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橋爪節也

橋爪節也/大阪大学総合学術博物館教授・前館長

「あの人は、どんな絵と共に暮らしていたか」。 気になるお題を、美術史家が豊富な事例とエピソードを添えて解き明かす。暮らしのヒントも。

第16回 雨の絵はブルーなきもち?−池田遙邨の《雨の大阪》

“梅雨”の情緒はどこにいった

 現代は四季の変化が極端で、春かと思うとすぐ夏になる。5月なのに気温が30度を越える真夏日があったり、降るとスコールのような土砂降りもある。薄暗く、しとしとした叙情的な昔の“梅雨”はどこにいったのだろう。

 雨を描いた絵を室内に掛けるのも、また季節の楽しみだろう。特に日本伝統の床の間は便利な鑑賞空間で、四季の移ろいにあわせて様々な画題が掛け替えられる。時には、しっとりとした雨の情景に癒やされることもあるだろう。季節が変われば、明るい真夏の向日葵の絵にかえればよい。気分次第で衣替えのように自由に変えることができるのが、床の間の魅力である。

 日本画で雨を描いた絵画には、まず風俗画がある。夕立に降られ、みんなが寄り添う英一蝶(はなぶさ・いっちょう/1652~1724)の《雨宿り図屏風》は有名だ。武家屋敷の門に大勢が雨宿りし、なんだか懐かしい。


英一蝶《雨宿り図屏風》(東京国立博物館所蔵)

 近代の作品ならば、石版画の詩人、織田一磨(1882~1956)の石版画集「大阪風景」に大正7年(1918)の《四ツ橋雨景》《四天王寺東門》がある。

 四ツ橋は錦絵の「浪花百景」にも雨景色で登場し、雨天になじむ。四天王寺東門も、お彼岸や盂蘭盆(うらぼん)のほか青空古書市で見馴れた風景である。ぬかるみに光が反射する描写は実感があふれる。


織田一磨《四天王寺東門》1918年

 文人画の雨の絵では、与謝蕪村(1716~1783)の《春光晴雨図》が秀逸だ。絖(ぬめ)と呼ばれる独特の光沢ある絹地に描かれ、中央の山をはさんで左は雨が残り、右側は晴れて明るい光が射している。


与謝蕪村《春光晴雨図》

 晴れてきた部分に用いる黄色が印象的で、降り続く雨音を描写したドビュッシーのピアノ曲《雨の庭》が、最後に晴れあがったように長調でカラッと終わるのを連想させる。こんな名作なら、年間通じて掛けていても、爽快な気持ちで過ごすことができるだろう。

 洋画にも雨の絵はある。イギリスの画家ターナー(1775~1851)の《雨、蒸気、スピード−グレート・ウェスタン鉄道》(1844年、ナショナル・ギャラリー蔵)など印象派に先駆けた表現がすばらしい。ただし、画面は疾風怒濤という感じで、標準的な日本の住まいなら、迫力に押されて毎日、ドキドキ生活しなければならない気がする。

 洋画でも、中之島に建設が進む大阪新美術館(仮称)が約50点を所蔵する佐伯祐三(1898~1928)のパリ風景など、しんみりして、それこそ昔の“梅雨”を思わす叙情味を感じるかも知れない。

 パリの街を描いた《街角の広告》は雨上がりだろうか、重厚なタッチで濡れたように石畳は鈍く輝き、雲間からの光が建物の上階を明るく浮かびあがらせる。


佐伯祐三《街角の広告》1927年(大阪新美術館建設準備室蔵)

 雨というと佐伯を思うのは、昔話だが、20年前に回顧展を開催した時、佐伯研究に先鞭をつけた美術史家の朝日晃さん(1928〜2016)が、雨の日の講演会で「佐伯は雨がよく似合う。今日は絶好の佐伯びよりです」と話されたことが記憶に残っているためかもしれない。

《雨の大阪》の景観探索

 この夏、天神橋筋6丁目の大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)で、大阪市中央公会堂竣工100年記念・特別展「大大阪モダニズム−片岡安の仕事と都市の文化−」(7月21日〈土〉~9月2日〈日〉)が開催され、雨の街を描いた有名な作品が出品される。昭和10年(1935)制作、池田遙邨(ようそん/1895~1988)の《雨の大阪》である。


池田遙邨《雨の大阪》1935年(京都市美術館所蔵)

 鐘ヶ淵紡績の技師であった父の転勤で遙邨は、3歳頃から5歳まで天神橋筋で過ごす。物心ついて最初に描いたのが大川の巡航船で、銀行が配ったメモ用紙を使ったという。洋画家を志して15歳で阿倍野にある松原三五郎(さんごろう/1864~1946)の天彩画塾に入り、内弟子となった。やがて小野竹喬(ちっきょう/1889〜1979)に触発され、京都市立絵画専門学校に進んで日本画に転向する。

