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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第1回 絵のある最初は? 一個人的記憶から

 『絵になる最初』という名画がある。京都画壇の巨匠・竹内栖鳳の代表作である。東本願寺山門に天界から舞いおりる天女たちの姿を描くため、羽衣から透けて見える女性の裸身を研究する必要があった。その準備からヒントを得て生まれた作品とされる。大正2年(1913)の制作だが、ヌードモデルが一般的でなかった当時、画家の前で裸になることを羞じらい、着物で裸体を覆い、手で顔を隠した少女の初々しさを描いている。
 『絵になる最初』をもじって“絵のある最初”というのはどうだろうか。人のいる空間のなかの絵画という意味である。それを考えていると、頭の中にいくつかのイメージ─“絵”─が浮かんできた。

 確認される範囲での人類最初の絵画は、先史時代の洞窟壁画だろう。フランス西南部の片田舎で村のこどもたちが発見したラスコーの壁画が有名である。一万五千年前の旧石器時代後期のクロマニョン人によって描かれたと推定され、洞窟の壁や天井に、馬、山羊、羊、野牛、鹿などや人間、幾何学模様が数百も描かれている。動物の毛や木の枝、指などを筆代わりに、黒や赤、黄、褐色などの顔料で塗られている。黒牛のつのが大小に描きわけされているのは、遠近法を意識したものだとも言われる。
 洞窟内に描かれた動物たちは躍動感にあふれている。なんという生命力だろう。顔料で囲った人間の手形も壁に多く残されている。原始の時代から人間は、生活空間の中に自分の生きている世界や自分の痕跡を、目を愉しませる視覚的な形象にまとめ、伝え残したいという欲求を宿しつづけてきた。洞窟壁画が描かれた理由が、洞窟という住まいのなかにあって、豊猟への感謝なのか、身近な死への畏れからなのか、様々に夢想の翼を広げることができるが、“絵のある最初”の情景、つまり、絵画の原点が、生きていることの緊張感や充足感と関係していることは間違いない。

 つぎに日本における“絵のある最初”は、土器や土偶の装飾ではなく、平面に描かれた“絵画”として確認できる早い例が、九州に多い装飾古墳であろう。古墳時代初期から石棺に装飾がなされ、5世紀前半頃には石室にも彫刻や彩色による装飾が施されるようになった。国の特別史蹟に指定される福岡県の王塚古墳や、熊本県のチブサン古墳の名が浮かぶ。

 装飾古墳には、直弧文、蕨手文、円文、同心円文、連続三角文、双脚輪状文はじめ、幾何学的で抽象的な文様が描かれ、赤色系の顔料を多用して、これでもかというばかりに独特の強烈な雰囲気を醸し出している。その特色から、中国の絵画そのものの影響を受けて成立した高松塚古墳などは壁画古墳と呼ばれ、装飾古墳とは区別されている。人間を描いた壁画も宇宙人のような不思議な姿をしていて、近代のパウル・クレーの絵や童画のような気分がただよう。見ようによっては極めて現代的な絵画である。

 バーバリズム、歴史以前の“絵のある最初”の話だが、悠久の時のドラマからはじまった物語を卑近な現実に戻すのは恐縮ながら、それでは20世紀末から21世紀初頭を生きる現代人である私たちにとっての“絵のある最初”はなんだろう。人それぞれ体験が異なると思うが、私の場合、はるか昔の少年時代の記憶の糸をたぐっていくと、二つの光景が浮かんでくる。

