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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第1回 「レストラトゥール」って何だ?

 みなさま、こんにちは。兵庫県の淡路島の農家の橘です。
 ごく一般的に普通、淡路島の農家というと、だいたい「米」と「玉葱」を作っている、あるいは玉葱ではなく「レタス」、または「キャベツ」ということになるんですが、僕のやっているのは、もちろん農家なので「農産物の生産」という意味では同じなんですが、内容というか、形態が一般的なそれとは、けっこう違う部分もあるので、それについて最初なので、ちょっと説明したいと思います。

 僕が現在やっているのは、野草の採集、有機野菜の栽培、日本蜜蜂の養蜂、平飼いの養鶏(と飼料の自給)、罠と銃の狩猟、と、それらのレストランへの販売、というようなものです。
 面積はほとんど山林化した畑を含めて七反程度。
 まだ淡路島に来てこれから五年目で、うまくいくこともあるし、なかなか思うようにいかないこともあり、個々のそれらはまだまだ不完全ですが、時間をかけて、それぞれを納得のいく形にしていきたいと思っている。そしてその中心をなすものとして、葡萄の栽培とワインの醸造を形にして、たとえば淡路島のリゾートホテルと、多面的で総合的な仕事を組み立てていきたい。

 と、まあ、その様に行きつ戻りつ、ちょっと夢見がちに日々を送っていますが、そもそもなんで、普通に玉葱とかを作らずに、こんなことになっているのか?といえば、おそらくたぶん、いまだに僕は「レストラトゥール」だからだろうと自分では思っています。

 僕はもともと神戸の出身で、飲食業界の仕事が長く、若いときにアルバイトしていたイタリア料理店でワインに触れて、「なんだかおもしろそう」と思ったのがきっかけで、結局のめり込んでソムリエになり、その後ずっとワインに携わる仕事をしてきた経緯の人間です。
 そして、農家になった今でも「レストラトゥール」であるという自認は、かつて働かせていただいたフランス料理店の[レストラン・ジャン・ムーラン]と、そのレストランのオーナシェフだった美木剛シェフとの出会いが、やはり僕の自己形成に深く関わっているだろうと今でも思います。

 [レストラン・ジャン・ムーラン]で当時、美木シェフが僕に見せてくれた、美木シェフの、「レストラトゥール」としての「世界の分節」は、それまで僕が認識していた、「レストラン」というものへの理解の、本質的な書き換えを迫るものでした。
 要約するとそれは、「レストランは等価交換ではない」というものです。
 「レストランの本質と商売は別の体系に属する」ということと、「レストランの本質は、謎である」ということです。「謎」は文化人類学的な文脈の「贈与」の契機として機能している、おそらく。
 シェフ、弟子は師の教えを「勘違い」込みで勝手に解釈していますが、ところでこれ、あってます?
 僕にとっての「レストラン・ジャン・ムーラン」は、「世界の成り立ち」に触れるものとして、おそらく体験されたと、つまり。

 それともうひとつ、[レストラン・ジャン・ムーラン]の、鮮やかで、大ぶりで、スピードがあって、相反する粗い削りと精密さが混在する、とても魅力的な「世界の分節」を共有する、当時の個性的な人たちとのチームを組んでの仕事は、僕にとって、とてもスリリングなものでした。僕は多分、皆からいろんなものを学んだのでしょう。僕はそれらを携えて「自立」しなければならない。僕は「役目」を拡大しなければならない。

 というわけでその後、[ジャック・メイヨール]というワインバーを始めたわけです。
 なので、僕が[ジャック・メイヨール]でしたかったことは、実は「神戸の街」の「ウエイティング・バー」というものです、大風呂敷ですが。その日最初の一杯目を気持ちよく飲んでいただける店。それからみなさまには、「神戸の街」に数多くある「素敵なレストラン」に食事に行って頂きたい。そして食後、その日最後の一杯を寛いで飲んでいただきたい。それは僕にとって、神戸という街の中の僕の「レストラトゥール」としての「役割」でもあったわけです。

 [ジャック・メイヨール]には、一杯目と最後は美味しいワインを飲みたいという「ワインファン」の方々がたくさん来てくれました(その節はみなさまほんとうにありがとうございました。みなさまと過ごさせていただいた愉しい日々のことは僕は今でも鮮明に覚えています。僕はそれを大切に墓場まで持っていきたいと思っています。ちなみにぜんぜんそうでない人もいますが)。
 当時毎晩、あれだけ[ジャック]でワインが開けられて、その中でワインの話をする方がほとんどいないという状況は、今にしてあえて言えば、タイトで査定的な現代の消費構造に鑑みて、あるいは「奇跡的」ではなかったかと思います。僕が[ジャック]をワインマニアの集う店にしたくなかった最大の理由は、「マニア」は「等価交換」だからです。シェフ、これ、あってます?

 ぜんぜん話が飛ぶんですが、僕はヨットと山登りが好きで、なんでまったく別の「海」と「山」にそんなに自分が惹かれるのか、自分でもその意味がよくわからなかったんですが、農業をしながら「レストラトゥール」を意識しだしてから、なんとなくちょっと腑に落ちました。それは、こういうことです。「港と山小屋は、困っている人間を拒まない」。
 僕は、嵐になりかけの海から避難した小さな漁港の通船の桟橋に、ヨットを留めさせてもらったことがあります。強風の低体温で足がほとんど動かなくなったさきの山小屋の食堂の床に寝かせてもらったこともあります(その節はありがとうございました。どうもすいませんでした。みなさまの無名の他人に対する無条件、無防備な「慈愛」は忘れません)。
 そのとき、僕に応接してくれた人に拒まれていたら、僕はおそらく、ほぼ死んでいたんじゃないかという気がする、そのへんで。僕はたぶんそこに、「等価交換」ではない分節のされ方をした「人間」を見て、その風通しの良さに惹かれているのであろう。

 僕は何らかの形で「無条件、無防備」な物事に対する「責務」を負っている。
 というわけで、僕の農業は、「レストラトゥール」としての「責務」と「返礼」がおそらく根底にある。「レストラトゥール」の本質が無条件で無防備な「贈与」であるとするならば、おそらくそれは僕の中では「港の入口にある灯台」のような形態をとっているのでしょう。

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