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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第2回 「夫婦善哉」の時代を飾った洋画家・小出楢重

Ⅰ.
 近代を代表する大阪の役者は初代中村鴈治郎(1860〜1935)だが、画家では小出楢重(こいで・ならしげ/1887〜1931)、小説家は“オダサク”の愛称で親しまれる織田作之助(1913~1947)だろうか。
 織田は坂口安吾、太宰治らと“無頼派”と称され、34歳で没したが、大阪人に深く愛された。口縄坂には「木の都」(1944年)の文学碑があるし、「夫婦善哉」(1940年)の舞台である法善寺横丁には「行き暮れてここが思案の善哉かな」の句碑がある。文学賞「織田作之助賞」も制定され、彼が愛した名物カレーで有名な千日前の[自由軒]には、「トラは死んで皮をのこす/織田作死んでカレーライスをのこす」と書かれた額入りの写真が飾られている。

 その“オダサク”が南区生玉前町(現・天王寺区)に生まれて今年が100年である。それを記念して大阪歴史博物館ではオダサク倶楽部を中心に、特別企画展「生誕100年記念 織田作之助と大大阪」(9月25日~10月18日/火曜休館)が開催される。NHKでも8月24日から土曜ドラマ「夫婦善哉」(連続4回)を放送している。
「夫婦善哉」の映画化では、森繁久彌、淡島千景が主演した東宝作品(1955年)が有名だが、今回のテレビは、現役バリバリの売れっ子、森山未來と尾野真千子が演じる。近年、発見された別府を舞台とした「続夫婦善哉」も原作に用いられ、新しい物語も加えられた。大阪発として制作者の意気込みも凄まじく、法善寺横丁のオープンセットを東映太秦映画村に作ったほどである。

 平成の「夫婦善哉」がどのように現代日本に受け入れられるか楽しみだが、この時代考証を私が担当した。といっても初めての時代考証であり、専門外の質問も多く苦心し、例えば、尾野真千子が扮する蝶子の実家は生國魂(いくたま)神社界隈、がたろ横丁の安い一銭天麩羅屋だが、明治末の設定で店のセットに蛇口をつけてよいか質問を受けた。
 浄水場から日本橋の南あたりまで水道の基幹が通っていたことは確認できたが、がたろ横丁にまで行っていたか、借家に家主が蛇口を設置していたかはなんとも言えない。こんな調子でスタッフの様々な疑問に答えたのである。
 
Ⅱ.
 さて『夫婦善哉』の単行本は昭和15年(1940)に創元社から刊行されたが、装釘したのは洋画家・田村孝之介(1903~1986)である。
 実家は南船場の心斎橋筋(旧東区南久太郎町)の書店で、東京で学んだ後、帰阪して西区の信濃橋交差点に開設された信濃橋洋画研究所で小出楢重、鍋井克之らに師事する。田村は「朝日会館」の機関誌『会館藝術』を装釘したほか、戦後も織田の『猿飛佐助』『素顔』『それでも私はゆく』を装釘する。
 
 この田村の師匠で、日本近代洋画を代表する小出楢重に「絵を飾る人のキモチ」を考えさせられる作品がある。
 大正14年(1925)、神戸市東灘区住吉山手に、住友工作部につとめ阪神間の洋風住宅を数多く設計した建築家・笹川愼一設計で、実業家・小倉捨次郎の住居が新築された。スパニッシュ・スタイルの洋館である。その応接間と食堂の間仕切りの壁に小出は7枚の静物画を描く。そのうちの2枚は卓上の蔬菜(そさい)をモチーフにし、慈姑(くわい)や玉葱、人参などの蔬菜類は隣室が食堂であることによる選択だろうが、シャープな形と艶やかな色彩が笹川の設計にふさわしくモダンである。

 ここで思いを馳せたいのが、大規模な展覧会の作品ではなく、個人の邸宅を飾るためにこうしたスタイルを選んだ小出の「絵を飾る人のキモチ」である。この画風に到達するまで、小出も試行錯誤を重ねていた。

 小出は、道頓堀や宗右衛門町に近い長堀橋筋の薬舗[本家小出積善堂]に生まれた。幼少期を語る随筆「下手もの漫談」には、まだ活動写真(映画)が発明されていない時代、千日前で

