲載が許されていないが、昭和10年(1935)の大阪を上空から見た形で描いた詳細なパノラマであり、市内の主要な建物が描き込まれている。問題の煉瓦建築も描かれ、そこには「大澤商会」と書き込まれていた。

「大澤商会」を糸口に建物を調べていくと、次第に疑問が解けてきた。明治35年(1902)に日本貯金銀行本店として竣工し、後に大澤商会大阪支店となった建物と分かった。本来は塔の先端にとんがった三角屋根があったのだが、【図版8】の写真では失われている。
 爆弾に打ち砕かれたのか、焼け落ちたのか、空襲の激しさを物語っている。
【図版10】
このように特徴的な三角屋根があった
このように特徴的な三角屋根があった

 ここからが面白いのだが、「大澤商会」が分かったことで、最後まで場所の特定が難しかったこの写真の問題も解けた。
【図版11】
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵

 右側は古い商家が残り、左側は焼け跡だろう、空き地になっている。幼い子どもが集まり、みんなニコニコしている。背後の店の看板の文字が読みとれれば、当時の電話帳をめくって所番地を調べることも出来るが、写真からは読みとれなかった。
 みなさんは何処だと思いますか。正解は最後に書くことにします。


大阪駅前の闇市と船場の進駐軍

 闇市を撮影した写真もある。
【図版12】
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵

 これもその1枚だが、高い位置から撮影したらしく、本当にそんな高い建物があったのか、これも撮影場所を特定しなければならない。

 遠くに見えるのが大阪城天守閣である。その右手前に梅田新道にあった古い同和火災のビルが見える。天守閣と同和火災を地図にトレースして定規で線を引いてみる。シャッターを押した位置は、その延長線上だ。となると、どうやらそこにあったのが、大阪駅前の中央郵便局である。 
 昭和14年(1939)に竣工したばかりのモダニズム建築の名作である。

 この建物については少し言いたいのだが、同じ吉田鉄朗設計で、東京駅前丸の内側にある東京中央郵便局と比べても、大阪のほうが完成度に優れた名作だった。どんな建物であったかは、第10回のコラムに写真が掲載されている。

 東京の中央郵便局は外観保存され、復元修復された辰野金吾の東京駅舎とともに、都市の入口の顔としていたのに、大阪は反対運動を押し切ってあっさりと壊してしまった。実に残念である。

「大大阪」の時代でなくてはあり得ない建築であり、昨今、流行の観光都市を目指すためにも貴重な文化資源であったのに、この点の大阪はグローバルな都市とは言いがたい気がする。

 写真に戻ると、撮影場所が推定できたので、画面手前の草の生えた空き地が現在のヒルトン大阪付近であることが分かり、空き地を背に立つ家の向こう側に、湾曲した道に沿って街路樹が並んでいることにも気がつく。画面の向こうには御堂筋の並木が見えるが、この見下ろした手前にある並木道が、現在の大阪第一ホテル(マルビル)の西北の道路にあたる。

 しかし、大阪駅前にこんな整然と街路樹が並んでいたのか。それが気になって確認のために調べてみたが、戦前は計画的に空地の状態に置かれ、街路樹が整備されていたことが分かった。
 この街路樹に沿って並ぶのが闇市らしい店舗である。また、この付近、全部空襲で焼けたと思っていたが、現在の大阪駅前第1ビル、第2ビル辺りに古い家が残ることも分かる。

 そして次が、いわゆる闇市と思われる商店が建ち並ぶ写真である。
【図版13】
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵

 背後右端の建物にある「阪急百貨」(「店」の字は建物の陰で見えない)の文字から、現在の駅前第4ビル付近と思われる。

 中央の店は、屋根に葭簀(よしず)で日よけを設け、縞模様の傘を掲げる[皆様のシマヤ]。看板からは、シマヤの手前奥に、純中華料理の[華豊楼]があるらしい。土星のマークの[Orion]は階上喫茶で、アイスクリームも扱っている。
 軍帽姿の男性が何人も歩き、軽食の[永照堂]、鞄の[フジヤ]、カメラ店や印刷屋のほか、[紅珍楼]などの店名も読める。奥では新しい店舗が急ピッチで建設中である。

