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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第3回 淡路島の現代の狩猟をめぐる試論 2「料理人」

 現代の農業と狩猟が地続きなのはよいとして、なぜまた今回、「料理人」なのか、という御意見の正当性に礼を失しない形で、失われつつある農業の「神秘主義的」本質に、本論が挑むことができればと願っています。(直接、関係ないかもしれませんけど。すいません)
 というわけで、前回の続き。

「聖なる領域」を中心とした祝祭的な「バザール」に出入りする「職能を持った自主的な現代の公界者」について。
「無縁・公界(くがい)・楽」に出入りする「職能を持った自主的な現代の公界者」とは、実際には、それはどのような人々なのであろうか?

 公界の場に生きるためには、「芸能」を身につけなければならなかったと、さきにのべたが、戦国期の「芸能民」にも、算置(さんおき)や桂女(かつらめ)のように、遍歴生活を送る人々は少なくなかった。また「楽」「公界」「無縁」の場に住む人々も、分国往還自由を保証されており、ある範囲を遍歴するのは、「公界者」「公界往来人」の属性であった。
 この属性は、時代を遡るとともに、一層鮮明になり、遍歴の範囲も、はるかに広くなってくる。中世前期、こうした人々は、多少ともこれを蔑視する視角から「無縁の輩」とか、「遊手浮食」の徒とかいわれることもあったが、しかしその実態に即してみれば、多くはそれぞれの「芸能」をもって、天皇・神仏に奉仕する人々で、各々、独自な「道」をもつ「道々の輩」であった。
 周知のように、『東北院歌合』をはじめとする「職人尽絵」に現われる「道々」の人々は、多彩をきわめている。これに「普通唱導集」や『庭訓往来』などにみられる同様の「芸能民」を含めてみると、「道々の者」は海人・山人などの海民・山民、鍛冶・番匠・鋳物師等の各種手工業者、楽人・舞人から獅子舞・猿楽・遊女・白拍子にいたる狭義の芸能民、陰陽師・医師・歌人・能書・算道などの知識人、武士・随身などの武人、博奕打・囲碁打などの勝負師、巫女・勧進聖・説経師などの宗教人に、一応、分類することができる。
(網野善彦『増補 無縁・公界・楽』より~遍歴する「職人」 平凡社 1996年 P177)

 網野善彦氏が、ここで言及している中世の「公界者」は、その本質は「境界線を行き来するもの」であり、それは現代においても「ソフィスティケート」された形で機能しているであろうと想像することは難くない。
 中世の「公界者」の「機能」を現代に受け継ぐもの。
 それはおそらく、現代の都市生活者の日常的な生活実感にとけ込み、かつ、様態を変えながら日常生活の中で繰り返し言及されているものであろうと想像する。
 それは手工業であり、芸能であり、知識であり、宗教である。
 そのような重層性を持った、境界の「往来」をになう者、とは?

 イヴォンヌ・ヴェルディエは『料理民俗学入門』の「祭儀の食事」中で次のように述べている。

 料理は私たちが世界とおこなっている交換を和らげる力をもっている。日常生活の中でおこっているこの交換は、個人の人生が異なる段階に移っていくときと暦上の重大局面において、特有の重さをもつことになる。こうした時期は、通過儀礼と暦法で定められた祭儀によって、徴がつけられている。そこでは転換ということが問題になっているのである。この変化を秩序づけるために儀礼が求められ、それによって動揺は放置されるのではなく、制御されるようになる。それぞれの社会は、自分を無秩序に導きかねない危険に秩序を与えて身を護るための、「コスメティック」理論を発達させている。ちなみに、コスメティックという言葉の語源は、「秩序づけること」である。このような祭儀において出会う料理や食事は、まさにこの秩序づけの役割を果たし、それを分析していくと、当該社会で働いている「コスメティック」の原理というものが、あきらかになってくるだろう。
 それ自身が転換の手段でもある料理は、すべての転換を(少なくとも隠喩的に)容易ならしめる力をもっている。「通過儀礼」の中で、ヴァン・ジュネップは一つのカテゴリーから別のカテゴリーへの移行を実現しようという儀礼の段階を、つぎのように説明している。
 最初に「分離の儀礼」、続いて「統合の儀礼」、その二つの間に混乱を抱えた「限界的(マージナル)境界」という、三つの段階を区別できる。このうち最後の限界的境界では、そこにあらゆるものが混合されており、第一段階と第二段階の両方の特性が混在しあっている。この境界に、料理は位置づけることができるだろう。料理はそれ自身が両義的で、移行を可能にするものであるから、状況を操作する力をもつのである。料理のもつ媒介者としての機能が、ここでも価値を帯びることになるだろう。レヴィ=ストロースは「食卓作法の起源」の中で「料理の体制を冒すと宇宙が汚染される」と語っているが、私たちとしてはむしろ「無秩序のまま放置するとカオスに突き戻される」と言いたいところである。
(イヴォンヌ・ヴェルディエ『料理民俗学入門』中沢新一訳 くくのち学舎 2009年 P24)

