住ムフムラボ住ムフムラボ

橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第20回 『白い巨塔』における絵の飾り方 〜教授のお宅拝見

テレビドラマの新しい『白い巨塔』を視た

 先月5夜連続(5月22日〜26日)でドラマスペシャル『白い巨塔』がTV放送された。原作は、言わずと知れた山崎豊子(1924~2013)の小説で、国立浪速大学医学部第一外科の天才的な外科医である財前五郎を主人公に、“象牙の塔”の権力闘争と医師のモラルを問う名作である。

 物語は、全国の国立大学や医師会をまきこんだ浪速大学医学部の教授選からはじまり、誤診裁判、学術会議会員選挙とつづき、最後は、癌治療の専門家である財前の、癌による不遇の死で終わる。
 東京大学とおぼしき東都大学や、京都大学を連想させる洛北大学も登場し、浪速大学もあくまで架空の国立大学で、現実の国立大学法人大阪大学とは別ということになっている。

 社会派としての作品の性格上、多くの医学関係者が知識提供に非協力的だったが、東京の国立がんセンターの久留勝総長(くる・まさる/1902~70)に山崎が協力を要請したところ、とても協力的であり、病理部長が患者側、外科医長が財前側という役割分担で模擬裁判的なやりとりを重ねて執筆できたという。小説に出てくる近畿癌センターのような、全国から人材を集めて溌剌とした研究と治療機関である。

 久留は東京帝国大学の出身で、金沢医科大学(この辺り小説の菊川教授も連想させる)を経て昭和29年(1954)に大阪大学の外科学教授となった。昭和32年に大阪大学が設置した癌研究施設の長を経て、創設時の国立がんセンター病院長に招かれ、三代総長となっている。大阪大学ゆかりの学者も『白い巨塔』の執筆に協力したのである。


 山崎豊子は、大阪の老舗、昆布商に生まれ、相愛高等女学校(現・相愛中学校・高等学校)、京都女子専門学校(現・京都女子大学)国文学科から毎日新聞社に入社した。学芸部には井上靖が学芸副部長として在籍し、その薫陶を受けながら小説の執筆をはじめる。
 昭和32年(1957)に実家をモデルとした『暖簾』で作家デビューし、翌年、吉本せいをモデルにした『花のれん』で第39回直木賞を受賞した。

『白い巨塔』は、昭和38年(1963)から昭和40年(1965)にサンデー毎日に連載された。当初は、誤診裁判の一審判決で財前が勝ち、里見助教授が退職願を出すところで終わる計画だったが、財前勝訴が納得できない読者の反響や、誤診で肉親を失った遺族からの便りもあって、昭和42年(1967)から翌年に『続・白い巨塔』を執筆し、完結することになる。

『白い巨塔』は、『続・白い巨塔』を週刊誌に連載中、すでにドラマ化され、昭和41年(1966)、大映によって山本薩夫監督、田宮二郎主演で映画され、翌昭和42年には、佐藤慶の主演でテレビドラマ化された。当時は財前の死で終わる『続・白い巨塔』が完成していなかったので、映画は里見(田村高廣)が浪速大学を去るところで終わる。

 昭和53年(1978)には田宮二郎が主演した全31回のテレビドラマや、平成2年(1990)に村上弘明、平成15年(2003)には唐沢寿明が財前を演じたテレビドラマが放送された。2007年には韓国に舞台を移したキム・ミョンミン主演のテレビドラマも放映されたという。岡田准一が財前五郎を演じた今回の『白い巨塔』は、設定を2019年に置き換え、“令和最初の大型ドラマ”の意気込みで撮影されたそうだ。

 それぞれ役者の個性を反映した味わい深いドラマだろうが、やはり印象深いのが田宮二郎の財前五郎である。どこか戦争の影も引きずり、人間ドラマとしての陰翳が濃い。裏話としては、テレビドラマ化のとき、田宮も当たり役として、作者に財前役として自らを売り込み、ドラマ最後で「ラクリモーサ」(=涙の日/モーツアルト『レクイエム』より)が流れるなか、財前の遺体を家族や病院関係者が安置室に見送る荘厳なラストシーンでも、顔は撮影されないのに田宮自身がストレッチャーに横たわり、感極まってすすり泣く声が全身に掛けられた白布の下から聞こえたという。

