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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第6回 境界線とこちら側2〜鶏を飼う

 前回は米と野菜を作っての「自給自足生活」を、日常的で平易な数字で捉まえる、という話でした。

 僕はこのような事を、どうも「知的冒険」と捉えがちで、「季節外れの高揚」を伴ってあたる傾向にあるんですが、
「食」をめぐる問題はダイレクトに人体の組成に関わり、極めてプラグマティックでフィジカルな問題でもあるので、ダイヴ系(※1)御諸兄も、なにぶんおからだに差しさわりのなきよう(余計なお世話ですが)。
 という訳で今回は「我々は、どうやって肉を食べればよいのか?」の話です。

「肉を食べる」とは、そもそも、いったいどういう事なのであろうか?
 簡単である。動物に「死んでもらう」のである。
 こういう言い方は「適切ではない」ですが。
 僕の世界認識には、引き続き問題があるとしても、肉を食べる「方法」としては、それ以外にない。
 あるいは他に、なにか良い考えが?

 我々は常に、他の生物に「死んでもらっている」。
 我々は常に、他の生物から「個」を奪う。
 その都度その死を悼むことなく。
 それは、いったい、どのようにして?
 簡単である。「対面関係をやめる」のである。

 例えば、手についた無数の微生物(バイキンと呼ばれる)とは、対面関係があらゆる意味において存在しないので(たぶん)、それは石鹸による公衆衛生的な大量虐殺ではなく、単に「手洗い」である。
 一定の数を越えた「個」との関係は、交換可能で無名な「数」に変化する。

 例えば3羽、鶏を飼っているとして、3羽中の1羽はちょっと食べられない。
なぜならおそらく、彼女(彼)には「名」があるから。
 3羽中の1羽は「識別可能」である。
 では、30羽中の1羽は、どうであろう? 食べることが出来るであろうか?
 あるいは、300羽中の1羽であれば?
 というようにして「対面関係をやめる」と、「ホロコースト」はやってくる。
「合理性」は「数」を導入することによって「個」を奪う。
 これは「諸刃」である。

 我々の「日常感覚」、我々のソフィスティケートされた「無意識」は、その事実について「無意識」に、強く規制を掛けている。
 あなた「育てる人」、あなた「屠殺して解体する人」、わたし「買う人」、である。
「スマート」である(という言葉は、このような場合、適切であろうか?)。
 そこで我々が食べているのは、料理をめぐる「言葉」のビジュアルイメージであって、死んだ動物ではない。
 別々のカテゴリーに分けられた同じもの、例えば「健康的な環境で育てられたゴロワーズのブレスのプーレ」と「死んだ鶏」を、我々はまるで直接関係がない物のように扱う。
 我々は「見るまえに」、「跳んで」いるのである。
 積極的に、能動的に、「見ていない」のである(ちょっと原典と話が違うと思いますが)。

 例えば鶏の「孵化」「育雛」に関わると、その過程で卵から孵った雛が死ぬと、
心情的に、かわいそうである。
 これは養鶏者の責任である(養鶏者の無知や無能に由来する)。
 というように、「死んだ雛」というのは、我々にとって、「何かがひっかかる」。
 それはおおよそ、「ちょっとそのまま、ゴミ箱には捨てられない」という形態をとる。 
 この形態を、我々は始原的に「葬礼」と呼ぶ。
  
 しかし数か月後、若鶏になった鶏を絞め、解体して肉を取ったら、食べられないところはゴミ箱に捨てる(身体全体の約60%)。
 この「ゴミ」は「葬礼」の対象にならない(それは「日常感覚」として、ただの「ガラ」である)。
 我々はいったい、何を考えているのであろうか。


 という訳で「養鶏」の話。
 養鶏を自給作目の環の中に取り入れてみるのは、おそらく良案であると思われます。
「自給作目の環の中に取り入れる」というのはどういう事かというと、数十羽程度の鶏を自給飼料で繁殖させながら飼い、順番に卵と鶏は食べ、鶏糞は肥料として畑に戻す、というような体裁のものである。
 なので「養鶏業」を営む、というふうではないですが、だからといって、適当にやってなんとかなるかというと、そういうものでもなくて、やはりこういう小規模な形に応用できる、基礎的な「鶏」の知識は若干必要であるとは思われますが、しかし難しく考えなければ、そんなに難しくはないと思います。