「地獄極楽の血なまぐさい生人形と江州音頭の女手踊りと海女の飛び込み、曲馬団、頭が人間で胴体が牛だという怪物、猿芝居二輪加、女浄るり、女相撲、手品師、ろくろ首の種あかし」
 など見世物を観たことを記す。濃密な大阪南地の空気を吸い込んで成長したのである。
 市岡中学校(現・府立市岡高校)の一期生として入学し、同級には東洋学者の石濵(いしはま)純太郎、作曲家の信時潔(のぶとき・きよし)がいた。明治40年(1907)東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)に入学。卒業後、帰阪し、大正8年(1919)の第6回二科展の《Nの家族》で樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞した。
 《Nの家族》は、緑の赤の色彩と細密な描写によって全体的にねちっこい印象がある。作品を描いた鍛冶屋町(現・中央区島之内)のアトリエは、八幡筋から路地を入った奥の三軒長屋の一軒で、床の間を背に畳にイーゼルを立て描く小出の写真があるが、この絵も日本家屋で描かれた油彩画であった。

 小出が変化するのが大正10年(1921)から翌年にかけての渡欧体験からである。渡欧の影響は大きく、画風も渡欧前の草土社風の写実から、モダニズムの香り高い洗練されたスタイルへ変貌する。といってもここが凄いのだが、いわゆる西欧文明を無批判に礼讃、帰国後は「いやあ海外はすごいよ、君ィ」と偉そうに語るような“赤ゲット”(西洋の風習に慣れない初めての洋行者、の意)のお上りさんではなく、小出はまったくパリに圧倒されていない。石濵純太郎に宛てた書簡の内容はまったく正反対。画家としての明確な審美観とはっきりした自己主張があり、都会生まれの都会育ち、歴史ある大阪文化が身に染みついた筋金入りの都会人と感心させられる。
 大正10年、小出は神戸からフランスへと出港し、9月17日にマルセイユに入港、翌日パリのリヨン駅に到着した。僅か1週間後、9月24日付の書簡になにが記されたか。

「Hotel de Geneveで泊つて、夜行で、巴里へ到着した、今日までは、四五日になるが、とても、手紙もハガキ一枚かく気にもならぬ、とても一言半句も、出ない、何から何までが想像以上だ、想像以上に奇麗なものは、パリの女だ、想像以上に、気楽なのは、パリの生活だね、そして、想像以上に、悪いのはParisの絵だ」
 パリに到着して5日目の手紙で「想像以上に、悪いのはParisの絵だ」と言い切る。画商めぐりの感想も以下の通り。

「マチスやルノアールやゲランやドニ、ピカソ、アンリールーソーやモネやその他現代のハヤリ兒の画や、セザンヌなどが、ウルサイ程並んでゐる、いいものはすバラしくいいが、大体から云へば実につまらない、流行兒の画ときては、とても話しにならぬ二度と見る気になれない、それがテクニツクだけは皆スバラシクハネクリまわしてゐるから尚ほ更らたまらない、やはりセザンヌにいゝものがあり、ゴツホの静物には大変ないいものがルーブルにある」
 マチス、ルノアール、ピカソ…でも「いいものはすバラしくいいが、大体から云へば実につまらない」のである。さらに言う。

「何んと云つても油絵はフランスだとか云ふ奴がよくゐるがフランスには油絵はどつさりあるが芸術は無いと云つてもよさそうだ、日本で己れが考へてゐた以上に、俺れは、ハツキリと、確言する事が出来る、フランスでこれだから西洋には、今の処は、いいものは無い」
 はじめてパリに行った日本の洋画家が、果たしてこんなことを言えますかね。トドメに
「パリへ来て、芸術が無いので失望したと云ふのは、変だが、ね、然し、金持ちに存外ケチ臭いのが多いからね、それとよく似てゐると思ふ」
 とつけ加える。小出がなぜそう考えたかは、アトリエ社刊『油絵の新技法』(1930年)に集約されているので興味のおありの方は同書をご参照下さい。

 批判的なパリ画壇への眼差し。小出は特定の画家の影響を受けたわけではなかった。しかし、すでに述べたように帰国後、大きく画風が変貌する。小出がパリ遊学で一番実感したのは、明治以降、日本に入った油彩画を学ぶには、日本人はスタイルを小手先だけで学ぶのではなく、西洋における油彩画の伝統と、それを支える生活スタイルを身につける必要があるということだったのである。
 帰国後、小出は洋画を指導すべき立場となり、大正13年(1924)、鍋井克之、黒田重太郎、国枝金三らと信濃橋洋画研究所(小出没後、移転して中之島洋画研究所)を開いた。田村孝之介が学んだ研究所だ。そして西洋の油彩画を描くには、西洋の生活そのものをとりいれ実践しないといけないと考えた。その翌大正14年に描かれたのが小倉家の壁面装飾だったのである。奇しくもこの年は、大阪市が第2次市域拡張で東京市を抜いて日本最大の都市“大大阪”になった年でもある。

