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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第9回 サクラ咲く国のサクラの絵

サクラの絵二態

 また春が来てしまった。今年もサクラが満開だった。

 花の下にて春死なむ(西行法師)と歌ったり、桜の樹の下には屍体が埋まっている(梶井基次郎)と夢想したり、桜満開の山を縫う川を挟んで悲劇(『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』)がおきたり、四姉妹で京都に花見に行ったり(谷崎潤一郎)、大和心を朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)にたとえたり、『櫻画報』(赤瀬川源平)とか、桜吹雪が見えねェかい(遠山の金さん)とか、春高楼の花の宴(「荒城の月」)など、いろいろ大変でいそがしい。

 短期間に霞か雲かと咲きほこり、雨が降れば、さっと散るサクラは、日本人の心情や生活習慣に深く影を落としている。
 さて住ムフムラボの居住空間で、そのサクラとどうつきあおうかと、桜茶に桜餅をつつきながら考えてみた。



 サクラを描いた絵は古来より沢山ある。いつもながら、床の間のあるお宅が少ない現代の話として恐縮だが、季節の画題としてこの時期にこそ床の間に掛けられる掛け軸があるだろう。
 正月には、初春のおめでたい吉祥的な画題が掛けられていたのが、梅や桃、雛祭りの季節に移り、春のサクラの絵になる。掛け替えることで、日常の居住空間がリフレッシュされるのである。

 江戸時代の画人でサクラを描く名手には、三熊花顛(みくま・かてん/1730~94)が知られる。長崎の画家・大友月湖に学んで写生派の画法を学び、サクラの絵を得意とした。有名な伴高蹊(ばん・こうけい)著『近世畸人伝』に挿絵を描いたほか、文才もあって続編の『続近世畸人伝』を著している。
 その妹の三熊露香(ろこう)もサクラの絵を得意とした。

 近代では、大阪に生まれ、京都で幸野楳嶺(こうの・ばいれい)に師事して、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の教授として後進の育成に尽力した菊池芳文(ほうぶん/1862~1918)がサクラを得意とする。

 芳文は、同門の竹内栖鳳(たけうち・せいほう)、都路華香(つじ・かこう)、谷口香嶠(たにぐち・こうきょう)とともに「楳嶺門下の四天王」と称され、大正3年(1914)の第8回文展出品で屏風に描かれた大作《小雨ふる吉野》(東京国立近代美術館所蔵)が賞讃されて「桜の芳文」の異名をとる。
 軸物では、大阪市の新美術館建設準備室が持っている、バルビゾン派のコローを思わせるように叙情的に、雨にけぶる吉野の桜を描いたものが優品だ。



 一方、季節を越えて美しい春の情景を一年中、鑑賞したいという願望を満たしてくれるのが、襖絵に描かれたサクラだ。

 最近では、平成20年(2008)、今治市の西向山万福寺本堂に中島千波(ちなみ)が、しだれ桜を描いた襖絵《春輝枝垂櫻》を奉納し、平成22年には光明皇后1250年御遠忌法要を記念して、小泉淳作によって東大寺本坊に《桜》《蓮》の襖絵が奉納された。平成27年には同じく中島千波が、弘法大師が高野山に密教の道場を開いて千二百年を記念した事業の一環として金剛峯寺奥殿に、宇陀の又兵衛桜、上賀茂神社の斎王桜、仏隆寺の千年桜をモチーフにした障壁画を描いている。

 季節ごとに架け替える掛け軸ではなく、障壁画に描かれたサクラには、存在そのものが生命であり、宇宙なのだという哲学さえ感じさせる。

▲中島千波《春輝枝垂櫻》(西向山万福寺襖絵)

 この襖絵、障壁画とも呼ばれるのだが、室町時代より狩野派を中心に「真行草(しんぎょうそう=表現法の三体=真は正格、草はくずした風雅の体、行はその中間)」「画体」といった、それらをどのように描き、構成するかの約束事が整備されてきた。
 このシステムは、近代的な芸術とは別の次元の話として、絵画のありかたを示して興味深く、現代の住まいにおける内装のアイディアにも通じるのだが、蘊奥(うんおう)は次回以降に譲りたい。

 いにしえの古典絵画中の名画として知られるサクラの襖絵に、京都市東山区にある智積院の襖絵があげられよう。智積院は京阪七条から七条通りを東に進み、京都国立博物館を過ぎた先にある寺院である。

