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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第8回 淡路の玉葱とおじいちゃんの「時間」

極めて個人的で、さらに一般的な話で恐縮なんですけれども、
先日、小学校6年生の時の同窓会がありました。
僕は今年50歳(1965年、昭和40年生まれ)なので、
僕の小学校6年生当時とは、今から約38年前の事ですが、
その日、地元の料理屋で同級生等と共有した認識は、
「ほとんど昨日の事のようである」ということでした。
実際には38年という月日の隔たりの実感は僕自身もまるで無くって、
小学校6年生の僕は「過去」ではなく、僕の中ではどちらかというと「現在」のカテゴリーに属している。
「うーむ、そうか、あれから38年もたったのか」、と。

僕の父は1929年(昭和4年)生まれ、父方の祖父は1893年(明治26年)生まれで、
ちなみにちょっと調べてみると、この明治26年は、
「清水の次郎長」が亡くなった年であります。
清水の次郎長は1820年(文政3年)の生まれで、
この年、淡路島所縁の「菜の花の沖」高田屋嘉兵衛は51歳。
高田屋嘉兵衛が生まれたのは1769年(明和6年)、第十代将軍・徳川家治の時代です。
こういう風に書くと、なんかわりと最近の出来事のように思えます。
世界史でいうと、アメリカの独立宣言はこのときから7年後の1776年7月4日。

僕の祖父が12歳の時に65歳の祖父の祖父(1840年、天保11年生まれ)が12歳だった時、
(ちょっとややこしいですが)それは今から163年前の1852年。
これはペリーの黒船がやってきた1853年の前年です。
「おじいちゃんの、おじいちゃんの時代」
おじいちゃんの、おじいちゃんが22歳の時、1862年に生麦事件。
大政奉還(1867年)は27歳の時。

いったい「おじいちゃんの、おじいちゃん」はその時、
何を見ていたのでしょう?
僕の家の系譜は、山陰道筋の出石藩なので、
当時の出石の、透明な空気が張りつめて、それが霞のようにゆらぐ町並み、
平穏な日常の生活に隣接する「死」の気配、
薄暗い家中の「必要以上の静けさ」を、僕は想像します。
目をつぶるとそこに、「人の走っている音」が聞こえる。


1866年(大政奉還の前年)は獅子座の流星群が見える年でした。
もし出石でも見えたのなら、「おじいちゃんの、おじいちゃん」は城下に出現した、夜空の大流星を見て、
いったい何を思っていたのであろうか?

なんか、話がちょっと錯綜しますが、
じつはこんな話になったのは、淡路島ではちょうど秋の今頃が「淡路の玉葱」の播種~育苗の時期なんですけれども、
そもそもこの、「淡路の玉葱」というのは、いったいいつからなのか?
と、ふと思ったからでした。

諸説あるようですが、食用玉葱が最初に日本に入ってきているのは、
Boys be ambitiousな、札幌農学校(現・北海道大学農学部)経由でおおよそ明治の初め頃、
淡路島で一般的に生産が広まりだしたのは、1921年(大正10年)頃から昭和にかけて、が通説のようです。
なんだ、ほとんど最近じゃないですか。
「戦後の国民の食生活の洋風化と、生産体制の近代化が市場を拡大し~(以下略)」
そうか、そうすると、実質まだ70年か。
ちなみに農業関連でいうと、田中正造さんが足尾の鉱毒事件で直訴に及ばれたのは
114年前の1901年(明治34年)。

人間の時間に対する感覚が、本質的にあまり変化しないのであれば、
「うーむ、そうか、あれから38年もたったのか」、と現在を回顧する時、
僕は88歳になっております。
そして僕は、50歳になった孫の孫が、ふと「2015年」の事を思い浮かべている場面を想像する。

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