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橘 真

橘 真/甲南醸造所倭文土井農園経営

淡路島で農業に従事するかつての名ソムリエが、 日々自然を相手に時間をかけて農作物を育てることの楽しさ困難さ、喜怒哀楽をコラムにのせて。

第10回 「今では訪れる人のいなくなった古い図書館」

 土の地面に、コンクリート引きせずに、直接鶏舎を建てて鶏を飼っていると、その日の天候によって、鶏舎の匂いが頻繁に変化する。
 そういうふうに言ってよければその「ダイナミズム」は、「土の地面」に由来する。

 鶏を飼いだして今思い至るのは、この活動的な「匂い」をなにか、
「暮らし」全体の評価の指標の一つにできないか?という「妄想」である。
 そう、財務評価、とかに代わって。

 なぜそんなことを思うのかといいますと、もしかしたらそれは、
有畜有機、いわば「動物と暮らす有機農業」というものを通して、
我々の「暮らし」の在りように深く関わっているであろうと考えるからです。



 今どき野菜の生産に下肥=しもごえ(人間の糞尿)を使うというのは、
さすがに「知的冒険」とはいえ、大文字のチャレンジャーを通り越して、
真の「ロックンローラー」であろう。
 僕は出来ることなら、そんな人を尊敬したい。
 そういった「大航海時代的」な試みの、
最初に出てくる課題の、大きな核心のひとつは、
「それを(肥溜めを)どこに作るか?」である。

 できれば遠くの畑の際に設置したいが、遠いと「肥え」の運搬!が重圧である(「それ」は、生(なま)の状態である)。
 そもそも、誰が! それを汲んで、運搬するのか?
 かといって家から近いとトイレからの運搬距離は短縮されるが、
その、アグレッシヴでエクストリームな匂いと、
大量に発生する(と予想される)昆虫からの脅威は、
想像するに、ほぼデスメタルである。

(家のトイレから出る、その重篤な「個人情報」のすべてを、
堅牢にブラインドされた地下から、
陽のさす地表の公共の下に無防備に公開し、
近代的な「自我」、いわば個人の「個」を解除する。
まさに革命前夜である)

「それ」は、複数、分散設置したほうがよいのか?
 そもそも、雨が降ったらどうするのか?
(雨が降った時の、その破壊と創生の光景は、現存する「抒情詩的神話」であろう)

 というようなことをいろいろ飛躍的に想像すると、
生活における我々の、匂いとの密接な関わりと、それをめぐる「風景」というのは、
例えば「季節ごとに薫る庭木」というようなことを含めて、
現代の生活より以前は、おそらくずっと陰影に満ち、豊かであったのであろう。

 現代の都市生活は、都市の「生活様式」を整える代償に、かつてあった
生活の中の「匂い」の奥行きを失ってしまった。そしてそれと同時に我々は、
「匂いに対する感受性」をも、必然的に手放すことになる。
 それは僕にとって生活に密着していた、ある場合にはグロテスクで過剰でもあった、
「色彩の豊かさ」や「音色の豊かさ」が、日々の暮らしから失われていく過程に思える。



という訳で「匂い」の話です。
「匂い」とは、「健康」あるいは「健全さ」、というようなものをはかる、
ひとつの重要な指標ではなかろうか?

(「健康」とは、そうでない場合について思いめぐらせるとき、その幻想性に支えられた事象をあたかも「明暗を分かつ」ように、匂いを指標としてそれをはかることが可能であるというような、物の言い方をするのに少し躊躇するのですが、とはいえ……)

 例えば、「健康な家畜の匂い」であるとか、「健全な野菜の畑の匂い」、
「バランスよく発酵している堆肥の匂い」というのは、
乳酸や麹や酵母が働き、ある場合には甘くふくよかで奥行きのある
「熟成の香り」がする。ちょっとマニアックですか?

上記のダイレクトなデスメタルの話ではなくってあらためると、
例えばワインを鑑賞するときの「堆肥のような~」という表現は、
「森の香り」「キノコの香り」なんかと隣接した香りの表現で、
その香りのニュアンスは、「湿度」を含み、
「何かがやや分解、過熟した感じ」、あるいは「発酵に関係するような甘い感じ」を伴う、
おおむね「好意的」な表現である。

それは単純に「臭い」というわけではなくって、
たぶんそれと、
なにか、ちょっと調子が悪い時の「単調な匂い」や
「偏った」「滞った」「籠った」、という様なニュアンスの、
「どことなく不健康な匂い」とは、
おそらく誰でも識別が可能であろう。

ちょっと逸れますが、ワインの表現用語の、「デスメタルな香り~」、というのは
(「グラインドコアな香り~」でもいいですが)、
未知の野生酵母株が発酵初期に、制御不能に暴走するスピード感、
ウィルス的なグリッド感、それに対応できずにまごまごしているうちに
追い越されていくビハインドな感じ、
あるいは「表面的な激しさ」に通底する、
可視化できない静かな「汚染」のニュアンスです。

