住ムフムラボ住ムフムラボ

平尾 剛

平尾 剛/スポーツ教育学者

元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。 読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

第3回 試合当日のラグビーマン

 ラグビーシーズン真っ盛りである。
 年末年始は全国高校ラグビー大会である「花園」の試合を観ることにしているが、今年もまた熱い試合ばかりで身体の芯がポカポカしっぱなしであった。他のスポーツと同じくラグビーも高校、大学、社会人というカテゴリーで行なわれているが、僕が最も手に汗を握るのはなぜだか高校ラグビーである。より高度な技術を伴うプレーを観たいのなら社会人ラグビーを観るに越したことはないのだが、食指が動くのは「花園」なのである。プロ野球にはそれほど興味が湧かないのに「甲子園」はつい身を乗り出して観てしまう人の心境と、どこか類似しているかもしれない。
 あるいは、僕自身が高校時代に「花園」に出場できなかったことも影響しているかもしれない。あの頃、憧れたままの「花園」として、心のどこかに未練を残しているのかもしれない。あの時代、大工大(現・常翔学園)や啓光学園(現・常翔啓光学園)などの強豪校がひしめいていた大阪で、新人戦も春季大会も優勝しながら、全国大会予選を兼ねた秋期大会では準決勝で敗退した、あの悔しさを今だに引きずっているのだから。

 ユーミンの名曲「ノーサイド」は、ある年の決勝戦の情景を描いた歌である。“歓声よりも長く 興奮よりも速く 走ろうとしていたあなた”という詞には、言葉にならない感情が湧いてくる。当のその試合を観てもいないのに、ユーミンが見たスタジアムの雰囲気がリアルに感じられるのである。あのときの悔しさが想像力を逞しくするからだろうか、歓声や興奮が本当に聴こえてくるから不思議だ。
 高校ラグビーマンが憧れる「花園」に、おじさんになった今になってもまだ大きく心が揺さぶられている。たぶんこれからも年末年始のたびに、こんな感懐を抱き続けるのだろう。


 さて、ノスタルジックな気持ちに浸るのもこのくらいにして、そろそろ本題に入るとしよう。今回は、「試合がある日を選手はどのように過ごすのか」について書いてみたい。ラグビー選手はどのような準備をしてグラウンドに出てくるのか。主に神戸製鋼コベルコスティーラーズでプレーをしていた時代を振り返り、書いてみることにする。

 試合に臨むにあたっての準備は大半が精神的なものである。肉体的な準備は、シーズン前の走り込みなど日々の練習の中で時間をかけてするものであり、試合当日になればいかにして集中した状態でキックオフの笛を聴けるかが重要である。
 試合に向けて緊張感が漂い始めるのは4日前、スターティングメンバーが発表されてからである。クラブハウス内のホワイトボードで発表されるのだが、そこにマグネットで張り付けられた自分の名前を確認できたら自動的にスイッチが入る。とはいえ、いきなりテンションアゲアゲとなるわけではなく、主電源が入り、暖機運転を始めたように静かに立ち上がるだけだ。試合出場が叶った、そのよろこびに胸を躍らせながら。
 そこから試合前日まではジワジワと迫る重圧を感じつつの練習参加となる。どこか緊張しながらも「まだ早いぞ」と手綱を絞り、ボールを追いかける。そうして意識の端っこには絶えず「試合」がつきまとうような生活が、試合前日まで続く。

 試合前日は基本的にはオフ。全体練習はない。ただ、個人はその限りではなく、たとえば、身体への刺激が足りないと感じる選手はグラウンドで走ったり、疲労が蓄積されている選手はトレーナーによるマッサージを受けたりする、いわば「調整日」である。当時を振り返れば、疲れを残さない程度に趣味に興じる選手が大半であった。僕は寮の部屋で映画を見たり、本を読んだりして穏やかに過ごすことが多かった。
 もしも試合会場が東京などの遠方ならば移動日となる。現地には前日入りするわけである。ちなみに遠隔地のみならず、花園やウイングスタジアム(現ノエビアスタジアム)など関西での試合であっても前泊する。阪神間の常宿となっているホテルに宿泊し、試合に向けての士気を高めるのである。
 ホテルに到着後はすぐにミーティングを行ない、翌日の試合に向けて戦術やサインプレーの最終確認をする。試合をするにあたっては、たとえ些細なことであっても疑問や憂い、心配や不安を残さない。これは基本中の基本であり、チームプレーをする上での心構えの中でも、もっとも大切なことである。ひとりでもサインプレーを憶えていない選手がいれば、そのプレーが成功するはずもない。意図したプレーが失敗するとなれば、その試合に勝つ可能性が低くなるのは容易に想像できるだろう。練習で繰り返した走るコースや走り出しのタイミングをイメージしながら、地域ごとの戦術や戦略などをチェックする。また、相手チームの出場選手の顔ぶれからどのような戦術を選択するかを想像して、それへの対応を練ったりもする。

