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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第2回 淡路島の現代の狩猟をめぐる試論 1

 だいたい普通に、普通の都市生活者としてソフィスティケートされて育った人間が、銃で動物を撃つ、というような事が原理的に、はたして可能なのであろうか?

 そもそも、普通の都市生活者には、銃で動物を撃ち殺すというような瞬間は、その生涯のあらゆる場面において、おそらくおとずれない。
 あるいはまったく、おとずれない。
 都市生活者とは、「都市的なもの」に含まれた存在である。
 そこでは「非都市的」なものは「ソフィスティケート」される。
 あえて言えばそれはほぼ、「見えているが認識されない」というような形で。
「共同体」というのはあらためて、我々にとって「深淵」である。
 というようにして、日常的な都市の生活実感からすれば、そこに「合法的な銃」や「狩猟」というものの存在は通常、認識されない。だって「関係ない」から。

 都市生活者に「関係ある」のは、少しアイロニカルに脇に逸れれば、「家族のフルメンバー」として迎えうる「動物」についての様々な「査定」であり、「査定」を通過した「家族」との具体的な生活様式であって、「実装した銃で照準する動物」ではない。
 そのようなアイロニカルな視点は自己批判としてデスクトップに置いておくとして、例えば子供の時から動物が好きで、無分別に自分の行く先にやたら連れまわし、自分の食べるものは半分やり、寝るときは一緒というような、そんな子供であった一時期をおぼろげながらも経験した(実際に、僕はそういう子供でした)人間が、少なくとも家族のフルメンバーの一員として過去、動物と暮らした経験のある人間が、その人生の、ささやかで一般的な積み重ねの分節点において仕事上、言い方を変えるなら、生活を維持していくうえでの必要上、かつてのフルメンバーの「友人」を前にして、はたして最初の引き金を引くことは出来るのか?
 冷徹な「狩る者」としての優位から、罠に掛かって抵抗する生命を刃物で奪い、皮を剥いで解体するというような事が。
 僕は「友人」たちの、墓の前に立つことが出来るのであろうか。

 これはいわば、「現代における狩猟」を考えるときの、普通の「都市生活者」が突き当たらざるを得ない最初の「倫理的主題」なのではなかろうか?
 ここで「倫理的」と呼ぶのは、狩猟が、都市生活者としてのナイーブで情緒的な葛藤を越えた広範な「共同体の深淵」におそらく触れており、それは「食」や「家族」や「死」の問題に読み替えられる。
「現代における狩猟」と「現代」をここで強調するのは、現代では、食肉用の動物の飼育、屠殺、解体、は、日常的な生活実感からブラインドされた「食肉生産の過程」でしかないからで、例えば、レヴィ・ストロースにならって記述すると、「牛の上ロース、一人前¥1,500」は、「死後数週間たった牛の死体の一部」であって、そこにある実はまったく同じものを指す、二種類の記述の間にある見えない「境界線」の存在に、その「境界線」を隔てた領域の、あまりにも大きな落差に、あらためて僕は人間の「文化」の深遠な謎と、強調された現代のソフィスティケートされた「機能」に衝撃を感じます。
 前者は「食べられるもの」、後者は「食べられないもの」で、人間はその都度、その「境界線」を「適切」に行き来する。まるでそれは「無意識」に導かれるように。

 僕は農業者として生きていく決心をし、実際に試行錯誤しながら「農業」というものに係わりだしてからほどなく、この問題に突き当たりました。少なくともいずれ避けて通れない形で直面するであろう。
 それもかつて僕が経験したことのないものとして。
極めて平易な言い方をすれば、「農業被害をもたらす害獣の駆除」というのが、実際の日常生活として、あたりさわりのないところです。
 丹精込めた作物が一晩で全滅した、と。
 そこに「倫理」は必要ない、躊躇せず、農家はあるいは農政は「適切に」農薬を散布する。
 毎週、小さな「枯葉作戦」を「適切に」実施している。
 あるいはもう少し冷静にこういう言い方もできる。生態系は維持しなければならない。
 適正分布を越えた生態系の過剰分は人の手で、調整する、と。
 でも、本当にそんな議論でいいのだろうか?
 そんなことで、本当に、引き金を引いていいのか?