 真言宗智山派総本山であるこの寺院には、桃山時代に活躍し、狩野永徳と画壇の派遣を争った長谷川等伯(1539~1610)と一門が描いた豪華絢爛たる障壁画 25面(国宝)がある。
 2010年に京都国立博物館で、没後400年の大規模な等伯の特別展が開催されたことは記憶に新しい。千利休との関係や国宝《松林図屏風》(東京国立博物館蔵)も有名だ。

 智積院にある長谷川派の障壁画は、もともと天正19年(1591)、豊臣秀吉が、3歳で夭折した嫡子・鶴松の菩提寺として建立した祥雲寺に描かれたものである。有名なのが、等伯が描いた《楓図》と、記念切手にもなった長谷川久蔵(1568~1593)の《桜図》で、桃山時代らしく、金箔による雲や霞のなかに立つ巨木に、春と秋の情趣を描く。

▲ 《桜図》が映える大阪万博の募金用記念切手(1969年)

 《桜図》を描いた久蔵は、等伯の息子で、父親が描いた《楓図》のような骨太のダイナミックな感じはないが、若い画家らしい繊細で優美な感性がみとめられる。残念ながら久蔵は26歳で没してしまう。作品数はあまり残されていないが、《桜図》を見る限り、その画才を父親も期待していたに違いない。

 そのほか京都には、サクラを描いた襖絵が各所にある。二条城黒書院には《桜花雉子図》があるし、大徳寺真珠庵の通僊院(つうせんいん)にも土佐派によるサクラを描いた襖絵がある。通僊院は、正親町(おおぎまち)天皇の女御の化粧殿を移築したものといわれ、襖絵に描かれた、ほろほろと散る花びらは優しく繊細である。



 画面構成でみた場合、襖絵は、掛け軸のように縦長ではなく、横方向に画面が連続し、座敷そのものをとり囲むような配列がなされていることである。端的にいうならば、襖絵はいわゆる“壁紙”であり、人間の居住空間のなかに別の世界を出現させることを目的とした環境アートである。
 床の間の絵画が、一点に視線を集中させて心を和ますものならば、襖絵は、市中にある住まいにいながら、さも山林の奥にいるかのように錯覚させるものである。パノラマ的絵画、トリックアートと言えるかも知れない。

 なお、古い襖絵を見ていて気になるのが、サクラの花を描いた部分が盛り上がっていることだろう。これは貝殻などを材料とする「胡粉(ごふん)」と呼ばれる白絵具を盛り上げて描かれている。
 技法書によると、こうした盛り上げに用いる「胡粉」は、普通の「胡粉」では絵具が乾いてから中に空洞ができるために陥没するので、「くされ胡粉」といって、トロトロのペースト状にした特別製のものを用いるという。乾燥すると「くされ胡粉」は、なかがビッシリ詰まったサクラの花びらになるのである。

▲ サクラの表現に落雁はうってつけの素材だ

 和菓子の“最中”は、皮の部分がぱりっとして、中に柔らかい餡子が詰まっているが、盛り上げられたサクラの花は“落雁”である。襖絵を見ると、いつも奇妙に和菓子を食べたくなるのは、そのせいだろうか。


恒富とサクラ

 サクラを描いた絵で思い出深いのが、私が監修し、平成15年(2003)に東京ステーションギャラリー、石川県立美術館、滋賀県立近代美術館を巡回した北野恒富(つねとみ/1880~1947)の作品である。
 恒富は金沢に生まれ、早くに大阪に出で大阪画壇の中心的画家として活躍した。活動の拠点を大阪南地(なんち)の宗右衛門町などにおき、妖艶な美人画を特色とする。

 恒富がサクラを描いた絵はいつくかある。例えば、大阪市立美術館蔵の《夜桜》は昭和18年(1943)の「戦時文化発揚 関西邦画展覧会」の出品作である。この展覧会は、大阪市が建設した市立美術館(天王寺区茶臼山町)の内容を充実させるため、画家に揮毫を委嘱し、住友家から市に作品を寄贈しようと計画されたもので、画家の選定や企画は朝日新聞社に一任された。
 上村松園《晩秋》、中村貞以《芸能譜》のほか、橋本関雪《讃光》、中村大三郎《山本元帥》などの作品は戦時下の時局を感じさせる。

