住ムフムラボ住ムフムラボ

橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第4回  淡路島の現代の狩猟をめぐる試論3「自然の贈与」

 我々の食べるものは、「食べられない自然」を、料理によって「食べられるもの」に「転換」、再構成したものである。
 それは料理という「儀式」に則って失われた自然との、「連続」を取り戻そうとしているように見える。
 我々の食べているほとんど全てのものは、あえて言えば、植物と動物の「死体」である。
 我々は、分別された植物と動物の死体を混ぜ合わせて加熱する。
 そしてそれを我々は「シチュー」と「名づける」。
 我々はその時、同時に「跳躍」するのである。
 そこには見えない「境界線」が存在し、「境界線」は、自然と人間との、「あまりにも大きな落差のある領域を隔てている」。
 我々は日常的な毎日の食事において、その境界線を「無意識に導かれるように」、適切に行き来している。我々は毎日、食事をとる度に、その都度「名づけている」。
 しかしその行為は、本来は、前段で見てきたとおり、「儀式」が中心をなす、一連の総体である。

 狩猟に用いられる銃は、通常、「必要以上に」手入れされる。
 銃は、入念に分解掃除され、注油され、磨かれる。
 銃は、「必要以上に」静かな、鈍い光を放つ。
 なぜなら「銃」は、動物を射殺するという用途以上に、
 儀式に用いられるための「聖性」を担保しなければならないからである。

 狩猟者は、狩猟の日の朝、「山の神=貴所」に詣でる。
 狩猟者はその日、自分が、「山」という大きな全体に、完全にとけ込むことが必要とされるのを知っている。
 彼は、大きな全体との「調和」を祈る。
 それは彼という、一人の人間の「個」が解体することを目指す。
 彼は、「向こう側」に行くのである。

 彼は山に入り、「人間」の形跡がないところまで来ると、立ち止まる。
 木に手を触れ、目を瞑り、呼吸を整える。
 彼は静かに、「山そのもの」に集中する。
 山の中で深く静かに、規則正しく呼吸を整えるという事を通じて、普段暮らす「こちら側」の自分が、静かに彼の中から「後退」していくのを感じる。
「山そのもの」は呼吸する彼の肺を通して内側から、少しずつ彼の身体の隅々まで浸透していく。
 彼は木々を透過する「光」を吸収する。
 ゆるやかに自分の身体が「浄化」されていくのを感じる。
 それは「流れ」である。
 どこかから、どこかへの、流れ。
 彼はその「流動」を感じる。
 少しずつ呼吸と心拍が落ち、雑音が消え、世界が明瞭になってくる。
 彼は「山そのもの」を聴く。
「山そのもの」に、自分の鼓動、内側の音が「調和」していくのを確認する。
 彼は完全に「開かれた」存在になろうとしている。
 彼は「山そのもの」に、完全に含まれ、完全に「一致」する。

 彼の眼にはすべてが映っていると同時に、彼はもう、何も「見ていない」。
 彼はただ、導かれるだけである。

 彼は道を、「気配」に導かれ、辿り、歩き続ける。
 そこには通常の意味の「道」はない。
 その「道」は、通常の意味で「見えない」のである。
 立ち止まって、視、聴き、感じる。そしてまた、歩く。
 彼を導く「気配」は変化する。
 その「変化」を彼は辿る。
「気配」は、時に希薄になり、あるいは濃密になる。
 彼は立ち止まる。
 彼は移動する。
 やがて稜線に出る。

 雲は動き、風は廻る。
 それは彼自身でもある。
 彼は位置を変える。
 狩猟者は常に、向かい風の中を移動する。
 彼は、風がゆるやかに吹き上がってくる谷を下る。
 歩き続ける彼は、再び「気配」が濃密さを増すのを感じる。
 立ち止まった彼の手には装填された銃が携えられる。
 彼は、「調和」が乱れないように集中し、移動する。
 彼は感じ、停止する。
 光の粒子。
 極めてゆっくりとした彼の動きは、停止しているときのほうが長い。
「世界」がゆるやかに「加速」を始めるのを彼は感じる。
 その彼の眼に、粒子の渦の中心のような、濃密な気配が映る。
 それは「猪」である。
 彼は「渦」の動きに反応し、一瞬で、引き金をひく。
 そして、はじかれるように「渦」の中心に跳びだす。
 彼はそこで「渦」が、撃たれた「猪」となって現前しているのを確認する。
 そこでは「渦」が乱れ、辺りを圧している。
 それは「光」である。
 彼はそれを止めなければならない。
 彼は刃物を使った一連の動作で「渦」の乱れを止める。
「渦」の濃密な乱れは、辺りを漂い、暫くして、やがて、消える。
 彼は立ち上がり、手袋を脱ぎ、かつて「渦」の中心であったものに手をあてる。
 それは温かい。
 それは「祈り」である。
 彼は目を瞑り、呼吸を整え、合掌する。
「祈り」は受動であり、空白である。

 我々の食べているほとんど全てのものは、植物や動物に形を変えた、「聖なるもの」である。
 それは、象徴としての自然からの「贈与」である。

 あえて言えば、我々の食べているほとんど全てのものは、「無料」である。
 それらはすべて、光と水が育んだ。
 そしてそれらは、すべて自然の中で「再生産」するのである。
 我々の「生」には、それらすべてに対するビハインドが深く刻印されている。
 我らは「責務」を負っているのである。

「再生産」と「循環」の調和は、人間の「個」を解体する。
「個」の解体は人間の「生と死」も同時に解体する。
 それはおそらく想像するに、人間にとって美しい光景であろう。

コラムニストから選ぶ

PAGETOPへ