 僕が「狩猟」について考え、また実際に「狩猟者登録」をするに至ったきっかけは、以上のようなものでした。その「問い」はあまりに僕にとって取り扱いが難しく、ここでの通俗的な軽率さは、これからの僕の人生にとって何か致命的な瑕疵を残すだろう。
 判断にはたぶん、それ相応の時間を掛けなければいけない。
 これは正確に、原典にあたらなければならない。
 そのようにして僕の机の正面に狩猟関係の棚、を増設することになるのですが、進んでいくうちにそれは「狩猟関係」の棚、ではなく、そんな気がしていたのですがやはり、「人文関係」の棚になりました。
 まるで「ヨットの複雑な操船方法」に沿って現代のヨットを学ぶものが、やがて「航海の難所について書かれた古い海図」と「古い航海記」を必要とするように。

「現代の狩猟」について考えるとき、また実際に僕が「狩猟者登録」をするに至ったきっかけのひとつにもなった、オルテガ・イ・ガセーの『狩猟の哲学』から以下少しだけ。
 本書は1942年に刊行されており、動乱のスペインにおいての当時のおそらく知的で暴力的で、市民社会としての成熟と退廃がないまぜになった「豊穣なる沈黙」の実質は、僕のたどたどしい想像力では測り知れませんが、刊行から70年たった現在の「市民社会」の諸般に照らすとき、その本質に真っ直ぐ入り込む論調は、かえって精彩を増しているのではないかとも思えます。

 オルテガは本書の中で、「人間存在が最初は狩猟者たることにおいて成り立っていた」として、「もし私たちの種属が当時絶滅してしまっていたと想像するなら、「人間」という言葉には意味がないこととなろう。この被造物を「人間」と称する代わりに、これを「狩猟者」と私たちは名づけるに違いあるまい。
 ただこれが絶滅しなかった上に、中枢的なその仕事が、ほかの少なからず中枢的な仕事によって肩代わりもされたために、無限の存在様式、数え切れないほどの生活様式を包含するもっと総括的な述語が必要になったまでなのである。一つまた一つと無限に異なる種々のものであり得る能力、原則的にその可能性から閉め出されるかもしれぬものなど一つとして考えられないこの能力こそは、「人間」なる言葉の本当の意味なのである。」(『狩猟の哲学』吉夏社 西澤龍生訳P133)と続けます。

 オルテガがここで述べていることは、「農業」は基本的に「栽培」であると思っていた僕の視野を大きく拡げてくれました。
 また、ここで書かれていることは、僕に二本の映画を思い起こさせました。ひとつは『子鹿物語』という1946年のグレゴリー・ペック主演(おとうさんの役)のアメリカの開拓民を描いた映画です。
 昔見た映画で記憶がおそらく不正確なので、ウィキペディアなど参考にしながら以下、おおまかなあらすじ。

 舞台はフロリダ。貧しい開拓民であるバックスター家の少年ジョディは父(グレゴリー・ペック)と母と暮らしている。ある日、狩猟中に蛇に咬まれた父は雌鹿を殺し、その心臓で毒を吸出し応急処置をする。父はその殺した雌鹿に添っていた子鹿をジョディに与え、ジョディは子鹿にフラッグと名付け飼い始める。
 やがてフラッグは一家の作物の苗を食べ、一家が共存のために苦労して作った高い柵をも飛び越える。ジョディはフラッグを森へ戻そうとするが、フラッグは戻ってきてしまう。
 母はフラッグを銃で撃ち、瀕死のフラッグをジョディは自分で撃つ。
 ジョディは悲しみ、家出し、森を彷徨う。彷徨の末、倒れこんだ小舟が河に流れだし、倒れたまま河口で船に助けられる。ジョディは、息子のことをあきらめかけていた家族の元へ帰ってくる。少年から大人へと成長して。

「家族のフルメンバー」として、動物を迎え入れるという事が、それがたとえ動物であって「人間」ではなくとも、いかにその家族にとって大きな試練を伴うものであるかという事がここには描かれているような気がする。
 この映画ではそれが厳しさと共に、とてつもない「愛情」を込めて描かれている。
 木を切って畑を造り、家を建て、水を引き、道を造り、馬車を整備し、農耕し、狩猟し、飼い、墓の前で祈るという、この映画に描かれている「人間」は、オルテガにも共有されていたと想像する。

 もう一つの映画はここであらためて説明するまでもない、中世的な日本を描いた『もののけ姫』(監督・宮崎駿/1997年)です。「農民」に分類される以前の普通の人、「百姓」の種々な様式。
 そこで人々は、狩りをし、採集し、飼い、織り、金属を鍛え、漁獲し、酒を造り、交易していたと想像します。
 網野善彦氏は『無縁・公界・楽−日本中世の自由と平和』の中で「無縁・公界・楽」について次のように述べておられます。