 大阪を描いた作品では、昭和3年(1928)の第9回帝展特選《雪の大阪》があり、大阪新美術館建設準備室が所蔵する。


池田遙邨《雪の大阪》1928年(大阪新美術館建設準備室所蔵)。中之島の中央公会堂3階の特別室あたりから眺めた風景を描いた、手前は難波橋

《雨の大阪》は7年後の作品で、どちらも中之島界隈を描くが、都市景観は2作品の間で変化し、明らかに街の様相はモダンになっている。まず、この絵の都市景観を探ってみよう。

《雨の大阪》の画面中央は土佐堀川。手前が現在のフェスティバルホールの南にある「錦橋」こと土佐堀川可動堰である。単なる橋ではなく、名の通り川の流れを堰き止め、一気に放流することで川の汚れを押し流す設備である。錦橋の街灯や欄干は今も当時のままで、アールデコ風が美しい。


フェスティバルホール側(北側)から見た錦橋の欄干

 向こうが淀屋橋。たくさんの船舶が航行し、遠くかすんで昭和6年(1931)復興の大阪城天守閣が見える。
 岸の右側の船場には、右端に昭和5年(1930)の第2期工事で竣工した住友本店が描かれる。現在の三井住友銀行大阪本店である。


《雨の大阪》の右側

 そこから左へ二つ目のビルが同じく昭和5年に御堂筋に面して竣工した安田ビルディングだろう。さらに、ひときわ高く屋上に旗を掲げるのが、スポーツ用品の美津濃運動用品店(現・美津濃株式会社)の本店。講演会や展覧会にも用いられ、昭和4年に佐伯の兄によって佐伯祐三遺作展が開かれた。美津濃の手前の赤煉瓦建ての建物は、小さな望楼が特徴的だが何かは特定できていない。

 重要なのは、近代都市にふさわしい美観−「都市美」を求めて川沿いに設置された大きなフラワーポッド群である。2年後の昭和12年(1937)に完成する遊歩道(逍遙道路)の一部で、絵葉書セット「VIEW of Great OSAKA」にある「土佐堀河畔逍遙道路(PROMENADE,RIVER−SIDE OF TOSABORI)」には、「大大阪市の面目を発揮するものの一つがこの写真に見る風景、つまり土佐堀河畔ら装ひ美はしく整然と伸びた逍遙道路が、これで明朗な近代色豊かなところである。」と紹介される。


絵葉書セット「VIEW of Great OSAKA」より「土佐堀河畔逍遙道路(PROMENADE,RIVER−SIDE OF TOSABORI)」

 自動車が走り、土佐堀川が西横堀川に分岐する位置に架かるのは西国橋。本店との調和を重視して住友が設計した。西国橋も「VIEW of Great OSAKA」に登場し、街灯が曲線的でアールヌーボーの気分を漂わす。


西国橋の袂にて。後方は近代大阪の都市ホテルのシンボルだった新大阪ホテル(1935〜1973)

 画面左側上部の中之島も近代建築オンパレードである。
 特定出来るものをあげれば、淀屋橋の上にシルエットで描かれるのが大正7年(1918)竣工の大阪市中央公会堂、住友家の寄付で明治37年(1904)に開館した現在の大阪府立中之島図書館が重なる。描かれているのは大正11年(1922)に増築された図書館南側の翼楼である。


池田遙邨《雨の大阪》の左側上部

 その左に二つの塔があるが、高い方が塔楼に「みおつくしの鐘」を吊る大阪市庁舎である。明治22年(1889)に大阪市は誕生するが、市制特例によって市長を置かず府知事が市長職務を行った。
 市が大阪府から独立したのは明治31年(1898)、堂島にあった市庁舎は大正10年(1921)に現在地の中之島に移る。新庁舎はコンペで小川陽吉の案が一等となり、片岡安(やすし/1876〜1946)が実施設計した。
 

昭和57年(1982)まであった大阪市旧庁舎。御堂筋には市電、土佐堀川には観光艇乗り場が

 同年、市は公募で「市歌」も制定する。歌詞は森鷗外や幸田露伴らが審査し、東京音楽学校助教授の中田章(1886〜1931)が作曲した。「夏の思い出」「雪の降る町を」で知られる中田喜直の実父である。

《雨の大阪》をよく見ると図書館の左手前に鳥居がある。


《雨の大阪》淀屋橋奥の拡大図。アーチ中央の真上に浮かんでいるような鳥居に注目

 これが豊臣秀吉を祀った豊国(ほうこく)神社で、明治12年(1879)に中之島の山崎の鼻に創建され、大正元年(1912)、市庁舎と府立図書館の間に遷座した。現在は大阪城二の丸に鎮座する。