 田宮が散弾銃で自殺したのは、『白い巨塔』の放映を残り2話残した昭和53年(1978)12月28日だった。


モダニズムから戦後復興〜高度成長期の大阪を描いた『白い巨塔』

 原作の小説には多彩なキャラクターが登場する。私が興味をもっているのは、彼らがどこに住居を構え、どのような家に住んでいるかである。
 山崎豊子の初期の作品は、故郷の船場をはじめ大阪に密着した小説が多い。昭和33年の「船場狂い」(新潮文庫『しぶちん』所収)では、なんとか船場に進出して店を構え、大阪商人の御寮さんとして胸を張りたい主人公が登場する。

 彼女は、大阪が空襲で焦土と化した戦後、ようやく船場に店を構えることができるのだが、船場との間を長堀川(現・長堀通)で仕切られた島之内に生まれ育った私には、戦争で価値観が一変しているとはいえ、対岸の船場を憧憬する「船場狂い」の世界観は分かる気がする。

 山崎は芦池(あしいけ)尋常小学校の卒業生だが、芦池は小学校の合併によって、私の母校の道仁(どうにん)小学校と一緒になって現在の大阪市立南小学校になっており、小学校の大先輩と言えないこともない。

『白い巨塔』の登場人物の住まいに関心があるのは、地域に密着した山崎豊子の目を通して、昭和38年(1963)から昭和43年(1968)までの高度成長期の大阪市とその周辺の都市圏が、どのように読者に認識されていたか分かると思うからである。

 もっと言えば、『白い巨塔』の連載期間は、昭和39年(1964)の東京オリンピックと昭和45年(1970)の大阪万博の間とほぼ一致し、ほぼ私の小学校時代に該当する。つまり戦後復興を遂げつつあった半世紀前の大阪の都市イメージが、この小説の舞台設定に反映されていると思えるのである。

 このことについて現在、別に論文として執筆している最中であり、ここでは最新ドラマに触発されて、差し障りの無い範囲で書くことにしよう。分かりやすい事例として、浪速大学医学部第一外科の歴代教授3人の住まい−阪急神戸線沿線−が、どのように原作に書かれているか、から列挙してみよう。


歴代第一外科教授のお宅拝見

財前五郎邸(阪急・夙川駅下車、西宮市)
 まずは財前五郎の家である。原作によると、養父である財前又一が、14年前に娘の杏子の養子婿として黒川五郎を迎えて夙川の山の手に新築した。連載開始が昭和38年なので、14年前は昭和24年(1949)となり、戦後の混乱〜復興期である。最寄り駅は阪急神戸線の夙川駅。現在も関西の住みたい町の上位にランクされる住宅地である。

「庭園燈に照らされた二百五十坪ほどの庭は、芝生と小さな花壇だけの手入れの行き届かない庭であったが、国立大学の助教授の家としては、贅沢な住まいだった。」(新潮文庫『白い巨塔』第1巻P51)


 この家に財前は、妻の杏子と物語の最後では小学校6年と4年になる息子2人と住んでいる。父に死なれ、母の内職と奨学金で大学に進学した財前が子どものときに味わえなかった「団欒」が、そこにあったという。

 ただし、義父の又一が娘(杏子)について「あいつは、死んだ母親の方に似て、虚栄心が強うて、大阪の下町風より、芦屋や夙川方面の山の手風が好きで、ものの云い方も、大阪弁と東京弁のまじったけったいな気どった標準語を遣いよって、一人娘やけど、わしにちっとも似てへん」とぼやくように、夙川を選んだのは杏子の好みであって、婿入りした五郎の好みは、あまり関係なさそうである。