 一つは、親に連れられて田舎に帰ったとき、祖父母の家に「床の間」があり、掛け軸が懸けられていたことである。「床の間」は、日本の中世に住宅の形が変化したなかに誕生し、日本人の美意識を涵養するために大きな役割を果たしてきた。現代の住宅ではその存在を見ることが少なくなったが、今でも古社寺であったり、温泉旅行などで宿泊する旅館で見ることができる。ただし、旅館の「床の間」では、違い棚に固定電話が置かれていたり、戸袋のなかに小さい金庫が設置されていたりする。和風の住居が珍しい若い人たちには、日本の伝統文化も、すでにエスニックな感覚でとらえられているのかもしれない。
 しかし、私のこどものころは、友だちが家族で住む企業の社員寮などでも座敷があり、床の間が設けられていた。花生けや色紙程度の簡単なものしか置けない簡易式であったにしても、いろんな所に「床の間」のもつ機能は工夫して組み込まれていた。
 「床の間」についてはまた改めて述べたいが、とりあえず私の記憶にある最初の絵のある情景は、祖父母の家の「床の間」であった。どんな絵が懸けられていたかは覚えていないが、誰もいない座敷に一人で入ったのだろう、暗く古くさい部屋にお香の匂いがして、七福神かなにかの人物画だったのか、小さいこどもの目には、ともかく怖かった。「床の間」の横に仏壇があり、罰当たりだが、ご先祖の写真なども不気味に感じたのかもしれない。

 もう一つの記憶は、小学校低学年のころ、図画工作の授業で描いた水彩画が校内の掲示板にはりだされたことである。私の通っていた学校は、大阪の都心、長堀橋の近くにあり、建物も戦前に建てられて立派であった。プールの横には、大正時代に日本を代表する洋画家・小出楢重がアトリエとして住んでいた長屋も残っていた。何を描いたかは忘れてしまったが、階段の踊り場にガラスの扉がついた豪華な掲示板があり、そこにはりだされたのである。コンテストの金賞になったらしく、金紙を短冊形に切った札がつけられうれしかった。銀賞は銀紙を切った短冊、銅賞は何だったっけ。
 小さいころから魚や海の生物が好きで、それらの絵も描いた。印象深いのが蟹の絵である。画面にたくさんの蟹を並べて描いた。魚類などの図鑑をもっており、それを参考にしたはずなのだが、いま写真で見なおしてみると蟹の足の数が六本しかなく、これでは蟹ではなく昆虫やないかと苦笑させられる。内心お気に入りだったのがヤシガニ(椰子蟹)で、本当はヤドカリの一種なのだが、それを忘れずに画面のまんなかあたり、アクセントとして描いている。背景には、レモン色よりもイエローオーカーに近い黄色を塗った。 
 この蟹の絵は、私の描いた絵で額縁に入れられた最初の絵でもある。親父が喜んで、賞状を入れる簡単な額に入れ、私の自宅の階段をあがったところの、応接間に入る脇の廊下に長い間かけられていた。そのスペースは、横に柱時計があり、下の棚に「百科事典」が置かれていた。わが家のような自営業でもこの時期、「百科事典」は家の装飾用として流行したが、少年時代の私には世界を知るための貴重な知識の泉であった。ちなみにこの二階の応接間が、高度成長期を迎えていた時代、わが家で最初にカラーテレビとクーラーが入った部屋である。
 さらに高校生になって、私が美術の世界に進みたいと親に告白したとき、「百科事典」の横に美術全集が加わった。マネやモネ、ゴッホ、ゴーギャンにカンディンスキー、クレーの画集が棚に並ぶ上の、いつも明るい光のなかに蟹の絵はかけられていた。

 どちらの話も、すでに半世紀近くが経過している。昨年暮れから新年にかけて、生まれてはじめて軽い病気で入院したが、うつろう時間の早さに驚かされてしまった。けれども、つまり私にとっての“絵のある最初”とは、古い過去の歴史を引き継ぎ、暗くて怖くもある日本古来の和風空間の体験と、まるで詩人ヴァレリーの「海辺の墓地」のように潮の香りを呼び覚まし、知識欲に満ちて、明るい西欧風の空間に自作がある光景が共存していた事実に気がついたのである。
 動物を描くクロマニョン人や、呪詛をかけるような幾何図形を古墳の石室に刻みこんだ古代人の熱狂や陶酔はないし、インターネットを完備し、3Dさえも普通に感じる現代のマンションで成長した若い人たちの視覚体験とも異なるが、この二面性の共存する状態は、戦後復興から高度成長にむかう、昭和30年代後半から40年代にかけて、少年時代を過ごした人間に共通する体験であったような気がする。
 仕事をする職場にしろ、日常生活の場であるにしろ、そこに絵画があることの意味を、いろいろの、切り口、モチーフから眺めていくことにしたい。

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