豊国神社参道入り口の鳥居。背後の建物は大阪市庁舎

 なにより興味深いのが、もうひとつの建物で、淀屋橋北詰に描かれ、以前から《雨の大阪》の画中でも存在感があって目立っていた。今回の展覧会のための調査研究で、大阪くらしの今昔館の谷直樹館長が、昭和7年(1932)竣工の淀屋橋ビルディングであると特定した。


御堂筋東側より。背後の建物は現存する三井住友銀行大阪本店

『近代建築画譜』によると建坪23坪の5階建て。規模は小さいがモダンで斬新なビルである。映画『大大阪観光』(昭和12年、大阪市指定文化財)にも登場し、阪急百貨店の広告が取りつけられている。


かつて大阪市庁舎の南側にあった観光艇乗り場

 施主は株式会社淀屋橋ビルディング。同社は昭和9年に同じような意匠の湊町ビルディングを道頓堀川に面した西道頓堀(南堀江)に竣工させ、ここにも阪急の広告があった。湊町ビルディングはいまも現役である。

 画中には続いて明治36年(1903)竣工の日本銀行大阪支店(現存)のドームが登場する。それに重なって西隣にある露台は映画『大大阪観光』に登場する。


土佐堀川南岸より。現存していれば名物になっていたはず

 さらに西に屋上に煙突や小屋がある建物がつづくが何かは不明である。
 ちなみに《雨の大阪》と近い視点で描かれた洋画が古家新(ふるや・しん/1897〜1977)の《朝の街景》である。

古家新《朝の街景》1936年

 古家は大阪朝日新聞社の学芸部に在籍し、『週刊朝日』の編集も担当した。肥後橋北詰の朝日新聞大阪本社の上から描かれた昭和11年(1936)の作品だが、道行く人の影が長く伸び、夜勤明けの早朝にでも筆を執ったらしい。
 肥後橋や右端の大同生命は《雨の大阪》にはなかったが、市庁舎や住友本店、問題の淀屋橋ビルなどは登場し、美津濃本店の窓に、反対の窓から朝日が突き抜けているのも面白い。朝日の逆光にマンモス都市が浮かびあがる。

都市の雨に個性豊かな人々

 《雪の大阪》の大阪の街や建物は、くっきり明晰に描かれたが、《雨の大阪》では、降り注ぐ雨によって近代建築群のほとんどがシルエットで、都市の偉容もぼやかされている。しかし、人物はかなり明確に描きこまれ、雨宿りではないが日本的な風俗画の伝統を継承する。

 登場人物は傘で洋装か和装か大別され、錦橋を走る左の女性は、新聞社か朝日会館の公演にでも急ぐのか、洋装のモダンガールである。


《雨の大阪》錦橋上の拡大図

 夫婦らしい和装の男女が後につづき、階段を降りる日本髷の女性と、サラリーマン風の男たち。洋髪に振袖の女性が、紙が風で散乱して困っている。


《雨の大阪》錦橋南詰の拡大図

 ねんねこ半纏で子供をおぶった夫人がいるかと思うと、長靴を履いてこんな日に洋犬を散歩させる男もいる。


《雨の大阪》土佐堀通の拡大図

 白い割烹着に裾をまくり、店名の入った傘を差す女、自転車で雨を突っ切って荷を運ぶ男。白いコートの紳士は道路を睨み、迎えの自動車を待っているのだろうか。

 強い北からの風で煙や旗が南にたなびいているが、画面全体は明るく、この降雨が台風到来なのか、梅雨か、驟雨なのかは分からない。シルエットでぼやかされた都市景観を書割に、錦橋と歩道を舞台に見立てた演劇のように、雨の日の人々が浮かびあがる。
《雪の大阪》にしろ《雨の大阪》にしろ、洋画で学んだ遙邨のデッサン力が発揮されるとともに、大和絵風の彩色や描写など日本古典絵画の美も盛り込まれ、そこに新しい近代の風俗画が誕生している。

 実は前年の昭和9年(1934)9月21日、大阪は室戸台風に襲われていた。高潮被害や強風による倒壊被害などで約3,000人の死者・行方不明者を出した台風である。名市長であった關一(せき・はじめ)大阪市長も、災害復旧を陣頭指揮して心労が重なり、翌昭和10年1月26日に享年63歳で歿している。

 その意味で、当時の大阪人に台風の記憶を呼び覚まさせた可能性もある《雨の大阪》ではあるが、歳月の経過で記憶も薄らいだ現代人の目には、どことなくユーモラスで、ジーン・ケリーのミュージカル『雨に唄えば』の有名なタップダンスのように(現曲は1929年の映画「ハリウッド・レヴィユー」)、雨を描いても気分がブルーにならない名作だろう。

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