 さらに大正15年(昭和元年、1926)、小出は、心斎橋筋「小大丸」の白井忠三郎の別荘があった武庫郡精道村(現・芦屋市川西町)に転居する。昭和2年(1927)には、小倉邸と同じ笹川愼一設計のアトリエを竣工させ、本格的に生活そのものを洋風に切り替えた。パリの画家と同じようなアトリエで油彩画を描けるようになるのである。 
 アトリエは現在、芦屋市立美術博物館に移築され、雰囲気をいつでも味わうことができるが、1924年の《帽子を冠れる肖像》は、そうした生活そのものをあらためた画家の肖像であった。画風も、《Nの家族》が畳にイーゼルを立てて創作した土着的でねっとりした作品とすれば、重厚だが、艶やかで深い透明感さえある洗練されたスタイルへと変化していく。

 新しい洋風生活と新しい住宅の誕生が、洋画家の生き方を変化させた。小出の絵は、日本人が洋画を生活にどのように受け入れるか実験を重ねた帰結点とも見えないこともない。
 そして「絵を飾る人のキモチ」を、小出の変貌に沿って探った場合、現代ならば多様な住居形式があり、この空間ならば何を飾るべきか選択肢も多様で、選択に多少の贅沢な悩みもありうるが、近代においては、生活空間の変貌そのものが、西洋文化の受容という大きなテーマのなかで、画家の芸術スタイルをも変貌させていく。ある意味、小出が室内に飾った作品そのものは、画家の目線から見た時代精神や文明批判そのものだったと言えるかもしれない。


Ⅲ.
 そこで“オダサク”に戻るのだが、土曜ドラマを演出した安達もじりさんに「絶対面白いから小出楢重をドラマ化しはったらどうですか」とご迷惑を承知の上で提案した。小出も織田も南地ゆかりで、たたみかける文章も似ている気がする。
 織田は『夫婦善哉』に登場するB級グルメの店を随筆「大阪発見」で触れ、味噌汁専門の「しる市」について

 「喫茶店や料理店レストランの軽薄なハイカラさとちがうこのようなしみじみとした、落着いた、ややこしい情緒をみると、私は現代の目まぐるしい猥雑さに魂の拠り所を失ったこれ等の若いインテリ達が、たとえ一時的にしろ、ここを魂の安息所として何もかも忘れて、舌の焼けそうな、熱い白味噌の汁に啜りついているのではないかと思った。更に考えるならば、そのような下手ものに魂の安息所を求めなければならぬところに現代のインテリの悲しさがあり且つ大阪のそこはかとなき愉しさがあるといえばいえるであろう」
 と書いている。
 これを読んで思い出したのが小出の「下手もの漫談」だ。この随筆は最後を

「何しろ、私は下手なるものの味をより多く味わい馴れているためか高尚な音楽会も結構だが、夜店の艶歌師の暗に消え行く奇怪な声とヴァイオリンに足が止まり、安い散髪屋のガラス絵が欲しくなり、高級にして近づきがたい名妓よりも、銘酒屋のガラス越しに坐せる美人や女給、バスガアル、人絹、親子丼、一銭のカツレツにさえも心安き親愛を感じる事が出来る」
 と締めくくる。

「下手ものに魂の安息所」を求める悲しさに「大阪のそこはかとなき愉しさ」を指摘する織田と、「一銭のカツレツにさえも心安き親愛を感じる事が出来る」小出の感性は大阪人本来の優しさではなかろうか。
 小出はモダニズムを代表する画家として名作を残し、『めでたき風景』などの優れた随筆も残したが、自嘲気味に「骨人(こつじん)」と称したように体質が弱く、昭和6年(1931)に43歳の若さで没した。そこで、二人が長生きしていたら、大阪らしいすばらしい作品の競演が見られただろうにと嘆いてしまう私だが、まあ、これは「絵を飾る人のキモチ」からは少しテーマがはずれましたかね。

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