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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第24回 少年時代の記憶がよみがえると −オンライン授業と「死の舞踏」、バンクシー、スペイン風邪のこと−

 緊急事態宣言は解除されたが、感染症との闘いはこの先も予断を許さない状況がつづくだろう。医療関係者をはじめ物流関係者などの奮闘には頭が下がる。しかしまた、コロナ以前のような生活に戻ることは容易ではない。
 日々の生活での絵画のあり方をテーマとした本コラムも、こうした環境の激変に何を書こうか、とまどうばかりだ。

 私なども自宅からオンラインで授業をおこなっている。オンラインも簡単なように見えて、必ずしも楽ではない。
 美術史の講義なので、作品の画像が学生によく伝わっているだろうかということも不安だが、それ以前に、顔が見えないので学生の反応がわかりにくい。沈黙した虚空にむけて話をしている感覚だ。教室ならば、教壇に近い熱心な学生、教室の後ろで退屈して寝ている学生などが見えてこちらも反応できるのだが、それができない。

 それならば、学生全員がモニターに顔写真をだすように指導すればよいではないか、と言われそうだが、80人もの受講生の顔写真がパソコンの画面にずらっと映っているのも不気味である。
 昨年、中之島の国立国際美術館で開催された『クリスチャン・ボルタンスキー −Lifetime』展を、ふと思い出した。ボルタンスキーは新聞に掲載された死者の写真を並べることで、生と死への思いや人間の記憶を揺さぶる現代アーチストである。
ボルタンスキーの画集より(筆者私物)
ボルタンスキーの画集より(筆者私物)

 会議もテレワークだ。移動が必要ないので便利だが、一日中、パソコンに向かってしゃべっていると、頭痛、腰痛など体調も悪くなってくる…と、ぼやいていても仕方がないわけだが、みなさんはどうお過ごしでしょうか。

 外出が少なかったので、私自身の“絵をかけたいキモチ”について、こんなことも感じだした。

 たとえば玄関にかかる版画である。2015年の本コラム、第6回で紹介したが、ミルトンの『失楽園』をテキストに、ギュスターヴ・ドレ(1832~1888)が制作した木口(こぐち)木版画で、《カオス(混沌)を飛ぶサタン》(Satan's Flight Through Chaos)という題である。
ギュスターヴ・ドレ《Satan's Flight Through Chaos》
ギュスターヴ・ドレ《Satan's Flight Through Chaos》

 これまでは深夜帰宅したときにチラッと目に入り、家庭に戻った安堵感を呼び起こしたが、最近では、翼のあるサタンさえも越すに越せない壁があり、版画自体が、自粛で籠もる家庭と外の世界との国境の検問所のマークに見えたりもする。
 一方、パソコンのある仕事場の絵は、いつも以上に詳しく眺めていて、これまで見えなかった細部が気になり出したりもした。

 体を動かす目的もあって、この機会に長らく放置したままだった書庫や押し入れの整理をしていたら、半世紀前の小学・中学時代に描いた自作の絵が見つかったりもする。まるで堅い岩盤をドリルが突き抜けたように、過去の自分がよみがえってきた。

 高校2年の時、上野の東京都美術館(戦前の建物の時代)で開催された全国学生美術展に応募して落選した50号のカンヴァスに描いた油彩画など、シュールリアリズムのルネ・マグリット風の作品で、下手くそなのだが、はじめて取り組んだ大画面として懐かしさがこみあげ、どこか掛ける壁はないかとなどと迷ったりしている。
筆者落選作《静観する鋼鉄》1975年 油彩カンヴァス(お恥ずかしい限りです)
筆者落選作《静観する鋼鉄》1975年 油彩カンヴァス(お恥ずかしい限りです)

 皆さんの中にも自宅待機の合間、久しぶりに絵筆をとり、仕上げた作品を壁に架けられた方もおられるかもしれない。

 もうひとつ押し入れから出てきたのが、50年前のEXPO’70・大阪万博のころに買ってもらった33回転のレコード・シングル盤である。
 何枚かあって、宮城道雄「春の海」とハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」が表裏に入った中学校の鑑賞教材用など微妙なカップリングだし、ベートーベンの「歓喜の歌」は、万博の西ドイツ館で聞いて感動して買ったことを思い出した。
筆者私物。宮城道雄とハイドンの肖像が重なるのは、いかにも中学校の教材
筆者私物。宮城道雄とハイドンの肖像が重なるのは、いかにも中学校の教材

