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橋爪節也

橋爪節也/美術史家

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも満載。

第19回 とんぼの惑星のマンションに
絵を掛けるとどう見えるか
たこたこ眼鏡と大大阪

1.
 昨年から大阪関係の展覧会や書籍に次々とかかわって、日々を過ごしているが、ヘルニアが再発し、大臀筋から太股と背中が痛くてたまらない。日頃の不埒な悪行三昧が祟って、と反省しているが、今回は、本の宣伝からである。

 昨年秋の「生きた建築ミュージアム フェスティバル大阪」(通称:イケフェス大阪)で、西天満2丁目の堂島ビルヂング(1923年竣工)が公開されたとき、その6階にある140Bの編集室で建物を取材に来た若い漫画家さんと知りあった。

 それが永見太郎さんで、大正期に大阪の中山太陽堂(現クラブコスメチックス)が設立した伝説的な出版社「プラトン社」の漫画を描いているとのことだった。プラトン社は、最初に谷町に事務所を構え、後にここ堂島ビルヂングに事務所を移した。永見さんはその取材が目的である。

 漫画は『エコール・ド・プラトーン』といって、この1月にリイド社から第1巻が刊行された(図1、2)。
永見太郎『エコール・ド・プラトーン』リイド社
永見太郎『エコール・ド・プラトーン』リイド社
図1、2 永美太郎『エコール・ド・プラトーン』リイド社 ©永美太郎/リイド社

 主人公は作家の川口松太郎(1899~1985)である。後の夫人が女優の三益愛子で、長男は、昭和50年代に一世を風靡した「水曜スペシャル 川口浩探検隊シリーズ」で知られる川口浩である。

 川口松太郎は、関東大震災で東京から来阪し、プラトン社で編集を担当する。同社の雑誌『女性』には劇作家の小山内薫(1881~1928)が、『苦楽』には直木賞の由来となった直木三十五(1891~1934)が参加していた。こうしたプラトン社と周辺の群像を、1920年代にパリで活躍した「エコール・ド・パリ」の画家たちになぞらえ、タイトルに『エコール・ド・プラトーン』とつけたのである。

 大阪が舞台で歴史や文化の香りが漂う漫画の誕生は、大阪人としてうれしい。若き松太郎を中心に、小山内や直木たちが、道頓堀や谷町やら大正期の大阪の街を動き回る。文楽や奉祝の花電車が描かれ、東京の菊池寛や芥川龍之介、岡本一平・かの子夫妻や息子の岡本太郎らも登場する。二巻には、挿絵画家・岩田専太郎が登場し、ますます楽しみだ。

 以前に、戦前の大阪の軽音楽を特集した『ニッポンジャズ水滸伝(地之巻)』(オフノート/華宙舎)と『大大阪ジャズ Jazz Of Great Osaka 1924-1941』(ぐらもくらぶ)などCDのブックレットを書いたことがあるが、堂島ビルヂングの140Bで出会ったことから、依頼されて第1巻に、大大阪の時代についての解説も書かせてもらった。漫画に文章を寄せるのは初めてであるが、お薦めの作品です。ぜひとも、『エコール・ド・プラトーン』をお求めください。


2.
 さて本題である。昨年夏、天神橋筋6丁目の大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)で開催された大阪市中央公会堂竣工100年記念・特別展「大大阪モダニズム―片岡安の仕事と都市の文化—」(図3)にかかわったことは、本コラム第16回「雨の絵はブルーなきもち?−池田遙邨(ようそん)の《雨の大阪》」に書いたが、その時に同館にお預けしながら、展示できなかった私所蔵の大阪関係資料がまだまだあって、もう1回、展覧会を開けという。
特別展「大大阪モダニズム―片岡安の仕事と都市の文化—」エントランス
図3 昨年の特別展「大大阪モダニズム―片岡安の仕事と都市の文化—」エントランス

 本コラムを読者が目にされた時には、展覧会は終わっているかも知れないが、それが企画展「モダン都市大阪の記憶」(3月2日~4月7日)である(図4)。
企画展「モダン都市大阪の記憶」ポスタ
図4 企画展「モダン都市大阪の記憶」ポスター

