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平尾 剛

平尾 剛/スポーツ教育学者

元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。 読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

第5回 近くて遠いこの身体

 このコラムのテーマは「スポーツ、観るする」である。仲間と一緒に汗を流して楽しむことだけがスポーツではなく、スタジアムに足を運んでのライブ観戦や、リビングで寝転びながらのテレビ観戦もまたスポーツの楽しみ方である。そんなふうにスポーツを捉えて書いてみようやないかというのがここの主旨である。

「観るスポーツ」を考えてみるときに、当然ながら贔屓(ひいき)チームを作った方がオモシロいのは言うまでもない。たとえば試合がある日の阪神甲子園駅は、一家揃ってユニフォームを着るなどのコアなタイガースファンで溢れかえっているが、その熱気たるや相当なもので、スポーツがどれだけ観る者を熱くさせるかがよくわかるひとつの現象である。

 中学時代からの友人に、京都パープルサンガを熱烈に応援するヤツがいる。不惑を迎えようとする今となってもたまに酒を飲むなどして顔を合わせる彼だが、サンガについて話し込む身振りやツイッターでのつぶやきからは感情がほとばしっているのがよくわかる。勝ってよろこび、負けて悔しがる。J1昇格を逃してうなだれ、期待の新人や大物選手の加入に胸を躍らせる。端からみている僕はその一喜一憂を微笑ましく眺めているわけだが、知らず知らずのうちに彼の影響を受けているのだろう。新聞を読んでいるときなどにサンガの戦績が気になったりするのは、ここだけの話である。

 ではそんな僕はどうなのかというと、残念ながらというか、とくに贔屓にしているチームはない。国内サッカーはほぼ観ないし、野球だと強いていえば阪神タイガースになるが、それも関西に住んでいるからという短絡的な理由から「気になる」程度である。オールドファンからすれば僕のような中途半端なファンは神経を逆撫でする存在に違いないので、あまり口外しないようにしている。同じ職場に読売ジャイアンツを熱烈に応援する先輩がおられるだけに、うっかり口を滑らすと大炎上するからおとなしくしているという切ない理由もある。

 ラグビーならばもちろん神戸製鋼コベルコスティーラーズとなる。だけどこれはかつて所属していたチームであって、「贔屓にする」とはまた意味が違う。しかもOBのひとりとしてはどうにも辛口な評価を下してしまいがちで、そこから考えても決してファンという立場ではない。かつてのような常勝軍団への復活を心底から願ってはいるものの、それは後輩たちへのエールであり、古巣への敬意でもある。どちからといえばファンというよりも「口うるさいおっさんOB」に分類されるだろう。

 さて、僕には件の彼のように贔屓チームがないのだとして、ではお前はどんな風にスポーツを楽しんでいるのかという声が聞こえてきそうである。お答えしよう。僕はスポーツの種類を問わず、はたまた贔屓にするチームも選ばず、ただただ「場面」を観て楽しんでいる。勝敗を決定づける決定的な「場面」然り、嫌な流れを断ち切る転轍点となった「場面」然り、あるいは得点シーンでの卓越した身のこなしなどなど、どのスポーツにもみられるそうしたひとつひとつの「場面」が僕にとっては大好物なのである。最近ではYouTubeなどで名場面をかいつまんで観ることができるので、そうしてスポーツを楽しんでいる。

 さらには僕にとってのスポーツの楽しみ方はそこから先にもあって、ひとつひとつの場面から感じたあれこれを書くことにも愉悦を感じている。思わず身を乗り出すようなビッグプレーを観て、それを書く。なぜ、そんなことができたのかを想像して、書く。それがなんとも楽しい。

「場面」を目の当たりにしているとき、僕は想像の中でその選手になりきって追体験している。たとえそれが未経験の競技であっても、そんなことはお構いなしに自らをその場面に投影する。仮想的に自分の身体をその選手の頭にくっつけてプレーしたあとに、出戻った身体からのささやきに耳を傾けてそれを言葉にしてゆく。それがなかなかオモロいのだ。

 うまく言葉にできないときもあるけれど、その「できなさ」がビッグプレーの卓越性をさらに強調することになるから、再びグッとくる。あえて言葉にすることで、言葉には置き換えられない部分が浮き彫りになる。現役時代のような動ける身体ではないので到底できそうにはないビッグプレーも、想像上では可能だし、仮想的に体験するだけでアドレナリンが出るような身体を長らくのラグビー経験を通じて手に入れたのだと思う。あくまでも想像の域を出ないけれど、たぶんそうだと確信している。
 
「やって」楽しんでいたスポーツを「観て」楽しむようになり、今では書いて楽しんでいる。それが高じてかどうかはさておき、このたび『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)という本を上梓した。ちょいと意味深なタイトルに、「近いの? 遠いの? どっちなの!」という奥歯に海老フライのしっぽが挟まったような歯痒さを覚えた方もいるかもしれない。僕はとても気に入っているのだけれど、困惑する方が一定数はおられるように思われる。たとえば本を紹介するときや献本するときなどには決まって「どんな内容なのですか?」という質問を受けるのだが、その事実がまさにそれを物語っている。そしてそのたびに答えに窮する僕がいる。うぐぐ。

