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平尾 剛

平尾 剛/スポーツ教育学者

元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。 読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

第14回 反東京五輪宣言

 3年後に東京でオリンピック&パラリンピックが開かれる。どうやらそういうことらしい。
 そういうことらしい? 今さらなにを言っているのだ?
 高みから見下ろすような白々しいこの物言いに難癖をつけたくなる読者はおそらく山ほどいるはずだ。しらばくれるつもりはもちろんないが、その気持ちはよくわかる。がしかし、つい嘯(うそぶ)いてしまいたくなるほどにリアリティが感じられないのが今の僕の偽らざる実感だ。

 大会組織委員会が運営する公式サイトによれば、開幕まで2020日となる2015年1月12日を皮切りにカウントダウンイベントが行われており、あと1000日となる10月28日にも各地で催されたばかりらしい。街ですれ違うスーツ姿の人の胸にエンブレムを象ったバッジを見ることもあるし、テレビをつければ関連ニュースがたまに目にとびこんでくる。もしかすると僕の知らないところで着々と機運が醸成されつつあるのかもしれないが、今のところその盛り上がりを肌感覚としては感じられない。僕が東京からはほど遠い神戸に住んでいることも、あるのかもしれない。

 回りくどい言い方はこのくらいにして、率直に言おう。
 僕は東京オリンピック&パラリンピック(以下、東京五輪)は返上すべきだと思っている。
「リアリティを感じない」のは、開催が現実化して欲しくないという願望を強く抱きながらも、元アスリートとして正面から反対の声を上げることをためらっていたからである。

 過去も現在もスポーツの恩恵に与る立場の人間がスポーツの祭典を批判してもよいものだろうか。アスリートのための4年に一度の晴れ舞台を元アスリートが否定することは、つまりのところ自己否定につながるのではないか。そう自問自答してきた。
 主張したいことが明確にあるにもかかわらず、それを口にすることは憚られる。アクセルとブレーキを同時に踏み込んでいるような状態に耐えかねて、東京五輪関連のニュースを知らず知らず遠ざけているうちに、だんだんリアリティがなくなっていった。ここではないどこかで粛々と進行していることとして決めつけて、思考を手放すことによって楽になろうとしていたのだった。

 でももうやめにする。元アスリートでスポーツを愛する一人の人間として、これ以上は黙っていられない。競技者の理想を脇に置きつつ、権力者は「レガシー」作りのため、資本家にとっては商機をつかむための巨大なイベントにオリンピックが成り下がっている現状に、一言物申したい。

 思い起こせば東京招致が決まったときからキナ臭さに溢れていた。2013年9月7日にブエノスアイレスで行われたIOC総会で安倍首相は、「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」と述べた(首相官邸のサイトより)。だが現実はというと、放射性汚染水は今も増え続け、制御どころか今後の見通しすら立っていない。我が国の首相は世界に向けて力強く「アンダーコントロール」と口にしたが、その内実は虚偽であった。

 さらに招致に関していえば、あの裏金問題も未解決のままだ。
 招致委員会からシンガポールのブラック・タイディングス社の代表イアン・タン氏にコンサルタント料が支払われていたことが国会で問題になった。金額にして2億円超の大金が、築50年近く経った古い公営住宅の一室を所在地とする同社に振り込まれていたのである。このイアン氏は、国際陸連前会長で国際オリンピック委員会(IOC)の選考委員でもあるラミン・ディアク氏の息子パパ・マッサタ・ディアク氏と深い関係にあることから、票集めのための裏金ではないかとの疑惑がもたれている。

 昨夏に行われたリオデジャネイロ五輪でも同様に、ブラジル側から同社にたいして多額の金額が支払われていることが明らかになった。開催国の招致委員会から同一人物が経営する会社に多額の金が支払われているという偶然の一致が意味するところは推して知るべしである。

 2017年9月13日付のイギリス「ザ・ガーディアン」は、この両五輪の裏金問題について新展開があったと報じている。ブラジル連邦検察局はこの支払いについて「IOC内部に強い影響力を持つラミン・ディアクの支援と票の買収の意図を持って」2016年リオ、2020年東京の招致成功のためになされたという結論を出した。それを受けて調査に乗り出したブラジル司法当局は同年10月5日、開催都市決定で投票権を持つIOC委員の買収に関わった疑いでブラジル・オリンピック委員会のヌズマン会長を逮捕した(本人は容疑を否認している)。

 これら送金の事実は、国際陸連の汚職と資金洗浄を調査していたフランスの検察局が明らかにしたわけだが、その調査を受けたブラジル当局は贈賄を認め、それに関わる人物を逮捕した。これに対して日本ではまだ詳細が明らかにされていない。だが、これら一連の報道から推測すれば、日本も限りなく「クロ」であると判断するのは妥当だろう。もしも潔白であるとするならば、可及的速やかに説明していただきたい。

 フクシマを蔑ろにした虚偽発言、未解決なままの裏金問題、この二つだけでも十分に返上に値する理由になる。さらにその他の東京五輪にまつわる報道を見渡せば、どこをどう考えても開催を見送るべきという結論にしか至らない。新国立競技場建設にまつわる諸問題(今年の7月には建設現場監督の過労自殺事件も報道された)、エンブレムの盗用疑惑から競技会場をめぐる問題まで、挙げていけばきりがない。これらを合わせ読むと、いかに「開催ありき」で事が進んでいることは明らかである。理念がまるで感じられないこんなハリボテの大会は、もうやめにしたほうがいい。

 内田樹氏は、未来のスポーツ紙に「金で票を買って招致した五輪は、この東京五輪が最後になった。経済浮揚効果を狙っての招致だったが、所期の効果は得られず、経済はさらに失速し、社会制度全般の劣化をもたらし、『亡国のイベント』と呼ばれた」と書かれることが確実だとSNSで発信している。僕もそうなる気がしてならない。