そこには「ワイン造り」においての、
薬剤によるコントロールという、「涜神(とくしん)的行為への告解」、という背景がある。
それは欧州的で職人的なものへの、技術的、倫理的な「問い」でもあります。
「ヴァン・ナチュール」全体の、ポストモダンで両義的な魅力ですね。
奥行きがあって面白いところです
(ちなみに全部創作ですが)。

鶏舎の土の床に鶏の餌、米糠を発酵させたものを含んだ餌を、
緑飼(りょくし)と一緒に直接撒いてやっていると、鶏が足で蹴って掻き回すので、
投入した刈り草や藁なんかがそれらと土と混ざって、
乳酸や麹や酵母が働く「呼吸する床」になる。
そしてその、活動的で有機的な「呼吸する床」、いわば「腐葉土」を、
鶏舎内の床で「生産しながら」連続的に「飼料の一部として」給与する。
そして鶏糞と掻き回された「副産物としての発酵肥料」は堆肥として取り出して、
野菜の生産に利用するというのが、有機的で多面的な平飼い養鶏の体系の一例である。



少し紹介すると、
「循環型の農業にとって、土づくりは一番大切なところでしょう。
上質な堆肥を畑にたくさん入れて、豊かな土を育てたいというのは、
農にかかわる人共通の想いです。ところが、堆肥づくりまでなかなか
手が回らないのが普通です。といって、緑肥のために畑を空ける余裕もありません。
そこで堆肥づくりはニワトリにおまかせしようというわけです。
(中略)
半年で育った草や葉は地表に触れて、みごとに半年で土に戻っていく。
一年の枝は一年の時をかけて、一〇年の木は一〇年の時をかけて土に戻っていく。
この絶妙な自然の仕組みに鶏舎の床を近づけていけば、鶏舎がそのまま
堆肥舎になるはずです。難しい面倒な技術はいりません。自然の姿を移せばいいだけです。
木の葉や木々はゆっくりと足されていく。雨も降ったりやんだりしながら土をぬらし、
また乾かして、相当大ざっぱな管理ながら、長い時間からみれば安定した繰り返しを
していきます。鶏舎では鶏ふんが大量に入っていくのにふさわしく、木や草の葉が
大量に必要になっていくでしょう。当然発酵も起こり、水分の蒸散も多いことでしょう。
水分の補給は雨の数十倍必要になるでしょう。その分、鶏舎から運び出せる堆肥の量も
当然、自然よりずっと多くなります。鶏舎の床は森の中と同じで、堆肥が、
必要な時に出せばいい状態で安定します。畑の大きさに合わせてニワトリの数を決めれば
一番手のかからない有畜農業ということになります。」
笹村 出『発酵利用の自然養鶏』農文協(16p)


ここで述べられている、等身大とも採れる自然養鶏の在り様は、
現代の農業から失われつつある「語り口」が残されている。
それは、「匂い」で判断するべきものであり、
「足で踏み」「手で握り」「肌で感じる」ことによってしか、
判断できないものである。

「匂い」というもの、を、手がかりとして展開する知性の在り方、
というようなものがあるとするなら、それは農業という限定された範疇に限らず、
汎用性の高い知見として、かつてそれは、
我々の「暮らし」の形成に、具体的に関わってきたのであろうと想像する。
そのような「知」は、口承伝達を通して、我々に身体化されていたのであろう。
納屋に眠る、今では使われなくなった、古い農具を手に取ると、
今のものとは違うその形と重さに、ふと、そういうことが浮かぶ。
それは遺伝子として我々の中に受け継がれてきた、眠っていた記憶の断片が、
一瞬、眼を覚ますような、例えばそんな感じである。

「中山間地」と呼ばれる「日本の暮らし」に受け継がれてきた、
その土地独自の形質を持つ野菜の「種」は、いま、途絶えつつある。
「ひょうごの在来種保存会」というのがあって、
僕は兵庫県の淡路島なので末席のひとりなのですが、
淡路島はおそらくその豊かで経営性の良い、農業生産的な好条件と引き換えに、
効率が悪くて手間のかかる「在来種」というものを
「時間をかけて」失ってしまった。

土地の「産業」というもの全体にとって、
その事実をどういうふうに考えればよいのか、
個人の短絡的な意見は差し控えたいと思うが、
例えば、開墾された「田」「畑」は
その土地独自の形質を持った「種」の絶滅とともに今、次第に放棄され、
そのようにして、我々に共有されていた「物語」も途絶える。



口承伝達が途絶えるというのは、
その土地にとっての「かけがえのなさ」、
その土地固有の、集団的人格の形成の機会が失われる、ということであろう。
そのようにして「埋もれていく」中山間地を「肌で感じている」と、
僕は「今では訪れる人のいなくなった古い図書館」というようなものを連想する。

目に浮かぶのは、その膨大な蔵書を前にして、
少し戸惑ったような、それでも本を手に、
希望にあふれる子供たちの、かつての明るい「顔」である。
暮らしの中で失われていく「匂い」というようなものへの鈍感さ、というものは、
それはなにか僕には象徴的に、「大きなもの」へ対する感覚の喪失と
重なっているように感じられる。
これは必要以上に「穿った物の見方」なのであろうか?
ちょっと変な言い方かもしれませんが。

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