 大正14年(1925)、大阪市は第二次市域拡張で東京市を抜き、世界第6位のマンモス都市となる。これが“大大阪”である。都市計画の専門家であった名市長・關一(せき・はじめ)のもと、御堂筋や地下鉄建設など都市基盤の整備を進めるとともに、美術館など文化施設も開設された。前回の「大大阪モダニズム−片岡安の仕事と都市の文化−」では、輝かしく発展する近代都市をテーマとした。

 しかし“大大阪”誕生は、摩天楼がたちならぶ近代化とは別方向の動きを生み出した。過去の歴史や文化を再発見し、記録し、顕彰する動きである。その動向を端的に示したのが、大正末から昭和初期の短期間において、連続して大阪で郷土研究の雑誌が刊行されたことであった。

 一面的な近代化に懐疑的な知識人や「趣味家」とよばれる人たちの動向を踏まえつつ、都市計画図に描かれた摩天楼がそびえ立つような大都会の姿ではなく、ふるきよき浪花情緒を惜しむかのように、近代大阪に撒き散らされた百貨店、劇場、花街、交通関係などのポスターやチラシ、広告、絵画などのイマジュリィ(図像)を集めた展覧会である。
心斎橋大丸の地下鐵開通記念メリーゴーラウンド(1933年)
図5 心斎橋大丸の地下鐵開通記念メリーゴーラウンド(1933年)。朝日ビルディングや大阪城、地下鉄などが細かく書き込まれている

 前回の展覧会が、製図台の前で建築家が、ウンウン唸りながら線を引いて巨大な都市造りに熱中している趣きとすれば、今回は、夏の下町の昼下がりに、盥(たらい)をさげて金魚を売り歩く声を聞くといった風情である。


3.
 その展覧会から、気に入った展示を紹介する。入ったすぐのところに設けた「たこたこ眼鏡」(「たこたこ踊り」「たこ眼鏡」とも言う)の疑似体験コーナーである(図6)。
右手の眼鏡を覗き込むと何が見えるか
図6 右手の眼鏡を覗き込むと何が見えるか(後述)。思わず何度もやってしまった筆者

「たこたこ眼鏡」は、昔の大阪人が愛した大道芸で、洋画家・小出楢重(こいで・ならしげ/1887~1931)の「春の彼岸とたこめがね」(随筆集『めでたき風景』創元社、昭和5年)が面白く伝えている。

 小出楢重は、心斎橋筋や道頓堀にも近い、大阪市南区長堀橋筋1丁目(現・中央区島之内1丁目)に生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)に学び、大阪に戻って信濃橋洋画研究所の創設にも参加して、二科展で活躍した。

 大原美術館蔵《Nの家族》(重要文化財)や中之島のリーガロイヤルホテルのメインラウンジに架かる《周秋蘭立像》など、名画を残すとともに、大阪人らしいエスプリに富んだ文筆家であり、岩波文庫『小出楢重随筆集』の編者である芳賀徹は解題で「小出楢重は案外、大阪島之内の膏薬天水香本舗、その大きな木彫の亀の看板の下に生まれた、小柄な、やや仙骨をおびたポール・ヴァレリーでさえあったかもしれないのである」と評している。

「春の彼岸とたこめがね」は、小出が父親に連れていかれた四天王寺のお彼岸の縁日の話ではじまる。

 彼岸は仏参し、施しをなしとあるが故に、天王寺の繁盛はまた格別だ。そのころの天王寺は本当の田舎だった。今の公園など春は一面の菜の花の田圃だった。私たちは牛車が立てる砂ぼこりを浴びながら王阪(おうさか、現逢坂)をぶらぶらとのぼったものであった。境内へ入るとその雑沓の中には種々雑多の見世物小屋が客を呼んでいた、のぞき屋は当時の人気もの熊太郎弥五郎十人殺しの活劇を見せていた、その向うには極めてエロチックな形相をした、ろくろ首が三味線を弾ひいている、それから顔は人間で胴体は牛だと称する奇怪なものや、海女の手踊、軽業、こま廻まわし等、それから、竹ごまのうなり声だ、これが頗る春らしく彼岸らしい心を私に起させた。かくして私は天王寺において頗る沢山有益な春の教育を受けたものである。