 東京五輪の開催をめぐり、逡巡のうちに日々を過ごしていた僕が、友人の勧めで手にしたのが『反東京オリンピック宣言』(小笠原博毅・山本敦久編、航思社)だった。 
 この本にはスポーツを、オリンピックを、その本質から捉え直そうとする重厚かつ深遠な論考が収められている。どれも読み応えがあり、恥ずかしながら僕はこの本を読んで初めて知った事実がたくさんある。中でも特筆すべきは、オリンピックを真っ向から批判している現役のアスリートがいたことである。ノルウェー出身のプロスノーボーダー、テリエ・ハーコンセン選手だ。

 IOCが国やスポンサー、選手に求める欲求が非常識で受け入れ難いとして、彼は1998年長野オリンピックの出場をボイコットした。スノーボードの歴史や文化に対する敬意が一切存在しないIOCを自分たちは必要としないという意思を表明したのだ。
「オリンピックでは、自分の荷造りすらさせてもらえない。あらゆるメディアを統制したいという理由から、ソーシャル・メディアでさえ自由に使わせてもらえない国もあるようだ。スポンサーにも統制される。急にコカ・コーラやマクドナルドを宣伝しなければいけないことになる。なんでこんなことに付き合わなければいけないのか、僕には理解できない。」

 ここだけを読めば自由への希求が彼をそうさせていると思われるが、本質は別のところにある。次を読めば彼が抱いている危機感の射程の遠さに思いが及ぶだろう。

「(……)オリンピックのせいでハーフパイプは過去十年ほぼ何の変化もしていない。同じ形式で、同じパイプで、選手がどんなことをするのかさえ簡単に予想できてしまう。
 ひどく停滞しているんだ。三位、あるいは三位とは言わずとも、どうしたら入賞できるかを選手達は把握している。アクションスポーツが築きあげてきた自発的創造性がそこには存在しない。」

 スノーボードの一種目であるハーフパイプ全体の競技レベルの停滞を彼は憂いている。その要因として、入賞を目標に、高得点を目指してミスなく滑ることを最優先にするときに失われる「自発的創造性」を挙げ、過度な競争的環境がパフォーマンスの向上を阻害することを危惧しているのだ。
 共同体内での競争相手にいかにして勝つのかに腐心するのではなく、勝ったり負けたりしながら互いに切磋琢磨することで、その共同体が全体としてより高みに至ることを彼は望んでいる。スポーツが単なる精神修養や身体訓練、名声や金を得るための手段ではなく、その本質にあるアートな部分を彼は全力で守ろうとしている。彼が抱く問題意識はとても高い。

 ラグビーにおいても各チームの戦い方が画一化しつつあるように僕は感じている。競争に勝つことだけが主題になれば効率的な戦法が選択されるようになる。リスクを伴うチャレンジングな姿勢はその陰に隠れ、その状態が続けばいつのまにかラグビー界全体がシュリンクしてゆくのは自明だ。戦術の進化と画一化を見極めることは容易ではないが、少なくとも勝利至上に傾きすぎないようアンテナを張っておくことは不可欠だ。テリエ・ハーコンセン氏の言う「自発的創造性」が発揮できる環境を守ること、そのためには関係者一同が目の届く範囲で点検し続けなければならない。
 自発的創造性こそがスポーツ選手にとって醍醐味だ。この意味でスポーツはアートの要素を含んでいる。勝敗を競い合うのはあくまでも副次的なものに過ぎない。

 話をオリンピックに戻す。
 オリンピックが金まみれなのは今さらいうまでもないことで、これをとぼけてみせるほど僕はナイーブではない。ただそれを知った上でもまだオリンピックを支持する人たちはいる。

「それなのに人びとはオリンピックを支持する。なぜか。マネーを手に入れるため、そして手っ取り早く名声を得るためにオリンピックが必要だと考えているからだ。それがたとえ四年に一度、一人か二人の選手にしか起こらないことだと知っていてもそうなのだ。そして、オリンピックがスノーボードを僕たちの手から奪い取ったということを忘れないでほしい。」

 自身が行うスポーツをオリンピックから守るために彼は声を上げた。彼にとってはもはやオリンピックはスポーツの祭典などではない。スポーツの本質であるアート性を稀釈し、スポーツそのものを骨抜きにするイベントとして憎んでさえいる。スポーツとオリンピックは別離してしまったというハーコンセン氏の主張に僕も同意する。

 オリンピックは巨大公共事業の口実となり、国民の税金を堂々と私物化するための体のよい名目だ。国民統制、監視強化、ナショナリズムの動員など、資本家や権力者によって蹂躙されている。「アスリートファースト」という耳当たりのよいフレーズは、これらを隠すために用いられているに過ぎず、競技者なきところでオリンピックは開幕から運営までが決められていくのだ。

 同書の中で池内了氏は「スポーツはもはやオリンピックを必要としない」と述べている。テリエ・ハーコンセン氏の主張と照らし合わせると、これまで抱いていた様々な靄が晴れて腑に落ちる。
 そういえば僕の周りにいる生徒や学生たちは、それほどオリンピックに興味を示していない。個人的な憧れは抱きつつも、ここではないどこかよその世界での出来事かのように現実と切り離して、クラブ活動や各スポーツ活動に励んでいるようにみえる。おそらく彼女たちはスポーツに含まれるアート性に魅力を感じ、「自発的創造性」の発揮を楽しんでいるのだと思われる。

 これからはオリンピックのしがらみがないところで、ラグビー指導やスポーツに関する研究を粛々と行っていくことにする。オリンピックを必要としないスポーツのあり方を模索し、それを発信していきたい。

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