阪急夙川駅から北へ5分ほど歩いた辺り。川沿いの遊歩道散策は周辺住民にとって身近な娯楽だ。西側(左手)には、川べりに出る「勝手口」を設けている住宅が多い
阪急夙川駅から北へ5分ほど歩いた辺り。川沿いの遊歩道散策は周辺住民にとって身近な娯楽だ。西側(左手)には、川べりに出る「勝手口」を設けている住宅が多い

 対照的な住まいが、財前の親友で誤診を巡って対立する第一内科の助教授・里見脩二の住む法円坂(現・大阪市中央区)の公団アパート「東棟四階の三二号室」である。築後十年で「鉄筋コンクリートの壁に罅(ひび)が入り、壁の色も薄汚れ、ところどころ塗り替えのあとが斑(まだら)な地図を描き、最初のような清潔感がなくなって」いる。狭い公団六畳の間が里見の書斎であった。

「南向きの六畳ほどの部屋の壁面には、処狭いばかりに書棚が置かれ、天井までぎっしりと医学書が積み上げられていた。その上、さらに置き場のない書籍がリンゴ箱に入れられたまま、部屋の片隅に積まれ、古びた粗末な机が窓際に向かって置かれていた。」(新潮文庫『白い巨塔』第1巻P202)


 里見の妻が、助教授の給料が5万6千円、住居費が7千円、里見の月々の書籍費も2万円かかることを漏らしている。給料の3分の1を書籍代に費やす里見の学究的姿勢は立派だが、婿入りしなければ、財前も同様の生活ぶりだったのだろう。
 一方、義父の財前又一が営む産婦人科は、大阪市北区の桜橋交差点の近くにあった。

「赤信号を待ち、二度目の青信号が出かかった時、赤い大きなネオン・サインが財前の眼に映った。財前産婦人科医院——舅(しゅうと)の財前又一の医院が、まるでキャバレーのように派手なネオン・サインを夜空に浮きたたせていた。」(新潮文庫『白い巨塔』第1巻P35)


 財前産婦人科医院の前は「何時も妙な活気に溢れて」おり、「三階建て九十坪の医院の前は、何時もタクシーや乗用車が駐車し、みるからに財前産婦人科医院の人気を物語って」いた。桜橋の交差点は、大阪駅前第1ビルの南西に位置し、交差点の南東側は北新地の繁華街である。山崎豊子が勤めていた当時の毎日新聞社は、四つ橋筋沿いのすぐ南にあった。

東貞蔵邸(阪急・芦屋川駅下車、芦屋市)
 つづいて弟子の財前と敵対する前任教授の東貞蔵の邸宅である。学術会議会員立候補の挨拶に財前が東邸を訪ねたところに、「御影駅から二つ目の芦屋へ向った。芦屋川駅で降り、川沿いの道を再び、山手に向かって三丁ほど行ったところ」とある。

阪急芦屋川駅の北、開森(かいもり)橋の上流の東岸から。対岸の橋は、芦屋川(右手)の支流、高座(こうざ)川にかかる大僧(おおぞう)橋。小川洋子の名作『ミーナの行進』でもこの界隈が舞台になっている
阪急芦屋川駅の北、開森(かいもり)橋の上流の東岸から。対岸の橋は、芦屋川(右手)の支流、高座(こうざ)川にかかる大僧(おおぞう)橋。小川洋子の名作『ミーナの行進』でもこの界隈が舞台になっている

 小説の前半で東自身が帰宅するところには、次のように記される。

「芦屋川沿いに山手に向って車を走らせ、夜更けの住宅街を通り抜け、イギリス風の煉瓦と白い壁に柱型を見せた家の前に停まると、東は、急にしゃんとした身構えと謹厳な表情をして、門のベルを押した。女中が勝手口から小走りに出て来、門を開いた。」(新潮文庫『白い巨塔』第1巻P43)


 イギリス風の煉瓦と白い壁に柱型を見せた家であり、門から玄関のあいだは敷石が敷き詰められ、「玄関のホールからすぐ二階の書斎の方へ続く階段」があり、玄関ホールの右側に応接などにも用いる洋間があった。