 これらの仏教語が、日本の民衆生活そのものの底からわきおこってくる、自由・平等・平和の理想への本源的な希求を表現する言葉となりえた、という事実を通じて、われわれは真の意味での仏教の大衆化、日本の一端を知ることができる。もとより、ギリシア・ローマの市民の民主主義とキリスト教の伝統を持ち、ゲルマンの未開の生命力に裏づけられ、中世を通じて深化し、王権との闘いによってきたえられてきた西欧の自由・平等・平和の思想に比べれば「無縁・公界・楽」の思想は体系的な明晰さと迫力を欠いているといわれよう。とはいえ、これこそが日本の社会の中に、脈々と流れる原始以来の無主・無所有の原思想(原無縁)を、精一杯自覚的・積極的にあらわした「日本的」な表現にほかならないことを、われわれは知らなくてはならない。(『無縁・公界・楽−日本中世の自由と平和』平凡社P122)

 オルテガの「一つまた一つと無限に異なる種々のものであり得る能力、原則的にその可能性から閉め出されるかもしれぬものなど一つとして考えられないこの能力こそは、「人間」なる言葉の本当の意味なのである。」という「人間」の定義に目を向けるとき、そこに「自由・平等・平和」の思想が底流するのを確認することは容易であろう。
『子鹿物語』に含まれるメッセージもまた、(子供には理解できないので)「大人になり、「自由・平等・平和」を理解せよ」というものであると思われる。
そのことと重ね合わせるようにして、中世の日本の「人間」に底流する「無縁・公界・楽」を『もののけ姫』にも確認するのに大きな齟齬はおそらくないであろう。

 僕の居住する県はシカによる農林業被害の軽減と被害地域拡大の防止を目的として、シカの捕獲拡大に取り組まれていて、その一環で「狩猟者登録をされる皆様へ」として、「シカ緊急捕獲拡大事業」の実施を案内しています。
 
 ここでの「狩猟者」は実際は主に「銃猟」ではなく「罠猟」で、内容は、狩猟期間(平成24年11月15日~平成25年3月15日)に県内でシカを捕獲した狩猟者に対して、捕獲したシカ3頭目から捕獲頭数に応じて区分による報奨金を支払う、というもので、それによると10頭までが単価2,500円、11頭~20頭まで4,500円、21頭以上6,500円です。報奨金早見表によると50頭捕獲すると260,000円、100頭捕獲すると585,000円になる。
 事前に申請が必要で、月末毎の報告書、捕獲したシカの下顎前歯2本、日付入りの捕獲したシカの写真、出猟カレンダー、の提出が義務付けられる。
 また、自治体の同期間中のイノシシを対象とした同様な交付事業もあり、交付額は1頭3,000円で、100頭捕獲すると、300,000円。シカの場合提出する「下顎の前歯」は、イノシシの場合、「イノシシの鼻」に代替される。

 以上のように、現在、県、市とも農林業被害の問題は非常に深刻で、その対策も内容をみるとおり、かなり切実としたものが窺える。淡路島ではこの状況を受け止めるものとして、県と3市(淡路市、洲本市、南あわじ市)が研究会という形の場を設け、僕も先日、参加させていただいた。そこでなにか共同の「処理場」のようなものを造ってはどうか、という案が出て、僕は個人的に賛成したのだけれど、理由は大きくは3点で、

1、千頭単位の毎年の末端交付金は税金の使途として適切でない、気がする。
2、現在、千頭オーダーの捕獲された動物は、その多くは個々に埋設処理されている。
3、「処理場」を現代の「無縁・公界・楽」として蘇らせたい。

 かつて山の神の使いであり、また山の神そのものでもあり、貴重な食料でもあった猪と鹿(花札の主力メンバーを構成する)は、現在は捕獲交付金の対象であって、そのように捕獲された猪と鹿は、捕獲された現場付近にほぼ遺棄されている。誰も丁寧に扱わず、祈る人はない。その死を、粗雑に扱われた動物を、食べる人間はいないであろう。
「食べられるもの」とは本来、死を丁寧に扱われた動物の肉の事であろう。轢死した動物は食べられない。

 ここから「処理場」を現代の「無縁・公界・楽」として蘇らせたい、という事について、僕の想像の飛躍を少しだけ。
 例えば「無縁・公界・楽」の機能を持った「処理場」は祝祭的な「バザール」となるであろう。
「聖なる領域」を中心にしたそこでの機能が動物の死を丁寧に扱い、祈り、解体する。
 職能を持った自主的な現代の「公界者」が出入りし、その公共の「バザール」に集まる人々に調理した動物を振る舞う。
 食べられないところは、火葬され、祀られる。
 僕にはどうも、入り口はおそらくそこしかないという気がする。

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