「無秩序のまま放置するとカオスに突き戻される」というのは、現代の、コンビニエンスで均質的な、朝~昼~夜のない、都市生活の日常的な「食」そのものである。
 無秩序なそれは「補給」であって「料理」ではない。
「料理」はそのような「混沌」を秩序づけ、世界との狭隘な「交換」を和らげる。
 我々は「自然」そのものを食べることが出来ない。それは先に述べたとおり、自然は「動物の死体の一部」であって「牛ロース」ではない。
「料理」はイヴォンヌ・ヴェルディエが本書で指摘しているとおり、広範な「人間」を写したものである。
 拡大解釈すれば、例えば「オムレツ」は、卵をボールに割りいれ「分離の儀礼」、掻き回して味付けし「限界的(マージナル)境界」、油をひいて一定の温度に加熱された鉄(フライパン)で焼かれながら成形される「統合の儀礼」。
「自然そのもの」の有精卵は、料理という「混沌」を経てオムレツに「再構成」される。
 このような、料理そのものが持つ「転換」の様態は、料理というものを契機として「世界」を秩序づける。
 ここでもうひとつ、我々、現代の日本で暮らす者にとって一般的である、
「和食」の前菜のひとつ、「造り」の例をあげたい。

 一般にこの料理には、異なって分類される3種類の魚が使われ、「生=なま」の状態で供出される。
 この料理は加熱されたものより「自然」が直接的に表象されるため、象徴的に「鮮度」が、料理を形作っている。

 第一の段階として、3種類の魚の選定には、「季節」を考慮してその候補があがる。
 通常、魚は「季節」を象徴する食材で、選定される魚が供出される時期を「季節」として象徴するのが「適切」かどうかが、第一の段階として最優先される(季節外れ、は「過ぎたもの」として、象徴的に「鮮度」を棄損する)。

 第二の段階として、第一の段階を経た3種類の魚の候補から、表層的な「美しさ」を基準とした「組合せ」が構成される。
 この構成を決定づける要因は、異なって分類される3種類の魚の、料理された後の、純粋な「外観」である。
「外観」は、異なった3種類の「身」が切り分けられ、盛り付けられた時の色や質感をもとに考慮され、場合によっては「表皮」や表皮を剥いだ内側の「薄皮」、体表部分の「脂肪」、等の色や質感の変化、そして魚の「身」を角度をつけて切ることによって可視化する繊維の「目」などが配慮される。
 その「表象された美しさ」は「洗練された」ものでなくてはならない(洗練されていない、「野暮ったい」ものは、その配慮や扱い、知識の相対的な不充分が、象徴的にこれも「鮮度」を棄損する)。

 第三の段階は「味」である。
「締めた」後、間もない魚は生きているときの「硬さ」であるが、やがて死後硬直して硬くなる。そして数時間後には弛緩して柔らかくなり、成分が経時変化する。「適切」な経時変化を経た魚は食べると「甘く」、相対的に経時変化を経ない魚は「甘くない」。
 経時変化を経ない、「硬くて甘くない」魚は、料理全体を構成する一つの役割として「食感」を求められる。それは薄く切られて冷たく供出され、その弾力のある「食感」は「鮮度」を保証する。
 また、柔らかくて甘い、経時変化を経た魚は、厚く切られてやや高い温度で供出され、その厚みや温度が「熟成」を表す。
「熟成」は生きている。
「熟成香」は甘く、それは「劣化」による「におい」とは厳密に区別される。
 適切な「熟成」は生きているという意味において、「鮮度」を保証する。

 この料理、「造り」は、以上のような3つの段階を経て構想されている。
3種類の魚の選定は、3つの段階の往還の中で決定され、そしてその3つの段階は、すべて「鮮度」を象徴している。
 以上のように、「鮮度」をめぐるこのような態度には、「何か」が潜んでいるように思われる。
 それは単なる一般的な食事としての「日常」を越える、「過剰で徹底したもの」である。

 以下に「淡路島」での「造り」の実例をあげる。

 選定された3種類の其々の魚は、生きているものは庖丁によって絶命される。
 このとき、最初に中枢神経を切断する、血抜きをする、というようなことを通じて、「鮮度を保つ」という事に最大の関心が示される。
 この工程は「しめる」と呼ばれる。
 それは実利的であると同時に、「死」によって「生=せい」が経時劣化しないように、配慮されているように見える。
 一般に、市場からの配達を経る場合でも、「魚屋」は「鮮度」について、上記のような取り扱いをする。
「鮮度」は「魚屋」の象徴的な生命線である。
「鮮度」を保証できない「魚屋」は存在しない。
「鮮度」とは、名を変えた「生=せい」である。