 ところがである。恒富によると《夜桜》は、仲間と保津川下りをして嵐山に泊まり、春の夜を楽しんだ思い出から着想されたという。舞妓が空を見上げているのは、戦地を気遣っているのだという解釈をする人もいるが、恒冨は「京の舞妓も時局の流れに添ふてなくなるさうな、とそんな噂を聞かされ、一筋に惜別の筆が動いたと云へるかも知れない」と語っている。
 恒富は、戦時下に黙々と『細雪』を執筆しつづけた谷崎潤一郎とも親しく、いかに大阪の画家が心理的に戦争から遠い所にいたかを示すようにも感じられる。



 もうひとつは、さかのぼって大正後半の《淀君》(大阪新美術館建設準備室蔵)である。この絵には、視覚的な罠が張りめぐらされている。
 明治末から大正にかけて恒富は、仲間の画家たちと古社寺を訪ね歩いた。あるとき醍醐寺を訪れる。寺に到着したのは静かな黄昏時で、満開の枝垂桜の美しさに夢心地に陥ったという。

▲北野恒富《淀君》(1920年/大阪新美術館建設準備室蔵)

 この作品は、慶長3年(1598)、その醍醐寺で開かれた秀吉の醍醐の花見でのヒロイン淀君を描き、凜として気位高い絶頂期の姿となっている。彼女の前を、花びらがひらひらと舞い落ちていく。
 史実としてこの観桜会では、中国の楊貴妃の故事に因み、花を鳥からまもる護花鈴(ごかれい)が枝から枝にめぐらされた。画中にも釣り下げられた鈴が描かれている。

 面白いのは、背景の右側、上から下まで引かれた一本の縦の線である。この線は何だろうか。



 実はこの線は、満開のサクラに囲まれた醍醐寺境内の花見の席上、淀君の背後に桜花を描いた屏風があることを示し、縦の線は屏風の折れ目である。花のかたちも久蔵が描いたように図案化され、「胡粉」で盛り上げられ……という描写なのだろう。

 つまりこの絵は、背後にある屏風絵に描かれた画中画の虚構のサクラと、絵のなかの淀君にとっては現実である、サクラの樹から舞い落ちる花びらとを錯綜させているのだ。桃山の絢爛豪華な雰囲気や憧憬を夢幻的に表現しつつ、鑑賞者の視覚をトリッキーに誘導し、知的な謎解きの楽しみを提供している。



 この恒富の十三回忌に建立されたのが、高津宮(こうづぐう・大阪市中央区)の参道にある「恒富庵」の筆塚である。碑の文字は恒富の畏友・河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)の六朝体の書による。

 実はこの筆塚のある高津宮周辺は知る人ぞ知るサクラの名所であり、お宮の桜祭りも例年賑わう。恒富は、本格的な日本画だけではなく、アールヌーボー調も取り入れて《サクラビール》のポスターの原画も描いているので、まさに「春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」(蘇軾〈そしょく〉「春夜詩」)、夜桜も格別である。

 高津宮の参道脇にある[グローブカフェ/GROVE cafe]は、サクラの季節はなかなか席の予約が取れない。建物の2階に位置し、公園の側をテラスのような構造にして開放している。
 この店内空間の仕掛けによって昼も夜も、席に座ると横長に開かれたテラスの向こうが満開のサクラでいっぱいになる。サクラの美しさは自然のなす技だが、それをいかに見せるかは人間の技である。

▲ 窓枠いっぱいのサクラが出迎える[GROVE cafe]

 大徳寺孤篷庵(こほうあん)の有名な茶室「忘筌(ぼうせん)」もそうだが、計算されたこの横長のフレームが店舗構成のポイントとして設けられたことで、室内にあってこそ、窓外の風景が引き締まった。

 しばし私は、活きた障壁画がみごとに出現したカフェにたたずみながら、昭和5年(1930)に近くの道頓堀・松竹座公演で発表された、散りしく桜吹雪に足どりがくるったりするOSK日本歌劇団のテーマ曲「桜咲く国」(戦前、堂島ビルの高橋食堂のメニューには“桜咲く国のカクテル”もあった)とかを想い、ほろりほろりと酔ったりする。

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