 都心における進駐軍関係の写真もある。
【図版14】
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵
一般社団法人日本綿業倶楽部所蔵

 淀屋橋付近の御堂筋を南方向に撮影したもので、左の大きな建物は手前から安田ビルディング、道を1本挟んで南側に日本生命本店、御堂筋にジープが停車している。歩道を行く女性たちの表情が明るいのも印象的だ。

 歩道に突きだした看板には「25th Infantry Division」と記されている。昭和27年(1952)まで日本生命本店を接収した米軍第25歩兵師団のことで、同師団は、ガダルカナルでは日本軍と戦い、昭和25年(1950)には朝鮮戦争にも参戦した。

 右の緑地帯の地下鉄淀屋橋駅の入口に、金を失うのを嫌って、「地下鉄」の「鉄」の字を金偏に「矢」で書いた案内があるのが、いかにも商都大阪らしい。

 こうした写真を見るたびに私は、自分の小学生時代を思い出す。近鉄上本町駅に「鉄」の字を「矢」で書く大きな看板があり、書き取り試験でそのとおり書いて、バツにされ、理不尽な思いをしたことがあった。いや近鉄が悪いのではない。こうして原稿に書けることに感謝している。懐かしい古き大阪の記憶である。


雲の峰は大阪の焼けたる煙かな

 ところで本コラムの「絵を飾る人のキモチ」についてである。古い写真の考証を続けたことで、大阪大空襲が気になっていたところ、古書店で俳人青木月斗(げっと/1879~1949)の俳句を書いた扇面を入手した。
【図版15】


「雲の峰は大阪の焼けたる煙かな 大和山里にて」

 月斗は船場に生まれた。家業は薬屋である。俳誌『ホトトギス』に投句して正岡子規に認められ、俳誌『車百合』や『同人』を主宰するなど、大阪で俳諧における指導的役割を果たした。妹は同じ廃人で随筆家の河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう/1873〜1937)に嫁いでいる。昭和20年(1945)、奈良県大宇陀町に疎開し、昭和24年に歿した。

「雲の峰」は夏の季語である。戦後も宇陀にあって、夏空にむくむくと湧き起こる入道雲が「大阪の焼けたる煙」に見えてきて、山を越えた故郷大阪の空襲を、生々しく思い起こした心情を詠んだものではなかったか。

 大阪大空襲は、昭和20年3月13日、14日から始まる。6月、7月、8月と続いた。奈良盆地からは大阪が燃える焔が、生駒山を越えて夕焼けのように赤々と見えたという。

 絵ではなく書の軸だが、『写真アルバム 大阪市の昭和』を監修したことで気持ちが当時の大阪の街に入っている。この句軸を、床の間のないわが家だが、家のなかに掛けておきたい、掛けねばならぬ、そんな気持ちが起きてくる。

 お目出度い新年を言祝ぐための軸ではないので、最初に大阪が爆撃された3月に掛けるのがよいのか、終戦の8月がよいか、そんなことも考えはするが、今年1年の自分の仕事を締めくくる象徴的な軸の気がして、前の書棚に吊り下げ、コラムを執筆している年の瀬です。

 さて【図版11】の解答です。
 頭を痛めながらも周囲の建物を眺めていて、ふと場所が分かった。子どもたちがいる場所は、ガスビルが写っている写真【図版8】の焼け跡付近ではないか。
 背後にある建物の窓も、綿業会館屋上から撮影した大澤商会の窓と一致する。

 淡路町の通りを挟んで、南側は焼失し、北側は焼けずに残ったことになる。写っている子どもたちは、疎開先から帰った北側に住む家の子たちなのだろうか。片足を車輪のついた板に乗せて遊ぶキックスケーターを持つ子もいて、裕福な商家の子どもたちだろう。
では、家を失った南側の子どもたちは今どうしているのだろうか。

 子どもたちの明るい笑顔に、人の運命の明暗を感じさせられる一枚である。

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