「芦屋川の山手にある二階の書斎は、夜になると冷房をきった方が、自然の涼しい風が吹き込んでくる」ほどで、暑がりの私などはうらやましいかぎりである。玄関ホール横の洋間は広く、

「二十畳ほどの部屋の中央に、大きなマントル・ピースがあり、その上の飾棚には高価な置物が並べられ、壁には号何十万といわれる画家の絵が掲げられていた。その一つ一つが、非常に高価ないいものであるにもかかわらず、ひどく全体の調和が欠けているのは、それらが人からの贈り物であることを物語っているようであった。」(同)


 マントルピースの前には、東が腰掛ける安楽椅子があり、壁面には「高名な画家の風景画」が掲げられ、「勲二等の勲章を礼服の胸に飾った日本外科学界の功労者」であった貞蔵の父の、娘の佐枝子から見て「祖父のいかめしい肖像」もかかっていた。

 東の定年退官を60歳として、連載開始の昭和38年から引き算をすると、東貞蔵は、大阪で第五回内国勧業博覧会が開かれた明治36年(1903)頃の生まれとなる。さらに勲二等の勲章を肖像画に飾る貞蔵の父も、明治維新から明治10年代に生まれていそうである。貞蔵の父は、幕末に適塾で学んだ塾生たちの子どもの世代かもしれない。

 財前の目には、東の邸宅は次のように映っている。

「煉瓦と壁面に太い柱型を見せたイギリス風の邸の中は、どっしりとした重厚さが漂い、財前がいくら金をかけても築けない重々しさがあり、それは一代にして出来上るものではなく、代を重ねた学者の家にしか感じられない人を威圧するような格調の高さであった。」(新潮文庫『白い巨塔』第4巻P221)


 芦屋が今日のように住宅地化したのは、明治38年(1905)に阪神電鉄が開通して阪神芦屋駅ができ、大正2年(1913)に国鉄芦屋駅が開設され、大正9年(1920)に阪急電車が開通して芦屋川駅が出来たことによる。

『新修芦屋市史』(昭和46年刊)によると、芦屋川周辺の住宅地開発は昭和初年ごろに飽和状態となった。東の邸宅も大正9年の阪急開通以降の、地域に家が建て込まない早期の建設になるだろう。貞蔵の父が明治ひとけた生まれとすると、50歳頃に構えた邸宅である。

 昭和4年(1929)土地区画整理の計画を認可され、山の手に有名な「六麓荘」が建設され、昭和15年(1940)に市制を施行して芦屋市が誕生する。

滝村恭輔邸(阪急・御影駅下車)
 面白いのが、第一外科教授として東の前任者である滝村恭輔名誉教授である。「日本外科学会の大御所的存在」であり、日本学士院会員、文化勲章を受章し、77歳を祝う喜寿の会を新大阪ホテルで開いた。この新大阪ホテルは、中之島のリーガロイヤルホテルの前身であり、朝日新聞大阪本社に近い渡辺橋よりも西側に、昭和10年(1935)、大阪の政財界をあげて、「豪壮なベネチアンゴシツク式の日本最大のホテル建築」として建設された。

「新大阪ホテルの三階大広間には、浪速大学名誉教授、滝村恭輔の喜寿の会を祝う各界の名士たちが、次々と集まっていた。大阪近県の国立大学の学長、医学部長はもちろん、知事、市長、商工会議所会頭をはじめ、有名財界人、大阪選出の衆、参院議員などが、殆ど顔を見せている。」というほど、滝村は実力者で、物語後半でも「八十歳で第一線を退いていても今なお外科学界に隠然たる力」をもっているとされる。