 導入にあたり、自治体によると思いますが、100羽以下の飼育数であれば、「養鶏」扱いを受けない。
 しかし家畜伝染病などの流行発生時は、情報の提供、共有など、地域の取り組みになる。そういう「アウトブレイク」は、自分は知らない、ではちょっと済まないので、自治体の農林振興課、家畜保健衛生所にたとえ小規模でも申告しておく。
 といっても、それ自体は面倒なことはなくって、防疫や衛生管理をはじめ、いろいろアドヴァイスも頂けると思います。
 関係御各位から学ばせてもらうものも多いと思う。

「何羽くらい飼えば?」
 という事で、ちなみに隔週に1羽食べるとして、
 2羽×12 = 24羽 (年間)
なので、そのあたりから始めてみるのが、穏当なところではないでしょうか。

 鶏の品種は何でもよいと思われるが、採卵鶏は通常、品種改良されて就巣性が失われているので、自然育雛するために就巣性のある矮鶏(チャボ)などに抱卵させる。
 矮鶏は自分が抱ける卵の数、7個前後になると抱卵する習性があるので、
3~4個のときに例えばプリマスロック(ニワトリの品種の一つ)の卵を同数程度入れておくと、とくに問題なく、両方とも孵化する。
 矮鶏ばかりだと、産卵率が低い、というのと(就巣、育雛中は卵を産まない)、
体躯が小型、という事で、食用にはあまり向いていない(さらに、矮鶏は天然記念物に指定されている)。
 なので、プリマスロックなどの兼用種(採卵と食肉の両方に利用される)の
孵化、育雛用に共存させる。


 鶏の卵は通常、抱卵されておよそ21日程度で孵化して雛になる。
 そして半年後にはほぼ成鶏になり、卵を産み始める。
「自給作目の環の中の養鶏」は、そのようなことから端的に、「我々が食べて減った分、増やす」という作業になる。
 おそらく群のうち、雄から順に食べることになるであろう(ちなみに当然の事ながら、生まれてくる鶏の半分くらいは雄)。


「安定的に肉を食べる」というのは、「群れの中から1羽を選ぶ」という事である。
 それは僕にかつての、ポーランドの絶滅収容所を連想させる。
「安定的に肉を食べる」というのは、「雄鶏の、昨日聴こえた鳴き声が、今朝はひとつ聴こえない」という事である。
「方法」については、難しくはないと思われます。
 それ以上は書きませんが。

「鶏のエサは?」という事で、
飼料量を初生雛6.1g、22週令(154日)89.2gまで増加、
その後120gで算出すると、
 0.0563×154 = 8.67kg
 0.12×211 = 25.32kg

『養鶏マニュアル(表-8 雛の成長と飼料摂取量の基準)』より(※2)
 8.67+25.32= 33.99 kg/1羽 (年間)

 24羽を維持するための年間飼料量は、
 33.99×24= 816 kg/年

 鶏の養分要求は、「NRC標準」や「日本飼養標準」などを一応、参考にされるとよいと思われるが、これらはどちらかというと大規模企業養鶏のコスト算出用のデータなので、我々にはたぶん、関係がない。
 僕の暮らしている倭文土井谷(しとおりどいたに)のおじおば曰く、
「鶏は庭に放し飼いにして、砕いた貝殻やっとけば卵産む」。
 含蓄ある言葉である。

 以下は『増補版 自然卵養鶏法』※3
の「単味飼料自由摂取試験における摂取比率 121~170日齢」に依っている。
内訳は年間飼料量816kgのうち、 
 穀類 45%(367.2kg)
 糠、発酵飼料 35%(285.6kg)
 蛋白質類 10%(81.6kg)
 緑餌 10%(81.6kg)