 ひとしきりミーティングを終えた後は、そのまま夕食。鍋を突きながらしばし団らんのひととき。もちろんアルコールはなし。ここではあまり試合に関する話はしない。他愛もない話を笑い合ったり、先輩にからかわれたり、後輩をからかったり。
 関西で行なわれる試合なのに、わざわざ宿泊する必要があるのかと思われた方もおられるかもしれないが、これには明確な理由がある。家庭を持つ選手が試合に集中するためである。子どものいる家庭などでは試合に集中することがどうしても難しい。試合に100%集中するための配慮である。
 ホテル入りからミーティングを終えたあたりで、心の暖機運転は2段階目に入る。「いよいよ試合か」という雰囲気が漂い始めるが、これに引きずられてはいけない。ここでアクセルを踏み込むと試合直前で息切れしてしまう。ここでは至って普通に、あるいは愉快に過ごすように努めるのがコツである。緊張することに疲れてしまわないためにも、ここは我慢のしどころである。闘志はまだ胸の奥にしまい込んでおくのである。

 これから闘いに臨む男たちが一堂に会し、腹ごしらえをする。ひとつ屋根の下に寝泊まりして結束を固め、そして翌朝、バスでスタジアムに乗りつける。

 ちょうどバスに乗り込むあたりから一気にモードが変わる。暖機運転はここで終了。選手は各人各様の仕方で気持ちをつくりながらバスに乗り込んでゆく。このときの車内は、なんともいえない「静寂」に包まれている。耳にイヤホンを入れて窓の外をボーッと眺める選手、スカウティング(相手チームの戦い方の分析)されたレジュメに視線を落とす選手、スポーツ新聞を読む選手など様々ではあるが、概して言葉数は少ない。ほとんど話をしないといってもいい。
 ただ、話をしないといっても周囲を威嚇するほどに閉じこもるわけではない。一言二言の会話はあるし、冗談だって言い合うこともある。一見すればいつもと変わらない風景がそこにはあるが、よくよく注意深く感じてみると空間の滑らかさが異なる。
 各選手は、迫りくる重圧を抑えるべく「いつもと同じ」ように振る舞おうと努めている。その微かな意図が、「どこかいつもと違う」振る舞いとして周囲には伝わる。もちろん本人は気がついていないが、周囲にいる選手たちは無意識的にその不自然さに気がついている。気づきながらもそこは敢えて詮索しない。互いのその微妙な配慮がある種の独特な緊張感を作り出す。賑やかさを秘めた静けさ、とでも表現すればわかるだろうか。いや、余計にわからなくなる、か。
 また、こうも言えるかもしれない。
 バスの車内にいる選手たちはひとり残らず試合のことを考えている。「心ここにあらず」の人たちで埋め尽くされているといっていい。車内でのちょっとした会話や行動の主たる目的はすべて数時間後の試合本番に向けられている。その意味でバス内は試合に向かうまでのひとときの時間以上の意味を持たず、ただただ空虚でしかない。誰もが「上の空」なのである。つまり、音楽を聴くという行為も、言葉を交わすという行為も、すべてキックオフの時点で闘志全開の戦闘モードに入るための準備でしかない。行為そのものにはほとんど何の目的もないのである。
 そのためか現実感が乏しい。個々の興味や関心がここではないどこかに向いていて、その意味で奇妙なまでに「静寂」なのだ。何かのきっかけで暴発しそうな緊張を、裡(うち)に押し込めるときに発する音なき音。それがあの「静寂」の正体かもしれない。

 この「静寂」はロッカールームに入ってもまだ続く。

 スタジアムに入るのはキックオフの約2時間前である。ウォーミングアップを開始するのはキックオフの約40分前。だから、到着後もまだ時間はある。それまでテーピングを巻いたり、各自でストレッチを行なったりしながら、試合に向けていよいよ仕上げの段階に入るわけである。