新大阪ホテルのパンフレット(筆者私物)。『白い巨塔』では、財前五郎の学術会議会員当選祝賀パーティー会場として再び登場(第5巻)する。石原裕次郎の主演映画『憎いあンちくしょう』(1962年/蔵原惟繕監督)ではここが重要シーンとして登場
新大阪ホテルのパンフレット(筆者私物)。『白い巨塔』では、財前五郎の学術会議会員当選祝賀パーティー会場として再び登場(第5巻)する。石原裕次郎の主演映画『憎いあンちくしょう』(1962年/蔵原惟繕監督)ではここが重要シーンとして登場

 喜寿の会開催も、連載開始の昭和38年(1963)として喜寿の77歳を引くと、滝村は明治19年(1886)頃の生まれとなる。医学部長をつとめたと記される昭和16年(1941)頃は55歳であり、現役バリバリだったのだろう。滝村の邸宅は阪急御影駅にあった。財前が訪れると茶室に通される。

「坂を上り詰めた松林の間に、白壁の長い塀が見え、京瓦を葺いた数寄屋風の家が滝村邸であった。」(新潮文庫『白い巨塔』第4巻P216)

「老婢の案内で敷石伝いに中庭を通り、茶室の蹲(つくばい)で手と口を漱ぎ、躙口(にじりぐち)から茶室に入って黙礼した。お点前の最中である滝村は、手を止めず、見事な茶筅捌きでお茶をたて、正座した財前の前に茶碗をおき、はじめて口を開いた。」(同 P217)


 東の邸宅がイギリス風の洋館であるのに対して、滝村の家は和風で数寄屋風の豪邸である。財前の訪問時、滝村の夫人も「謡いの会」に出かけて留守であり、西洋医学を学びながらも、茶道や能楽など日本の古典文化を教養として身につけた一族の出身をにおわせる。

 戦前から御影や隣の住吉には、政財界の大物が居宅を構えていた。御影は、朝日新聞社を創設した村山龍平(1850~1933)が住み、そのコレクションを公開する[香雪美術館]があることでも知られている。同地の村山の居宅も重要文化財に指定された。滝村名誉教授が茶をたしなむのは、香雪を号した村山のイメージも投影されているのかもしれない。どちらも名前に竜(龍)や村の字が入っているし……。
阪急御影駅の東にある香雪美術館(右側)周辺の散策路。御影駅の北側は洋風の家が多いが、この辺りは和の高級住宅街である
阪急御影駅の東にある香雪美術館(右側)周辺の散策路。御影駅の北側は洋風の家が多いが、この辺りは和の高級住宅街である

 御影の隣の兵庫県武庫郡住吉村には、西園寺公望の実弟で、住友本家を継いで吉左衛門を名のった春翠こと、住友家15代目当主の住友友純(ともいと/1865~1926)が、大正14年(1925)に本邸を移している。前回「たこたこ眼鏡」で触れた岸本海運の岸本彩星童人の邸宅も住吉にあった。

 御影や住吉村は、富裕な人たちが居住して財政的に豊かであり、神戸市への合併には消極的であったが、昭和25年(1950)に合併してできたのが、神戸市東灘区である。


厳正無比、大河内先生の居宅(国鉄・高槻駅下車)

 そういえば、スムフムラボにコラムを寄せる大阪大学の仲野徹先生も、ご自身のツイッターに「浪速大学医学部病理学教授・仲野徹です。」と少しいちびった気分で、どこか自慢げに自己紹介しておられる。

 仲野先生は、大阪大学大学院生命機能研究科の研究科長もされていたので、ご専攻からは『白い巨塔』における鵜飼学部長の前任の医学部長で病理学の大家の大河内先生のポジションにあたるのだろうか。
 高槻にある大河内教授のお宅について述べておくと、次のような状態である。

「表通りから脇道へ入り込んだところに、板塀が反り、軒先の瓦がずり落ちそうになった大河内家の家が見えた。学士院恩賜賞受賞の著名な学者の家とは見えぬ簡素なたたずまいであった。」(新潮文庫『白い巨塔』第2巻P51)

「土間にたって玄関を見廻した。上り框の板の間は節だらけで反り、続きの畳も褐色に焼け、殺風景な寒々しさであった。」(同 P52)