 なので、穀類を前回の「境界線とこちら側1」の自給米の裏作に麦を植えて賄うとすると、
 麦反収5俵、作付面積2.04(反)で合計年間10俵、
 10×60kg = 600kg 
(年間必要量穀類367.2kg+232.8kg)


 糠は前回の自給用米生産面積2.04(反)から、
米の年間収穫分の30%(環流式精米)とすると、
 480(米反収平均)×2.04×0.3 = 294kg 
(年間必要量糠類285.6kg+8.4kg)

 野菜も前回の年間野菜収穫量1,316kg – 年間摂取量指針876kg = 440kg
ということで、440kg余裕があるので、作目を調整して

蛋白質類、緑餌の補給にあてる。
 440-81.6-81.6 = 276.8kg
(年間必要量蛋白質類、緑飼163.2kg+276.8kg)


 実施にあたって、上図で言えば、飼料の量にまだ余裕がありそうなので、
鶏の飼育数は、もう少し増やせそうである。
「自給作目の環の中の養鶏」の肝要な点は、時間とコストを養鶏だけに専有されないように全体を調整する、「調整作業」である。
「自給作目の環の中の養鶏」の専有作業のおそらくほとんどは、「鶏の観察」と、
「醗酵させてみる」などの、「飼料の改良」になる。
 飼料の指針は、「無農薬で土が付いており自然の滋味に溢れ、醗酵食で養分要求を満たし、しかも無料」。

「卵の話」という事で、オフィシャル(?)な数値として、各種の採卵鶏は、養鶏場で通常年間300個前後卵を産むが、「自給作目の環の中の養鶏」では点灯等の環境管理をしないので、日が短くなると産卵は著しく減少する。
 秋になると矮鶏や軍鶏(シャモ)にいたっては、まったく産まなくなる。
 それでも冬至を過ぎ、立春の頃になると、巣箱でごそごそしたり、うろうろしたりして、そのうちまた生み始める。
 卵には実は、「季節」があるのである。

 そのようなことで、
例えば採卵鶏を10羽維持できれば、成績60%として、
 300×0.6 ×10 =1,800個
 4人家族であれば一人1日1.23個の割り当てである。

 近代養鶏という産業構造が、すでに予想される危険水域を越え、
「カオスの深淵」に差し掛かっているように見えるのは、とくにポリティカルな少数意見という訳ではないであろう。
 今年の鳥インフルエンザの流行をめぐる報道を見れば、集約型で大規模な近代養鶏の脆弱性が本来の、体系的な産業自体からはみ出して、共同体の基幹に「非体系的」に関わっているのがよくわかる。
 こういうのは「天災(?)」なのであろうか?

 現在も本病に対する防疫対策の強化、監視警戒は継続中で(この文章は2015年1月28日に書かれた)、僕も小規模ながら当事者なので、御心労の多い防疫関係各位を前に(淡路島の家畜保健衛生所は僕の家から車で5分の所にある)、
自由に発言するような時期に今はないと思われるので、あまり具体的な事については差し控えたいと思いますが、やはりこれは、どう見てもプラットフォーム自体の問題であろう(それぐらいは僕にもわかる)。

 現在の養鶏は装置産業で、業者から全量雛を買い、業者から全量買った飼料で育て、全量処理場、業者に出荷する。
 そこには少なくとも、「経営」と呼べるほどの、養鶏者の主体的な判断や選択が入り込む余地はない。
 こういうのは、コングロマリットの孫請けというものを越えて、ほとんど植民地経営と呼ぶべきものではなかろうか。

「我らの狂気を生き延びる道を教えよ」
 僕は直流電源で損失なく稼働する家庭用電機の話をしているような気がする。


※1 筆者の造語で「知的・身体的好奇心の強い人たちの総称」です。だいたい、前後の見境のあまりない人たちでもあります。
※2『養鶏マニュアル』(岡本正幹・編/養賢堂・1977年)
※3『増補版 自然卵養鶏法』(中島正/農文協・2001年)

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