 そうなのだ。実のところ自分でも本の内容をうまく説明することができないでいる。「ラグビーをしていたときの経験を出発点とし、身体にまつわる様々な事象について現象学的に掘り下げたのがこの書です」というのが、今できる精一杯の説明である。でもこの説明だけでは、なにについて書かれた本なのかは不透明であろう。

 初めての単著を出したばかりでなにをエラそうにと思われるかもしれないが、本というのはあらかじめ書きたい内容が頭の中で用意されており、それをなぞるように言葉にすることで編まれるわけではない。言葉にしようと試みるその作業を通じて、頭の中にあったカオス状態の思いや考えが「テクスト」になる。

 まず書くという前提があって、次にコンテンツが生まれる。伝えるべき宛先ができて初めて思いや考えが「テクスト」になる。だから場合によっては「思ってもみなかった内容」に出くわして自分でも驚くことがある。この出会い頭の発見こそが書く行為のもたらす楽しさだ。自己に住まう他者との遭遇にはなんともいえない高揚感が感じられる。

 思いや考えを本というかたちにすると目に見えて受け渡しが可能になる。つまり僕の思いや考えがひとつのパスとしてどこかの誰かに届けられるわけで、発売されてから約1カ月が経過した今、友人や知人だけでなく見知らぬ誰かからも感想が届きつつある。僕のパスを受け取った方々からのリターンパスを受け取っているわけだ。構想を含めると約3年の月日をかけて書いたこの本を、誰がどのように受け取ったのかは著者としてはとても気になるところで、その反応からは新しい気づきが得られる。

 今のところ「序章 体育嫌いだったひとたちへ」の反響が大きい。まだ読んでいない人の為に以下に内容を要約しておくことにしよう。

 身体を動かすことを生まれながらに嫌いな人は世の中にはいない。生きて行くために必要な世話を周りの大人に頼っていた幼きころと比べれば、僕たちの身体は格段にできることが増えた。寝返り、ハイハイ、つかまり立ちからのよちよち歩き・・・走る、言葉を話す、文字を書く、スプーンや箸を使うなど、僕たちはひとつひとつの動きを身につけながら今日まで生きてきた。できなかったことができるようになる、それを繰り返して今の自分がいる。そのたびに小さくない悦びを憶えたのは想像に難くなく、底知れぬ自信もまた芽生えたことだろう。

 だから人間である以上は身体を動かすことが楽しく感じないわけがない。
 できなかったことができるようになったそのよろこびを忘れるはずがない。
 でもなぜ周囲には運動嫌いな人たちがこんなにもいるのだろうか。
 それはいつかどこかの時点で嫌いになるからだ。学校体育で他人と比較され、また地域スポーツクラブでは過度な競争に晒されて、身体そのものを動かす悦びを奪われる。そうして僕たちは運動から疎外されるのである。


 ここに大きな共感を抱いてくれたのは、宗教家でありつつ長らく音楽活動に取り組み、仲間内からは「歌う牧師」と呼ばれる方であった。発売後まもなく、半ば興奮気味に「音楽もまったく同じ! 歌うことは学校の音楽の授業で嫌いになるんです」というメールをいただいた。「体育」を「音楽」に置き換えても同じようなことが言えると、力強く書いてあった。
 また別の、抽象画を描く画家の友人も「うん、ここは美術も一緒だね」と話していたらしい。「らしい」としたのは人伝に聞いたからだ。

 絵を描くことに関しては僕にも心当たりがある。
 小学校時は、絵画教室に通うほど絵を描くことが好きだったのに、高校に入ったあたりからだんだんいやになった。中学のときの美術の先生は、細かいことをいわずに伸び伸びと描かせてくれたので、ずっと好きでいられたのだが、高校に入ってからは違った。とくに決定的な事件があったわけではないけれど、あれこれ制約条件が付加されていってだんだん描くことがいやになった。評価の点数が悪かったというのもあるが、それが決定打ではなく、成績評価のために描くという意識がいつのまにか擦り込まれたからだと思う。

 ちなみに中学のときの先生の口癖は「シャープペンシルはマシーンや」で、機械でいい絵は描けないから鉛筆を使いなさいと、ことあるごとに口にしていた。このフレーズがお気に入りで、だから今でもはっきりと憶えている。立派なあご髭を蓄え、あまり笑わない先生だったが、僕はとても好きだった。

 運動することと体育、歌うことと音楽、絵を描くことと美術。個人差はあるし、すべての人に当てはまるわけではないが、ほぼこのような図式で自分自身から遠い存在となっていく。動くも歌うも描くも人間にとって根源的な活動である。内的に生まれるエモーショナルななにかを発現することそのものが「動く」であり「歌う」であり「描く」である。それらが疎外されるような環境に生徒が晒されている事態を、僕たちおとなは真っ正面から受け止めなければならないと思う。

 たくましくなくても、頑強でなくてもいい。しなやかで、伸びやかな身体があればいい。すべての人がアスリートを目指すわけではないのだから、窮屈な身構えさえ解かれればそれでいいのです。

 すでにお読みになった方々には忌憚のない意見をいただきたいと思います。そしてまだお読みでない人はぜひとも手に取ってほしい。スポーツだけでなく身体にまつわる現象についてあれこれ書いた本、それが『近くて遠いこの身体』です。

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