「歩く度に床板が軋むような廊下を通って、奥座敷へ行くと、そこが書斎であった。十畳程の日本間に大きな書斎机を置き、壁際には寸分の隙間もないほど書棚をめぐらせ、一目で畳の窪みが眼につくほど、本の重みがかかっていた。」(同)


 誤診裁判で財前について、法廷で「医師としての注意義務を怠った」と証言するなど、厳正無比、信念を曲げない学究の徒らしい家の構えで、芦屋の東邸の欧米風でクラシックな学者の住まいとは異なる、求道者の棲まう巌窟のようでもある。玄関にまで医学書が積み上げられた金沢の菊川教授の家もこんな感じだし、やがて里見先生もこんな風になるのかもしれない。


鵜飼学部長は美術コレクターか

 ここから「絵を飾る人のキモチ」である。東邸について、高価な置物が並び、号で何十万の絵を飾りながらも全体の調和が欠けているのは、それらが贈答品であることによるとされている。東先生ご自身の趣味ではないわけである。

 しかし、『白い巨塔』には、美術品に関心がありそうな教授が登場する。第一内科教授で医学部長の鵜飼先生である。原作に下の名前は登場しないが、老年内科専攻であり、長良川の鵜匠のように、配下を使って巧みに世渡りをしていく。

 財前は教授選で学部長を味方にするため、鵜飼が、患者の経営する「心斎橋画廊」に展覧会を見に行ったことを知り、心斎橋におもむく。二室続きになった三十坪ほどの画廊では、高名な洋画家・染井青児の「滞欧作品展」が開催され、パリのノートルダム寺院を描いた作3号の油彩画を、熱心に鵜飼が見ていることに着目する。

 3号のカンヴァスは、風景サイズならば27.3×19.0㎝ぐらいの、B5の紙より少し大きいぐらいである。鵜飼が去った後、財前は義父の財力を使い、相場で号8万円とされるのを、3号で20万円に値切り、鵜飼の自宅へ送った。里見助教授の給料5万6千円と比べると、その4ヵ月分近い金額である。

 小説のなかの「心斎橋画廊」だが、現在、心斎橋筋で小大丸画廊も経営する心斎橋画材の白井さんによると、モデルは、当時の大阪市南区東清水町27(現・大阪市中央区東心斎橋1丁目)の「島之内画廊」だったという。画廊主より、小説のモデルとなったことを直接聞いたそうだ。

 また、洋画家の染井青児のモデルは、名前は、第二紀会結成に参加、大阪芸術大学の前身の浪速芸術大学教授となった鍋井克之(1888~1969)と、二科展で活躍した東郷青児(1897~1978)との合成に思われる。ちなみに山崎豊子の新聞社時代の上司であった井上靖は、学芸記者として、鍋井や小出楢重、黒田重太郎らとともに、大阪に信濃橋洋画研究所を設立した洋画家・国枝金三についての文章を残している。

 さらに画題や画風から染井のノートルダムは、佐伯祐三(1898~1928)やパリで活躍した荻須高徳(おぎす・たかのり/1901~86)を思わせる。
 特に佐伯祐三は戦前に歿したが、昭和33年(1958)大阪市立美術館で回顧展が開かれ、サンデー毎日9月15日号から『白い巨塔』の連載が開始された昭和38年には、10月1日から13日まで心斎橋の大丸で82点もの作品を集めた「佐伯祐三展」が開催されている。「やや抽象化され、褐色の絵具を厚く塗り重ねた絵」とあるので、荻須よりも佐伯のイメージがより近いだろう。

 小説において鵜飼学部長の自宅が登場するのが、深夜ドイツから伊丹空港に帰国した財前が、誤診で訴えられていることを知り、宝塚の鵜飼に面会にいく場面である。

「松林に挟まれた坂道を上り、左に折れると、鵜飼邸であった。大谷石の高い門柱の前で車を降りると、又一は、門のベルを押した。玄関の方に灯りがつき、女中が切戸を開けた。」(新潮文庫『白い巨塔』第3巻P146)