 パンデミックと連動して少年時代のトラウマを呼び覚まされたのが、サン=サーンスの交響詩「死の舞踏」のレコードである。フィギュアスケートやバレエなどでもとりあげられる有名な曲である。
 ペストが大流行した中世ヨーロッパで「死の舞踏(Danse macabre)」の寓話は流布した。死の恐怖を前に人々が踊り続けるという詩が起源ともされ、美術や文学、音楽などの重要テーマとなった。
筆者私物。演奏はジャン・ピエール・ジャキ指揮、パリ管弦楽団
筆者私物。演奏はジャン・ピエール・ジャキ指揮、パリ管弦楽団

 交響詩では、深夜に死に神が「ギーコ、ギィギコー」とバイオリンを弾きはじめ、次第に陶酔していく円舞曲のメロディにまじって、骨がコツコツ鳴る音をシロフォンが描写する。

 ディズニーの『ファンタジア』でミッキーマウスが呪文を唱えると箒が動き出すデュカスの交響詩「魔法使いの弟子」とカップリングされているため買ったが、同じころ読んだエドガー・アラン・ポーの短編小説「赤死病の仮面」と音楽が融合してトラウマとなった。

 死は身分や貧富を越えて平等に忍び込んでくるが、ポーの「赤死病の仮面」も、大臣や貴族をひきつれて城に籠もった「赤死病」が蔓延する国の王に、死者の仮面をつけた謎の人物がパーティーにあらわれ、死をもたらすというゴシック風の恐怖小説である。

 小学生から中学に進学した時期である。小説と交響詩が自分の意識のなかで重なりあい、いずれ訪れる死というものがとても怖くなった。
 50年を経て還暦も過ぎると達観して、さすがに死は怖くないはずだが、身辺整理?をしながら、少年時代の記憶がよみがえってくると、そういう訳にいかないことをあらためて感じた。


 今回のウィルス流行では、イギリスを中心に活躍する匿名のアーティストであるバンクシー(Banksy)が、「医療従事者への感謝」を作品に描いたことが話題となっている。
 5月7日に発表された新作《Game Changer》(ゲームチェンジャー)で、イギリスの病院に寄贈され、看護師の人形を手にした少年が描かれている。
バンクシー《Game Changer》2020年 バンクシー公式ホームページより
バンクシー《Game Changer》2020年 バンクシー公式ホームページより

 バンクシーや作品については、『美術手帖』に掲載された鈴木沓子(とうこ)氏の「バンクシーはなぜ『医療従事者への感謝』を風刺画に仕立てたのか? パンデミックの表現とストリートの作法」が詳しく、そちらをご覧いただきたいが(https://bijutsutecho.com/magazine/insight/21875)、寄贈先は、開発中の治療薬の臨床試験がはじまった病院であり、作品につけられた手紙には、最前線で闘う医療従事者の献身や努力に捧げた感謝の気持ちが記されているという。

 作品は病院で秋まで展示し、その後はオークションに出品して、NHS(国民医療サービス)に寄付をするというまでを含めて、ひとつの作品と考えられるようである。

 ただ、これまでバンクシーは風刺精神をこめ、反戦や反消費主義、反ファシズム、反帝国主義、反権威主義の立場で作品を発表している。
 この作品もよく見ると、赤十字のマークを胸につけた看護師の人形を少年がつかみ上げているが、背後のゴミ箱にはバットマンやスパイダーマンの人形が捨てられている。
 コロナで困っている現在は、看護師はヒーローだが、時が過ぎれば、ゴミ箱のヒーローたちのように捨てられてしまうのだといったことを風刺的に描いたようにも見える。

 鈴木沓子氏は、発表の翌5月8日が「世界赤十字デー」であり、この日に「医療従事者に称賛が集まることを予測したうえで『もし私たちが医療従事者の献身を無邪気に感謝するだけで満足すれば、彼らを使い捨てすることになる』とクギを刺しているのだ」とする。

 そして「ここで俎上に上げられるのは、毎年福祉の予算を削減して医療現場を圧迫してきた政権と、それを容認してきたメディアや大衆にある」とし、「つまりその矛先は、いまこの作品を鑑賞している私やあなた、政治家やメディアも例外ではなく、すべての人に向けられているのだ」と指摘された。

 また、《ゲーム・チェンジャー》というタイトルから、パンデミックの前と後でその発言が変わったボリス・ジョンソン英首相を槍玉にあげているとする。
 その時だけ調子のいいことを言い、肝心なことは後回しにするのは、わが国でも同じように言えるかもしれない。