「生=せい」を「保存」された魚は、「極めて手早く」解体される。
 鱗を除去され、内臓部分(場合によって一部、料理に利用される)を取り除かれ、可食部位である「身」は骨格から分離される。
 この工程は「下ろす」、「捌(さば)く」と呼ばれる。
「下ろす」作業は「場」の許すかぎり、通常「流水」の下で行われ、それは作業の効率から説明される事情を越えた、いわば、合理的な工程より何か過剰な、「儀式」の様相をとる。
「下ろす」料理人には熟練と同時に、通常以上の、緊張と集中が求められる。
 彼はそこで、「儀式」の進行と中枢を司る。
 彼はまるで、憑依されたシャーマンのようである。
 高度に専門化した彼の手の動きは、極めて正確であり、早いと同時に、愛情に満ち、丁寧である(速さに関して言えば、彼の手の動きを追跡するのはほとんど不可能である)。
 彼は一連の「儀式」のなかで、一時も「下ろす」魚を放置しない。
 流水から、彼の手元を経て、魚は形状を変える。骨格は流水に戻される。
 それは、信憑に支えられているように、見える。
 魚に宿っている「生=せい」は、流水によって清められ、愛情を持って丁寧に扱うことによってしか保存されない、という信憑に。

 そのような儀式を「施された」、魚は、すでに魚ではなく、「生=せい」を保たれた「身」である。
「身」は「転換」の過程であり、変成的な「中間」の存在である。

「身」は流水の下から場を変え、木で整えられた「板場」に移される。
 整えられた「板場」は、静謐な「祭壇」のようである。
「身」が置かれる「木」は、「まな板」と呼ばれる。
 通常、「まな板」の前に立つ料理人は、調理場の最上級者であり、彼は祭壇の前に立つ人間にふさわしく、常に清潔な、白い装束を身にまとう。
 彼は一連の儀式の中で、この料理の最大の「転換」に着手する。
 彼は「混沌」を経た「生=せい」が宿ったままの「身」を、「儀式」として切断し、皿の上に秩序を持って並べることによって、「生=せいが宿ったもの」として再構成する。
 すなわち彼は、「祭壇」の前で、「庖丁によって世界を分節する」のである。

 このように見てきたとき、一見、「生=なま」の魚を切っただけに見えるこの料理が、「造り」と能動的に、建築的に呼ばれるのに違和感は感じない。
 この料理は「生=せいが宿ったもの」である。
 言い方を変えればこの料理を、「生=せいが宿ったもの」として、「儀式」を通して形作ることによって、あるいは「境界」を越えることによって、料理人は「食べる」という行為に含まれた「混沌」、そこにある「境界線」を儀式として越え、我々の「世界」を秩序づけ、再構成する。
 イヴォンヌ・ヴェルディエが指摘している「転換」が、その本質であると言うことができる。

 網野善彦氏が(『無縁・公界・楽』の遍歴する「職人」)の中で言及している、
「無縁の輩」、「遊手浮食」の徒、としての「料理人」には、現代でも、ほぼ完全にその形態、機能が残っており(料理人は職能者としてその修業時代、文字通り「庖丁一本」で遍歴する)、「職能を持った自主的な現代の公界者」である。
 また、「それぞれの「芸能」をもって、天皇・神仏に奉仕する人々で、各々、独自な「道」をもつ「道々の輩」であった。というのも、拡大すれば、この「料理」というものがもつ「儀式」を含んだ「転換」は、「手工業であり、芸能であり、知識であり、宗教」であって、市場的な「等価交換」では価値を計れない「贈与」がその「本質」であり、「人間の裁量を超えたもの(天皇・神仏)」に奉仕する道々の輩」と言うことができる。
 現代でも、「鮨屋」はメニューとして、価格を表示しない。
 価格の表示は「等価交換」の表象であり、それは「贈与」の構造を破壊する。

「公界者」とは、「縁=個」が「無縁=自然」に帰る、言い換えれば「死」との境界の往来を担うものである。それは「自然」から「個」が生成する「生」の現場でもある。

 現代において料理が、日常的にメディアで繰り返し言及される「過剰」なさまは、都市生活の、「無秩序のまま放置するとカオスに突き戻される」という「決壊」を、多弁でせわしない、その「分裂症的症状」で、無差別に防衛しているように見える。
 それはもしかしたら、我々が思っている以上に、現代における「鎮魂」なのかもしれない。
(「淡路島」での「造り」の実例/[ホテルけひの海]にて)

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