「十二、三畳の洋風の応接室は、豪華な応接セットと飾り棚が置かれ、飾り棚の横に教授選の前に、財前から贈った染井画伯の絵が掲げられていた。」(同 P147)


 二十畳の広さとマントル・ピースのある東邸の応接間には及ばないが、豪邸であることに違いはない。玄関が切り戸になっており、応接間が洋風と断るのは、全体が和風建築であることを暗示する。鵜飼邸を再訪した財前は、精神的な余裕もありさらに観察する。

「十二、三畳程の応接間には、高価な古美術品や号何十万円もする画家の絵が掲げられ、財前の家とは比ぶべくもない豪奢さであった。財前は飾り棚の上に掲けられているパリのノートルダム寺院の絵に眼を止めた。三年前の教授選の時、財前が鵜飼に贈った絵で、当時、号八万円ぐらいだった染井青児画伯の絵が、芸術院会員になった今、二〇万近くにはね上っている──、自分も、学術会議会員ともなれば、今以上に医学者としての地位が上るのだ、咽喉(のど)もとから膨らんで来るような笑いをその絵に投げかけた。」(新潮文庫『白い巨塔』第5巻P85)


 東郷青児も昭和35年(1960)に日本芸術院会員になっており、その事実も踏まえているように感じられる。岡田准一主演の新しい『白い巨塔』でも、松重豊が演じる鵜飼教授の邸宅は、和風建築のなか、そこらじゅうに美術品があふれかえっていた。学部長室にも油彩画数点と書の額が壁に溢れていた。

 原作では、東邸の美術品の飾り方が、全体の調和が欠けているのは贈答品であるためとしているが、新しいテレビドラマでは、そのことを鵜飼学部長の家や学部長室に演出しているようである。

 しかし美術品コレクターには、室内にそれをキレイに展示するよりも、様々なものを蒐集、所蔵することに無上の喜びを感じるタイプもある。鵜飼先生の作品の並べ方は、決して審美的とは言いがたいが、資産的な価値以上に作品を蒐集することを好み、釣果を常に目に付くところに置いておきたいという心理のコレクターではないかという気もするのである。患者の画廊主との交際から、急に美術品蒐集に目覚めたという可能性もある。

 なお、テレビドラマの絵は、テレビ映りを意識した演出もあるのだろう。パリ郊外の農家を描いた号数も30号(90.9 × 65.2㎝)ぐらいの大きな油彩画であった。又一からのご挨拶の名刺代わりと言うイメージには、原作の3号というサイズがしっくりくる。30号なら寸法が十倍もあって、これでは名刺どころか看板だし、高価過ぎて明らかな収賄になるので、鵜飼先生もさすがにそれは受け取らないだろう。

 この辺が原作のデリケートな設定だと思うのだが、鵜飼先生が「心斎橋画廊」でノートルダム寺院を描いた3号を熱心に眺めていたのは、他に大作も飾られていたであろうなか、奮発すればポケットマネーで買えるサイズの作品として算段し、迷っていたためではなかったか。

 そう考えれば、鵜飼先生こそ根っからの美術愛好者であったと考えられる。もしも『白い巨塔』の外伝があったとしたら、大学や病院運営に揉まれながら鵜飼先生が、バブルの時代に向かってその後、どんな作品を蒐集し、コレクションを形成されたか妄想は尽きない。

 例えば、昭和37年(1962)、当時の大阪大学医学部にも近い中之島3丁目、つまり中之島香雪美術館(中之島フェスティバルタワー・ウエスト)と国立国際美術館の中間、現在の三井ガーデンホテル大阪プレミア(大阪市北区中之島3-4-15)の位置に、前衛美術団体・具体美術協会の美術館「グタイピナコテカ」が開設されている。昼休みに少し抜け出し、展覧会を見に行っていたとしたら……。