 世界的な感染症の流行は、昔から日本でもおこっている。100年前の大正7・8年(1918・19)を中心に大正10年(1921)頃まで流行したのがスペイン風邪である。
 「流行性感冒」と呼ばれ、米国が発生源とされる。スペイン風邪の名の由来は、流行開始が第1次世界大戦末期で、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど交戦国が情報統制していたのに対して、中立国であったスペインの惨禍が報道されやすかったことによる。

 世界中で5億人が感染し、死者は1,700万人から5,000万人と推計され(1億近いとの説も)、日本でも2,380万人が罹患し、39万人近くが命を失った。
 病死した著名な画家には、グスタフ・クリムト(1862~1918)、エゴン・シーレ(1890~ 1918)がいる。ウィーン分離派とその周辺の画家たちであり、昨年大阪でも国立国際美術館で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」展が開かれたばかりである。

 また、マリー・ローランサンの恋人であった詩人のギヨーム・アポリネール(1880~1918)もこの時に死んだ。ローランサンとの思い出は、シャンソンでも有名な詩「ミラボー橋」に結晶している。

 日本では、洋画家・村山槐多(かいた/1896~1919)が22歳の若さで没したほか、大阪ゆかりの人では、中之島の日本銀行大阪支店や南海浜寺公園駅、奈良ホテルを設計した辰野金吾(1854~1919)がスペイン風邪で亡くなっている。大阪市中央公会堂の設計コンペを審査し、岡田信一郎の原案に基づき片岡安(やすし)と実施設計を行った建築家であった。

 辰野は東京帝国大学の教授であり、東京で没しているが、大阪市中央公会堂オープンの翌年大正8年(1919)、国会議事堂設計コンペの審査員をつとめながら、肺炎をおこして同年3月25日に死去する。
 公会堂開館にあたっては盛大な式典が催された。半年もたっていない死去に関係者の誰もが驚いただろう。

 スペイン風邪は大阪でも猛威を振るい、大正7、8年で府内の患者数47万、死者1万1000 人だったという。天王寺区の一心寺には、「大正八九年流行感冒病死者群霊」と刻まれた供養塔が、大正11年(1922)、道修町の薬種商人小西久兵衛と妻の吉榮によって建てられている。
五輪塔の形で、側面には小西久兵衛・吉榮の名が。どんな経緯で供養塔が建てられたかは不明。最近は手を合わせる人が増えているという(一心寺境内)
五輪塔の形で、側面には小西久兵衛・吉榮の名が。どんな経緯で供養塔が建てられたかは不明。最近は手を合わせる人が増えているという(一心寺境内)

 なお、スペイン風邪流行より数年後の大正14年(1925)、大阪市立市民病院が開院する。それが現在の大阪市立大学附属病院(阿倍野区旭町)である。

 大阪市が第二次市域拡張でいわゆる「大大阪」となった同じ年であり、人口も多く、様々な社会問題を抱えた大都市における衛生や疾病対策を考えての開院だったろう。市費に加え、大阪商人の岸本吉右衛門の寄付も大きかった。

 開院時に病院内に掲げられたのが、小杉放庵(放菴とも号した/1881~1964)の《炎帝神農採薬図》である。放庵は春陽会の創立に参加した画家で、生まれ故郷の栃木県日光市に小杉放庵記念美術館がある。
小杉放庵《炎帝神農採薬図》1924年 『開館記念「小杉放菴展」小杉放菴記念日光美術館』図録(1997年)より
小杉放庵《炎帝神農採薬図》1924年 『開館記念「小杉放菴展」小杉放菴記念日光美術館』図録(1997年)より

 小杉放菴は同じ大正14年に竣工した東京帝国大学講堂(安田講堂)にも壁画を描いているが、市大病院の作品は、前年の春陽会第2回展に出品されたもので、道修町の神農祭で知られる薬の神様、炎帝神農をモチーフとしている。

 さらに遡れば、幕末のコレラ流行に際しては、適塾の緒方洪庵が治療手引書「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」を緊急出版した。感染症の歴史をひもとくことは、こうした地域の文化史に踏み込んでいくことにもなる。

 ところでこの2月26日、大阪市生涯学習センターの情報紙「いちょう並木」に書いた文章を集めて創元社から『橋爪節也の大阪百景』という一冊を刊行した。しかし出した途端、緊急事態となって書店も閉まり、人の目にあまり触れないままで何ヶ月かが経った。それが心残りである。

追記
 前回の第23回「創業100年、河内洋画材料店の“カワチ-ガタ”は、魔法の正方形」で紹介した画材店カワチの創業100年記念の冊子『心斎橋KAWACHI100年』が刊行された。キュートな「カワチ型」全48頁の冊子である。非売品だが、ご興味のある方は、KAWACHI心斎橋店か同社のホームページからお問い合わせください。
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