 ちなみに「熊太郎弥五郎十人殺し」は明治26年(1893)に起きた「河内十人斬り」として知られる殺人事件で、後に京山幸枝若によって河内音頭の代表的な外題となり、最近では、十人斬りを題材にした町田康の『告白』が第41回谷崎潤一郎賞を受賞している。

 なによりも小出に印象的だったのが「たこたこめがね」である。小出一流のユーモラスなタッチでイラストも描いている(図7)。
小出楢重随筆集『めでたき風景』より「春の彼岸とたこめがね」1930年
図7 小出楢重随筆集『めでたき風景』より「春の彼岸とたこめがね」1930年

 その多くの見世物の中で、特に私の興味を捉えたものは蛸めがねという馬鹿気た奴だった。これは私が勝手に呼んだ名であって、原名を何んというのか知らないが、とにかく一人の男が泥絵具と金紙で作った張ぼての蛸を頭から被るのだ、その相棒の男は、大刀を振翳(ふりかざ)しつつ、これも張ぼての金紙づくりの鎧を着用に及んで張ぼての馬を腰へぶら下げてヤアヤアといいながら蛸を追い廻すのである。蛸はブリキのかんを敲(たた)きながら走る。今一人の男はきりこのレンズの眼鏡を見物人へ貸付けてあるくのである。
 この眼鏡を借りて、蛸退治を覗く時は即ち光は分解して虹となり、無数の蛸は無数の大将に追廻されるのである。蛸と大将と色彩の大洪水である。未来派と活動写真が合同した訳だから面白くて堪まらないのだ。私はこの近代的な興行に共鳴してなかなか動かず父を手古摺(てこず)らせたものである。
※()内は編集者注・ルビ


 張りぼての蛸をかぶった芸人が、侍とやり合うケッタイな出し物があり、それを小出が言う「きりこのレンズの眼鏡」を貸して貰って見ると、トンボの複眼のように無数に蛸やら侍やらモノが見えるのである。「蛸と大将と色彩の大洪水」であり、「未来派と活動写真が合同」したおもしろさに見物客はよろこんだ。

 大阪人の郷愁を誘う大道芸だったらしく、昭和4年(1929)に木谷蓬吟(ほうぎん)が出版した『郷土趣味 大阪人』創刊号の表紙は、夫人の木谷千種(ちぐさ)が描いた「彼岸の天王寺の蛸々踊」(図8)であり、
雑誌『郷土趣味 大阪人』表紙 木谷千種「彼岸の天王寺の蛸々踊」 1929年
図8 雑誌『郷土趣味 大阪人』表紙 木谷千種「彼岸の天王寺の蛸々踊」 1929年

昭和12年(1937)には、南木芳太郎の郷土研究『上方』第75号の表紙に二代目長谷川貞信の「四天王寺彼岸會たこたこ之圖」(図9)が掲載されたほか、

雑誌『郷土研究 上方』表紙 二代目長谷川貞信「四天王寺彼岸會たこたこ之圖」1937年
図9 雑誌『郷土研究 上方』表紙 二代目長谷川貞信「四天王寺彼岸會たこたこ之圖」1937年

同年、岸本彩星童人が「叢書」第壱編で特集して『天王寺の鮹々眼鏡』(図10)を非売品で刊行する。表紙は小出の説明にある「きりこのレンズの眼鏡」でのぞいた無数のたこであり、わかりやすくもまた可愛らしい。
『天王寺の鮹々眼鏡』 1937年
図10 『天王寺の鮹々眼鏡』 1937年

「子寿里庫叢書(ねずりこそうしょ)」の彩星童人は、岸本海運の社長・岸本五兵衛のことで、民俗資料や人形蒐集の「趣味人(趣味家)」であり、伊達俊光『大大阪と文化−長春庵随想録』(金尾文淵堂、1942)に、佐伯祐三の蒐集で著名な山本發次郎らと紹介される。西長堀の白髪橋近くに本社と自宅があり、コレクションは神戸・住吉の別宅に設けた「子寿里庫」に収蔵した。「ねずりこ」とは幼児のおしゃぶりのことである。

