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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第11回 都市生活者の、地方への移住

 都市生活者の、地方への移住という「お題」をいただいた。

 僕は神戸から淡路島に移住したので、その「お題」は、僕の「個」の話でも、もちろんあるのだけれども、都市生活者の、地方への移住というのが、昨今静かに増加し、それがやや社会的な現象の様相を帯びるという事に至っては、それは単なる個人の引っ越しの話というものを越えた「共同体」の話。
 そしてそれは、「共同体」というものがおそらく性格的に孕んでいる、
「過去」と「未来」の話であろう。

 都市生活者の、地方への移住という、いわば共同体内での大きな人口分布の変化は、産業構造の緩やかな変化の兆しとともに、僕には何か「修正」と呼ぶべきようなものが、そこで進行しつつあるように感じられる。
 それは、あえて言えば、僕の中では、人間の社会というものが失いつつある、
「存在との有機的な繋がり」を回復しようとする試み、である。

 前回でも少し触れたのだけれど、「中山間地」と呼ばれる地方の、多様な日本の暮らしは、その土地独自の形質を持つ野菜の「種」とともに、いま、途絶えつつある。
 かつての「日本の暮らし」は、生活に密着した野菜、その種を、集落、近隣で共有し、贈与し、交換しながら、その度に行われる人為的な「選抜」を経て、
その土地独自の形質を持つ野菜の「種」の「歴史的固定」に関わってきた
(多くの場合、その土地独自の形質を持つ野菜の「種」とは、裏庭や空いた畑に植えられた自家消費用の野菜であった)。

 なぜそのような経緯が、贈与や交換が「種」の「歴史的固定」に関わるのかというと、「在来種」の「純粋な系統」を守る自家採種の手法は、例えば特定の圃場(ほじょう=畑、菜園)というような、隔離、閉鎖された環境では、種の「近交弱性」「自家不和合性」などが系統の継続の障害になるので、
古来から先人は農家の知恵として、異種を混植し、交雑させ、それを選抜することで、種の「近交弱性」「自家不和合性」を乗り越えてきた。

 その混植の様態によって、例えば、三軒の農家は三様の雑種の可能性を生み出す。
 三軒の農家のそれぞれの雑種は、贈与、交換されることによって選抜が促され、さらに選抜を繰り返すことによって、贈与、交換が促される。
 そしてその様な一連の経緯が、結果として、「種」の「歴史的固定」に関わる。
そのような理由で、「在来種」とは、贈与、交換という、ネットワークの流動性が生み出した「緩やかに変化しているもの」である(変化の速度が遅いので、通常その変化は目に見えない)。
 それは「固定されたと見做された」、本質的に不安定な「流動するもの」である。

 現在生産されている栽培植物、商用の野菜は、体系的に育種されて作出される。
 そこで求められる形質は、例えば耐病性であるとか、多収性などの「農業的形質」である(それは、作り易さ、経営性と呼ばれる)。
 作出される種は産業の体系であるので、環境への適応、順化に関わらない中庸な形質の種は淘汰され、「より効率の良い」種に均一化される。
 産業の体系は、例えば、「病気に弱いが食べるとおいしい」であるとか、「少ししか取れないが彼岸に食べると身体に良いらしい」といったような、何だかよく分からない育種目標は許容しない。
 そのような、いわばバグを内包するのは、贈与、あるいは交換の多様なネットワークだけであろう。

 本来的な「種」としての流動性が「疎外」あるいは「制限」されたF1種を、
産業の体系が意図的に作出するとき、「種」は、その運動性、拡散性といった、ダイナミズムを失う。
 産業の体系が作出するF1の雑種強勢の力強い実りは、「種」としての連続性を失った代償であろう。
 再生産するもの、連続するものとしてのダイナミズムを失った実りの風景、
その表層的な力強い、広大な風景に、僕は静かな「沈黙の春」という言葉を連想する。

 産業構造の緩やかな変化として、これからの食糧事情が、いったいどのような形になるのが理想なのか、僕にはよく分からないけれども、
少なくとも未来の農業についてのシナリオを描く上での重要な要素は、幾つか確認できるようになってきたような気がしないでもない。
 昨今、少しメディアにも取り上げられるようになってきた、例えば無農薬、「自然栽培」等への言及も、産業としての評価はともかくとして、
それは慣行の農業生産が失った「大地への畏怖」、「大地との有機的な繋がり」を回復しようとする試みであろう(僕が夢想的に思い浮かべる、自然栽培についてのイメージは腐海に佇む蒼い眼の王蟲〈オーム=映画『風の谷のナウシカ』に登場する架空の生物〉である)。

 地方への移住する都市生活者にとっての農業というのは、僕も当事者なので何となく分かるのだけれど、必然的にその道は、有機農業へと進む。
 有機農業、これは移住する者にとっての「必然」である。
 移住とは、そもそもの意味において「革新」であるので(既存のもの、現状を、より適切と思われるものに変更する)、これはどうしても慣行の農業(保守=○○より伝統、現状を優先する)というものと、やはり構造的に相いれない
(○○に、簡単に「未来」という言葉を入れるのは憚られる場面である)。

 すなわち、企業の関わらない(求人ではない)、自然発生的で自立的な就農者が、有機栽培の道を探るのは必然であって、長期的に見て、従来的な形での、地方の産業の担い手には、おそらくならないであろう、という事である。

 人間の社会というものが失いつつある、「存在との有機的な繋がり」、それは現代の産業の体系が恣意的に作出した、非連続な「種」に象徴されているように僕には見える。
 そしてその「連続性=有機的なネットワーク」から疎外された人間の姿には、
「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という、レヴィ=ストロース先生の重い言葉が、重なっているように僕には思われる。

「連続性=有機的なネットワーク」というものが、本来の「保守」なんだろうけれど。

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