 ちなみに僕はロッカールームに入ってからやることを決めていた。荷物を下ろすとすぐにグラウンドへと足を運び、足の裏で芝生の状態や土の柔らかさを確認し、風向きをみるために空を見上げ、ついでに観客席も見渡す。そしてしばらくボーッとグラウンドを眺める。自分たちの試合が2試合目のときは、1試合目がまだ行なわれているので、その脇から試合の様子をうかがいつつ、可能な限り芝生の状態などを確認する。そして、ロッカールームに戻る。そこから着替えてテーピングを巻き、ウォーミングアップのためにサブグラウンドに向かう。 
 これが僕のルーティーンであった。

 ウォーミングアップが始まると、かの「静寂」に亀裂が生じる。個々の心中で塞き止めていた闘志(これには不安や恐怖も伴う)が、お互いにパスをしたり、声を合わせたりする中で徐々に同期してゆく。のちに「闘争心」を形成するもとになる個々の「闘志」がチームメイトのそれと呼応し、沸々と煮えたぎってゆくのが自分でもよくわかる。みんなの表情も時間を経るごとに険しくなってゆく。あの空間の密度が高まる感じはたまらない。
 でも、まだ、である。完全に解放するには、まだ、早い。

 解き放たれるのは、ウォーミングアップを終えてロッカールームに引き上げたあと。ジャージに着替えてすべてのスタイルが完了してからである。グラウンドに出る直前に組む円陣で一気に爆発する。肩を組み、キャプテンが大声を発する。それがきっかけとなり、猛烈な感情が突き上げてくる。「闘争心」だ。暖機運転でずっと温め続けてきた「闘志」は、こうして「闘争心」となり、試合に向けての心構えができあがるのである。
 極限に昂りつつも冷静さを失わないでいられるあの不思議な心模様は、こうして生まれる。
(もちろんこれはうまくいったときの話で、失敗することだってある。メンバー発表時からずっと緊張しっぱなしなら試合前に息切れするし、抑制し過ぎればフワフワした気持ちで試合を迎えてしまい、散々なパフォーマンスとなる。この加減がとても難しい)。


 そしてこの「闘争心」。落ち着くまでに相当な時間を有する。あくまでも僕はということだが、ノーサイドの笛が鳴ってもまだ昂ったままでいることはしばしばあった。というよりほとんどの試合がそうだった。試合当日はとにかく寝つきが悪く、身体の内奥に熱がこもる感じで目が冴えまくる。肉体は疲労しているのだが、精神は昂っているという状態に、おそらく身体は混乱しているのだと思う。それをなんとか落ち着かせようと、ほとんど本能的に試合後には酒を飲み、肉を食った。不安や恐怖をともにした仲間たちとともに酌み交わす酒は、最高だ。
 そうして眠りについた翌朝、いつもの部屋で目覚めたときの安堵感もまた、たまらなかった。

 試合前日までの静かな緊張は腹の底に何ものかが蠢いている。
 試合当日のバスから漂う「静寂」は思い返しても肌がピリピリするほど張りつめている。
 それを突き破るようにして一気に込み上げる「闘争心」は、全身の血液が逆流したかのような高揚感がある。
 そしてこの昂りはなかなか落ち着かず、少なくともその日はずっと続く。

 おそらく現役時代の僕は、「日常」にいる自分を、試合という「非日常」で闘う自分へと変身させていたのだろう。生活空間からはみ出してグラウンドに出ていく。そしてまたいつもの居心地のよい「日常」に戻ってくる。それは具体的には寮の部屋であり、行きつけの喫茶店でもあった。また、恋人と過ごす時間でもあった。つまり、自分が快適に、安全に生きられる場としての生活空間・時間である。
 たとえ傷ついてもそれを癒す場所がある。この安堵感がなければあそこまで自らを興奮させることなどできなかったのではないか。今となってはそんな風に思う。


 引退して7年が経った。「日常」でのあまりの快適さに、ふとあの「闘争心」が懐かしくなるときがある。生煮えのまま行き場を失ったこの「闘志」を代わりに昇華してくれるもの。僕にとってはそれが「花園」なのかもしれない。

コラムニストから選ぶ

PAGETOPへ