『天王寺の鮹々眼鏡』は住吉の別宅で開いた玩具や玩具絵展の参加者に配布され、南木芳太郎の序文や、中井浩水の祝辞、彩星童人の自序に続き、「蛸々の文献」「蛸踊りの家元船木嘉吉翁」「名物蛸々眼鏡の来歴」「蛸踊りの絵画と人形」(図11)のほか、「たこめがね」の芸人である「西村庄次郎翁の追想」が収録される。
彩星童人が所蔵した「蛸々人形」 (『天王寺の鮹々眼鏡』より)
図11 彩星童人が所蔵した「蛸々人形」 (『天王寺の鮹々眼鏡』より)

 当日の目録「園遊会記」によると、岸本邸での展示も「蛸々眼鏡」特集であり、庭では「蛸々踊り」が演じられ、記念品は本書の他、彩星童人考案の「蛸々毛人形」が配られるなど、どうかしてると言いたくなるほどの、たこたこ尽くしである。
 小出は続けて言う。

 私は、今になお彼岸といえばこの蛸めがねを考える。やはり相変らず彼岸となれば天王寺の境内へ現われているものかどうか、それともあの蛸も大将も死んでしまって息子の代となっていはしないか、あるいは息子はあんな馬鹿な真似は嫌だといって相続をしなかったろうか、あるいは現代の子供はそんなものを相手にしないので自滅してしまったのではないかとも思う。何にしても忘れられない見世物である。
(以上「春の彼岸とたこめがね」)


 現代の子どもは「たこめがね」を相手にせず自滅したかとするが、小出の没後も、彩星童人をはじめとする大人がそれを愛し、昭和26年(1951)発行の『大阪辨』第二輯(清文堂書店、図12)の表紙絵も日本画家の山口艸平(そうへい)が描く「たこたこめがね」である。
『大阪辨』表紙 山口艸平「たこたこめがね」 1951年
図12 『大阪辨』表紙 山口艸平「たこたこめがね」 1951年

 展覧会では、とんぼの眼鏡のレンズを、小出のイラストにある羽子板状の木に同館ボランティアさんが嵌め込み、それを手にして、壁に拡大して貼られた小出のイラストや『上方』の表紙を覗けるようにした。
 どんな風に見えるかは、以下(図13、14)の如しである。
「図9」の「四天王寺彼岸會たこたこ之圖」はご覧のように
図13 「図9」の「四天王寺彼岸會たこたこ之圖」はご覧のように

「図7」小出楢重随筆集より「春の彼岸とたこめがね」もご覧のとおり
図14 「図7」小出楢重随筆集より「春の彼岸とたこめがね」もご覧のとおり

 なんだかわからないが面白そうでしょう。本来は芸人が立ち回りをするので、ジッとレンズ越しに眺めているだけで「蛸と大将と色彩の大洪水」「未来派と活動写真が合同」する訳だが、とりあえずは自分でレンズを回すしかないのは残念。

 しかし、南木芳太郎の曾孫の南木ドナルドヨシロウ君が展覧会に協力してくれて、それならば我が家には南木芳太郎が制作させた「たこたこめがね」の人形があります、と出品してくれた。早速とんぼの眼鏡で見ると、迫真的ながら長閑(のどか)であった。
南木芳太郎旧蔵「たこたこめがね」の人形(南木家蔵)
図15 南木芳太郎旧蔵「たこたこめがね」の人形(南木家蔵)


4.
 大阪・西成の[会津屋]さんの初代が「ラヂオ焼き」を改良し、たこ焼きをはじめたのが、彩星童人の「たこたこ」パーティーの2年前、昭和10年(1935)とされている。

 たこ焼きも、まさに「大大阪」時代に誕生した食べ物だったわけだが、さて今回も、どこがタイトルにある「絵を飾る人のキモチ」やねんと首をかしげる方もおられると思う。あるいは青のりと鰹節が、歌舞伎の花道のように頭の中でひらひらと舞い散り、「たこたこ」のどこが「モダン都市」ですかという疑問もおきるかもしれない。

 そこはそれ、「たこたこ」用のとんぼ眼鏡を覗いたつもりになって、「猿の惑星」ならぬ「とんぼの惑星」に新居を構えたら壁の絵もこんな感じに見えるのかと妄想していただいて、ご容赦いただきたいと思う所存でございます。

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