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平尾 剛

平尾 剛/スポーツ教育学者

元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。 読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

第11回 恩人の死。

 僕が「平尾誠二」という名を初めて耳にしたのはラジオだった。
 小学生のころ、家族旅行で伊勢に出かけた帰りの車で僕は初めてその名を知った。同志社大学出身の父が母校の試合を気にかけて、ラジオのチューナーを合わせていたのが新日鉄釜石との試合だった。狭い車内に響き渡る歓声、ときどき感情的になりながらも冷静さを失わない実況、それに応じて一喜一憂する父。いつもとは違う賑やかさが車内には溢れていた。
 ただ、後部座席にいて退屈を持てあます僕は、そんな父の興奮など意にも介さず、弟とはしゃいでいた。早く家に着かないかなと、そればかりを考えていた。

 そんな僕たちに、父はうれしそうに話しかけてくる。この試合がどれほどすごいのかを熱っぽく語ってくる。もともと子供っぽい部分がある父なのだが、さらに拍車をかけたように心を躍らせている様子がなんだかおかしかった。
 よくわからないけど楽しそうだな、そう思った。楽しげに語る大人の話は子供には大好物だ。いつのまにか僕は弟とはしゃぐのをやめて、自然と父の言葉に耳を傾けていた。

 どうやら父の母校である同志社大学がラグビーというスポーツの試合をしているらしい。その同志社が新日鉄釜石という強いチームに挑みかかっていて、釜石には痛み止めの注射を打ちながらも試合に出場している選手がいるらしい(しばらくたってこの選手が松尾雄治であることを知る)。対する同志社には新進気鋭のものすごい選手がいて、なんでも名字が平尾というらしい。

 ラグビーのラの字も知らず、当時まだ幼かったから記憶は断片的だが、平尾という名前ははっきり脳裏に焼き付いている。母方の姓と同じだったからだ。
 その試合、同志社大学は負けた。母校の敗北に肩を落とす父に引きずられて、わけがわからないままに僕も残念がった。
 これは30年前の話だ。このときの僕はまさか自分が将来ラグビーをすることになろうとは夢にも思わなかったし、まさか平尾さんに薫陶を受けることになるなんて、想像だにしなかった。

 僕がラグビーを始めたのは中学からだ。友達に誘われて何気なく始めたラグビーは、とにかくおもしろかった。ラグビー漬けだった中学、高校時代に、常勝軍団として日本ラグビー界を牽引していたのが神戸製鋼で、真っ赤なジャージに身を包んだ神鋼フィフティーンがグラウンドを縦横無尽に駆け回り、勝ちまくっている姿を僕はテレビで観ていた。まだサンテレビや京都テレビなどの民放で試合放送をしていたころだ。日曜の夕方に録画放送されるその試合は、いつのときも神戸製鋼だった。

 その中でもひときわ存在感が際立つ選手、それが平尾さんだった。
 初めてラジオでその名を知り、テレビ画面の中にいて横目に見やるだけの人。このときはまだ平尾さんは文字どおり「雲の上」にいた。「平尾誠二」と呼び捨てにしてもなんら心が痛まない存在として。


「最近、どやねん?」
 そんな平尾さんと言葉を交わしたのは大学4年生のときだった。神戸製鋼からオファーをいただいた僕は、選手のリクルートを担当する方と何度か食事をしたのだが、そののち担当が代わった。平尾さんだった。
 ある日、唐突にグラウンドにやってきた。長らく遠ざかっている母校のグラウンドにわざわざ足を運んだのは、僕に会うためだったそうだ。翌日の新聞には「平尾が平尾に会いに来た」という見出しの記事が掲載され、同姓だったことが幸いして書かれたこの記事を、当時、得意げな気持ちで読んだのをはっきり憶えている。

 そこから何度か食事をともにした。僕に会うために練習がない日を選んでわざわざ京都まで足を運んでくれて、鮨をつまみ、肉を食い、杯を傾けながら熱心に勧誘してくれた。
「熱心に」という表現はいささか違う。平尾さんはいつも、大事な話をするのは最初の10分だけだったからだ。長々と言葉を継いで勧誘することなど一切なく、神戸製鋼のチームポリシーや雇用条件などを最初にシンプルに話すだけ。就職先を決めるのは君自身の問題やろ、こっちの要望は伝えておくからあとは自分で考えたらいい。そんなスタイルだった。

 一通りの話を終えたあとは、「最近、どやねん?」というまるで友だちにでも話しかけるような気さくな質問から話が始まる。まだケツの青い、理屈だけは一人前の半端な学生だった僕の拙い話にも耳を傾けてくれた。冗談を交えながらのトークの合間に、競技経験に基づいた深遠な哲学に触れられるのが僕の何よりの楽しみで、トイレに行きますと席を立ち、平尾さんが口にした言葉をメモしたことも数知れない。

