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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第7回 贈与の返礼

 みなさまにおきましては、先日(5月21日)のスムフムラボでの対談「おいしく食べるために、農をしてみる」をご観覧いただきまして、まことにありがとうございました。

 普段、淡路島の山沿いの田畑で、ほとんど誰とも会話することなく延々と農業をしているというのは、今まで目に入らなかった物が見えるようになり、聴いたことのなかった音が聴こえるようになる、という事であり(リアリティーの焦点が変化する)、先日のようにスムフムラボでみなさまの、いろいろな声を聞かせていただくというのは、僕にとっては、消失しつつある現在? に対する現実感を取り戻すきっかけになる刺激的な体験でありました。

 というわけで、今回は、前回からのW.H.オーデン続きということで、コアな狩猟の話を考えたかったんですがそれはまたの機会にあらためるとして…。
 今回は、みなさまから頂いた
「農業に興味を持っている若い世代の人たちが増えていると思うんですが、
なんででしょうか?」というお題について。


 少し前に「ワイン・ブーム」というのがありました。当時、なぜ「ワイン」が、一般的にあれだけ多くの人々に広く浸透したのか? の要因について、簡潔に、説明的に語ることは、もう少し時間の経過が必要であるような気がします。
 と言いますのは、当時の「ワイン・ブーム」と、今の若い世代の人たちが興味を持つ「農業」はたぶん、表象の異なった同じ脈絡のものなのではないか、というふうに考えるからです。

「ワイン」はもともと農産物なので、「農業」とあえて分ける必要はないと思いますが、現代の社会において「ワイン」と「農業」という、その其々が象徴するものはおそらく「アンチ・マスプロダクト」であって、そうなのであれば、今後もますます均一化されていくであろう我々の生活の中で、この「アンチ・マスプロダクト」の流れはその我々の生活の変化に照応し、ますますコンサヴァティヴに傾斜するであろう世相を受ける形で、今後も継続するであろう、と思われるからです。

 ここで「アンチ・マスプロダクト」が志向しているものとはいったい何であろうか?
 それは豊かな消費者が、他と同じではない、唯一無二の「オーダーメイド」を志向する、ということなのであろうか? あるいはマスプロダクトの孕む一般性、「安易」「軽率」「浅薄」というようなものに対する嫌悪なのであろうか? 
 もう少し根源的な、「進歩」に対するソリッドな反感なのか?
 例えば、現代における都市生活者は、直接的な生産をしない。
 それは「必要なものはすべて買うしかない」という事である(都市生活者にとっての生産は、通常雇用関係を迂回しているので、直接的な労働生産から疎外されている)。
 そういうふうに言えば、都市生活者とは「純粋な消費者」である。

 例えばある日、穏やかな休日の昼前に、Aさんから宅急便で箱が届く。
 Bさんが箱を開けてみると、中には大きな冬瓜が入っている。

「あれ、何これ、大きいなぁ、すいか?」
「え、冬瓜?」「とうがん…」
 箱の中に時候の挨拶と「菜園でとれました」云々の手紙が入っている。
「ええっと…これは食べ物、か?」
「10キロ、以上あるな…」
「まあ、ちょっと落ち着くまで、仏壇にお供えしとこ」

 そのような進み行きで、BさんはAさんに貰った冬瓜をその後、とても食べきれないという事もあり、ご近所に配る。
 Aさんが自然から贈与された冬瓜は、Bさんに贈与され、それはBさんのご近所まで行き渡った。
 これは何か、お礼をしなければならない。
 ここで都市生活者のBさん(純粋な消費者)は思い当たる。
「お礼をするにも、お礼は買うしか、他に方法がない」
「このような経緯でもらったもののお礼を、貨幣で媒介された商品で返すというのは、はたして道理に適ったことなのであろうか?」
「かといって返礼の一形態として、近所のバス停のゴミを拾うというのは、文化人類学的にどうか?」

 貰った冬瓜のお礼を買わなければならないとき、その冬瓜の、おおよその価値の査定が必要である。
 それは例えばネットで検索して、標準的な小売価格のようなものを参考にすればよいのか? 冬瓜の重さや、収穫された産地?なんかを勘案して?
 あるいはもっと、なにか労働価値のようなもので量るべきなのか?
 ここで、「純粋な消費者」であるBさんは、贈与され贈与するという、ネットワークからおそらく疎外されている。
「消費者」とは「自然からの贈与」のネットワークから疎外されているものの名である。

「農業に興味を持っている若い世代の人たちが増えていると思うんですが、
なんででしょうか?」というお題でした。

 農業における「生産」とは「自然からの贈与」を意味している。
 我々の「食べ物」とは本来、無料である。
 例えば鶏は再生産するので、前回の「鶏を飼う」で書いたように、飼料にする植物の種をとって翌年また蒔けば、肉や卵は永遠に無料である。
 そのような「自然からの贈与」に対して、我々は「無償の労働」で返礼する。
 農業について考えるとき、ここで錯誤してはならないのは、労働は農産物を生産するためではなく、「贈与の返礼」の形をとらなければならない、ということである。おそらくここが岐路であろう。

「贈与され贈与するというネットワーク」、それは「純粋な消費者」というものが構造的にリンクできない自然への「畏怖」や「礼節」である。
 消費者が消費する「商品」は、切り取られた「断片」であって、それらは集積しても「連続」しない。
 今の若い世代の人たちが興味を持つ「農業」とは、おそらくこの「贈与され贈与するというネットワーク」の「連続」、あるいは「循環」のことであろう。


 ここで「産業としての農業」について。
 戦後、日本の産地の農業は、右肩上がりの経済の発展と人口の増加に同調し、
近代化とともに発展してきました。
 しかし経済の発展がもたらす集中化による人件費に対する相対的な農産物価格の下落は、農業の機械化や効率化の速度を越えて生産者を圧迫しています。 
 加えて単価の下落を補う生産者あたりの生産面積の増加は、農業の持っている本来の「生産する喜び」を、単純労働のネガティヴな増加という形で損なってしまいました。
 そのような形で損なわれた「生産する喜び」は後継者の学習意欲を棄損するという「目に見えない」経路をとって生産者の高齢化、後継者不足、休耕田の増加、災害に弱い治水という「目に見える」形で表面化しています。

 現在、急速に過疎化が進む日本の山沿いの集落は古くから、山の斜面に棚田を造り、山林や川と共存しながら集落を形成してきました。
 そこには人間の「等身大の営み」が、「百姓」という百の仕事をこなす、集約された「知恵」として蓄積されています。
「百姓」は狩猟し、採集し、飼育し、栽培し、加工してきました。
 そして、その「自然からの恵み」を交換し、贈与することによって「自然からの恵み」に対して返礼してきました。
 そこでの「必要以上に多く働き、良く作り、丁寧に田や山林を管理する」というオーバーアチーブ、いわば「善意」がかろうじて今の農業を支えています。

 日本の人口は20年後には、現在のおよそ70%になる予想です。
 高齢化の進む社会で農業の大規模化は、国の農業全体として、一見効率が良いように見えますが、経済軸に支えられた「大規模産地農業」からは、おそらくこの「善意」は出てこないでしょう。

 里山の農業、「小規模中山間地農業」「生産する喜び」を再評価し、これからの農業に繋げていくことは、未来の日本の社会に「善意」をもたらす基盤となるものになるであろうと確信して、今回のお題に補完として応じたいと思います。

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