グタイピナコテカのパンフレット(1962年)より。かつては吉原製油の倉庫として使われていた土蔵3棟をリノベーションしたもので、当時は「グタイ ピナコセカ」と呼ばれていた。最前列中央で両手を腰に当てているのが吉原治良(大阪中之島美術館所蔵)
グタイピナコテカのパンフレット(1962年)より。かつては吉原製油の倉庫として使われていた土蔵3棟をリノベーションしたもので、当時は「グタイ ピナコセカ」と呼ばれていた。最前列中央で両手を腰に当てているのが吉原治良(大阪中之島美術館所蔵)

 具体美術協会のリーダー、吉原治良(よしはら・じろう/1905~72)は、アーティストであるとともに吉原製油の社長をつとめる財界人でもあった。そうした縁で、晩年の吉原を代表する円をモチーフとした抽象絵画が、学部長室や宝塚のお宅に掛かっている情景が浮かんでくる。

 先の推定では、定年を迎えた東先生は明治36年(1903)頃の生まれ。現役の鵜飼先生は少し下の年齢なので、明治38年(1905)生まれの吉原と鵜飼先生は、ほぼ同じ学年となるではないか。妄想は、まだまだ広がっていく。


財前又一は大阪人の「業(ごう)」を体現する

『白い巨塔』で不思議な魅力を感じるのが、「とても六十二歳などとは思えぬほど声に張りがあり、活気に満ちている」という、私とほぼ同い年の財前又一である。

 「声だけではなく、海坊主のようにぬるりとした頭」を光らせ、診察の合間を縫っては医師会役員として飛び回り、花街の小唄や長唄の会へは必ず顔を出し、適当な付き合いもこなしながら「どこから、そんなエネルギーが湧くのかと、首をかしげたくなるような精力的な活動であった」と婿の財前五郎があきれるほどであるのも、最近、体力の衰えを感じる私としてはうらやましい。

 又一は、「わしみたいに自ら大阪の町人医者と割り切って」それに徹し、「気分を変えて、ちょっと、地唄でも唄わして貰おうか、わしの十八番の『雪』といこか」と、北の新地で、女将の弾く太棹三味線で歌い出す。「雪」は、上方落語の「たちぎれ線香」でも知られる峰崎勾当(みねざき・こうとう)作曲の地唄の名曲である。

「又一の声とは思えぬ渋味を持った声が、奥座敷に流れた。小唄や長唄のようにはれやかな情緒はなかったが、いぶし銀のように渋い艶やかさが地唄の節廻しの中にあった。財前五郎は、始めて聞く地唄に耳を傾けながら、開業医として、多忙な診療をちゃんとすませ、その上で遊び、芸ごとをたしなみ、通人をもって任じる又一の姿に、大阪という街にしかない強烈な個性を持った町医者の姿を見る思いがした。」(新潮文庫『白い巨塔』第1巻P86)


 仲野先生同様、とりあえず私も「浪速大学教授」のはしくれである訳だが、大阪大学の源流は、江戸時代に町人が設立した懐徳堂や適塾とされる。“町人学者”の伝統を、現代に継いでいるのが大阪大学だというのである。

『白い巨塔』のような面倒な権力闘争はごめんだが、大阪のミナミ近くで生まれ育った私としては、市井に生きて、しみじみと風流な生き方もしてみたかったなぁと、いまさらのように思う。それもまた失われつつある大阪人としての矜持、いやいや業のなせるものであろうか。
昭和40年(1965)に単行本が刊行されて以来、累計600万部の大ベストセラーに。それまで『ぼんち』や『女系家族』など「船場もの」の書き手として地位を確立していた山崎豊子にとっては、実に大きな飛躍となった作品(協力=山崎豊子文化財団/新潮社)
昭和40年(1965)に単行本が刊行されて以来、累計600万部の大ベストセラーに。それまで『ぼんち』や『女系家族』など「船場もの」の書き手として地位を確立していた山崎豊子にとっては、実に大きな飛躍となった作品(協力=山崎豊子文化財団/新潮社)

コラムニストから選ぶ

PAGETOPへ