 あるとき、話し込む平尾さんの横顔から口髭の中にホクロを見つけた。話が気になりながらも、「もしかしてこれを隠すために髭を生やしているのかもな」と勝手に想像を膨らませていたのは、ここだけの話だ。
 このときに平尾さんと過ごした時間は、僕には十分すぎるほど刺激的だった。
 こうして一緒に食事をするうちに、ラジオやテレビの中にいた「平尾誠二」は、徐々にではあるが近しい存在へと変化していった。

 ここで僕の経歴をご存知の方は訝しむに違いない。大学卒業後、僕は三菱自動車工業京都に進んだ。その1年後に、途中入社というかたちで神戸製鋼ラグビー部に入り直している。つまり僕は、このときの平尾さんからの誘いを断っている。


1年後の「最近、どないや?」
 三菱自動車を選んだのは、自分は社会人のトップレベルで通用するとは思えなかったからだ。そのころの僕は、ラグビー選手としてやっていくにはあまりに線が細かった。スピードは通用するかもしれないとは思った。だが体格的には厳しい。輝かしい実績を誇る神戸製鋼というチームで活躍できるなんて、到底想像できなかった。平尾さん直々の誘いはうれしかったし、あの平尾誠二が僕を評価してくれていることに心は躍ったが、それだけで自らの人生を決めることなんてできない。そう考えたのだ。
「自分のことは自分しか保障できない」
 当時使っていた手帳に、僕はこう書き記している。
 いつかの日に平尾さんが口にした言葉だ。
 実を言えば、これが進路先を決める最後の一押しとなった。

「三菱に入ります」と告げたときの平尾さんは顔色一つ変えず、いや、むしろ柔らかな表情で僕の決断を快く受け入れてくれた。
 結果的に僕は平尾さんの言葉に従って、平尾さんが意図しない道を選択した。苦渋の決断だった。
 だが、その一年後に、僕はこの決断をあっさり翻す。

 三菱自動車に入社後に、僕はジャパンA(日本代表に準じるチーム)に選出されてニュージーランドに遠征する。その後、タイで行われたアジア大会の日本代表に選出された。意外だった。自身に対して自分が下した評価と、世間の評価が異なった。大いに戸惑った。
 今から思えば、あのころの僕は自らを客観的に捉えることができないほど未熟だったという他ない。情けないかぎりだ。

 初めて経験する日本代表でのラグビーはとてもスリリングだった。走り出すタイミングを間違えば置き去りにされるバックスのラインスピード、針の穴を通すようなパスの正確さ、フォワードの力強くしなやかな当たり、細部にわたって考え込まれた戦略と戦術、もはや今まで行ってきたラグビーはラグビーじゃないとも思えた。ここでやりたい、このチームでやりたい、ここで自分がどこまで通用するか、試してみたい。こうした意欲が湧くまでにはさほど時間はかからなかった。代表選手が集まる合宿を経験するたびに、この気持ちは次第に増幅し、抑えようとしても抑えられなくなっていった。

 大学4年のとき、僕は第一線からは退き、三菱自動車というチームで仕事に重きを置きながらラグビーを続けていくと決めた。この決断の重みは十分にわかっている。軽々に覆すことができないこともわかっている。でも、溢れる気持ちは止められない。思いが錯綜し、心が葛藤する日々を、社会人1年目の僕は送っていたのだ。
 そうして1年が経とうとしていたある日、一本の電話がかかってきた。
「最近どないや?」

 平尾さんだった。
 後日、食事をすることになった。
 仕事を終えてすぐに京都駅に向かい、新幹線に飛び乗って神戸まで向かう。1年前のあのときみたいに用件は最初の10分だけ。そこで平尾さんはこう言った。
「今やったら、うちは獲るぞ」
 即決だった。

 今から思えば、すべて平尾さんの導きだった。三菱自動車を選んだのも、その決断を翻して神戸製鋼への入社を決めたのも、「自分のことは自分しか保障できない」というあの言葉があったからだ。平尾さんの意に沿わない決断をしたのも、それを翻したのも、この言葉があったればこそできた。
 もっといえば、三菱在籍時のまだまだ荒削りな僕を日本代表候補に選出したのも、当時代表監督だった平尾さんだった。自らの可能性を閉じようとする若者を引き上げ、将来についておそらくは思い悩んでいるに違いないと連絡をくれた。そして、一度申し出を断っている無礼な僕に再び声をかけてくれたのである。

 僕自身のなかに潜在している能力を、平尾さんは見てくれていた。
 平尾さんと話しているときに、ときどき、まるですべてを見越しているかのように思えたのは、僕の勘違いではないだろう。たぶん、本当に見えていたのだと思う。もしかすると平尾さんと試合で対戦した選手は、このときの僕と同じような気持ちを抱いていたのかもしれない。すべて先回りされている。これは勝てっこない。そうして今まで心理戦を制してきたのだとすれば、納得がゆく。
 どこの誰よりも、今よりちょっとだけ先を見据えている。それが平尾さんなのだ。


「考えすぎるところは欠点やな」
 これは今だから公言できるのだが、神戸製鋼ラグビー部に入部した後もときどき電話をくれて、一緒に食事をしたりお酒を飲んだ。平尾さんからの着信は往々にして僕が落ち込んだり、考え込んだりしているときで、監視カメラで覗かれているんじゃないかと思えるほどにいつもタイミングが絶妙だった。

 最初のうちは平尾誠二と飲み歩くことに優越感を覚えていただけだった。学生時代に何度か食事をしたといっても、それはリクルーターと一学生という立場でのことだ。呼び捨てが憚られるようになり、今、感じている平尾さんに徐々に近づきつつあったものの、まだまだ僕の中では「平尾誠二」だった。
 かの平尾誠二が僕と一緒に食事をし、語りかけてくれる、その幸福感に二十代半ばを超えようとする若かりしころの僕は、ただただ浸っていただけだった。
 店から店へと移るあいだ、平尾さんは手で口元を隠しながらそそくさと歩く。身元がばれないようにとそうしているのだろうが、あの風貌だ。すれ違う人の中には気がつく人もいる。たくさんいる。立ち止まって振り返り、「あれ、平尾ちゃうん!?」と指差す場面を僕は何度も見た。

 幾度となく街中を一緒に歩く中で、この人はどこでなにをしていても「平尾誠二」からは逃れられないんだよなと、ふと思ったことがある。いつ、どこでリラックスしているのだろう。素の自分を出すのは家にいるときだけなのだろうか。いや、そもそも素を出そうと思っていないかもしれない。「平尾誠二」を生き切るという決意をいつかの時点でしたのか、あるいは素の出し方そのものをとうの昔に忘れてしまったとか…。
 そんな邪推もした。
 どの店に行っても「平尾誠二」を崩すことはなかったが、たまに「最後に一軒だけ行こか」と二人きりでバーに行くこともあった。暗がりのお洒落な雰囲気のバーカウンターで、僕はときどき「平尾さん」を垣間見たような気がする。僕が生きている世界からはほど遠い、遥か隔たったところにいる人なのに、なぜだかとても近くにいるような、そんな気持ちでウイスキーなんかを飲んでいたことが昨日のことのように思い出される。

 一緒に時間を過ごす中で、はたして僕は素のままの平尾さんに出会えていたんだろうか。それは今でも謎のままだ。あのときのバーカウンターでたまに感じた、「平尾誠二」からわずかにこぼれ落ちるあの「平尾さん」がそうだったような気はするが、今もまだ確信を持てないでいる。

 いつも、いつのときも、顔をくしゃくしゃにしながら「カカカカッ」と笑うあの表情。
 電話での開口一番、「平尾か? 平尾が平尾っていうのもなんかおかしいな」と茶目っ気たっぷりなその口ぶり。
「君のいいところは思慮深いところだけど、考えすぎるところは欠点やな」という、いつかくれたアドバイス。
 柔らかでありながらその奥にとてつもない厳しさを感じるあの眼差し。ただ僕の目にはときどき寂しげに映るときもあった。


「済んでしもたことや。ええやないか」
 これが、かの平尾誠二とは懸け離れた僕にとっての平尾さんである。これ以外にもたくさんあるが、さすがにここでは書けない。そもそも理路整然と語れることなどごくわずかで、教えてもらったラグビー理論や人として生きるために大切なこと、そしてその人となりのほとんどを、僕はうまく説明することができない。言葉にできないそのすべては、この身体にめり込むようにして僕のなかにあるのだと思う。

「平尾誠二」は、家族とごく身近な友人にしか病名を告げず、静かにあの世へと旅立った。もう、いない。されど僕のなかにいる「平尾さん」は、亡くなってからもまだここにいる。生きている。亡くなってからの方がより鮮明に。
 ラグビー選手としては直接的に薫陶を受けた。助けられた。導いてくれた。研究者として歩んでいくこれからは、いつのときもその気配を漂わせながら見守ってくれるはずだ。たとえ亡くなったあとでしかその想いに気づけない薄情者であったとしても、平尾さんはそんなことを意に介す人ではない。「済んでしもたことや、まあ、ええやないか」と破顔一笑してくれる。ただただ、そう願う。
 生前に伝えることが叶わなかった、感謝してもしきれない平尾さんへのこの想いは、この先ずっと平尾さんのことを語り続けることで届けようと思う。届くかどうかも、届いたかどうかもわからないけれど、陰に日向に導かれた者の義務として僕はずっと語り続ける。
 心よりの御冥福をお祈りしています。

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