住ムフムラボ住ムフムラボ

平尾 剛

平尾 剛/スポーツ教育学者

元日本代表ラガーマンが書き下ろす「スポーツは、だから面白いし飽きない」。 読めばもっと身体を動かしたくなる、面白いゲームが観たくなること必至。

第10回 その境地に想いを馳せる。

 2016年6月15日、マイアミ・マーリンズに所属するイチロー選手が大記録を達成したのは記憶に新しい。ピート・ローズ氏の大リーグ通算安打記録4256本を日米通算で抜き去り、世界で最もヒットを打った選手となった。
 前人未到のこの記録達成の報せは驚嘆を伴って日本に伝わり、ボールの芯を捉えてライト線に抜ける4257本目のヒットと、いつものまっすぐな眼差しで記者の質問に応える記者会見でのイチロー選手の姿が、紙面と画面を賑わした。

 4257。
 途方もないこの数字が示す記録のすごさは、たとえ野球未経験であっても「それなり」には想像がつくだろう。スランプに陥らず怪我をせずに、安定して実力を発揮しなければ決して到達しえないのはいわずもがな。長い年月をかけて一本一本の安打をコツコツ積み上げることでしか達することができないこの数字に、驚きを禁じ得ないのが大方の感じるところだろう。

 思い起こせば6年前の2010年。10年連続で年間200本以上の安打数を記録した。10年もの長きに亘ってハイ・パフォーマンスを維持したというこの偉業に、元アスリートの私は自らの競技経験を振り返って頭を垂れたのをよく憶えている。大事な試合の前に怪我をし、好不調の波に苛立っていたあのころがふと脳裏を過ぎったからである。

 怪我なく試合に出場し続ける、そして調子の波をコントロールする。この困難さは途方もない。コンタクトスポーツであるラグビーとそうではない野球という競技性を考慮すれば、その困難性に多少の違いはあるものの、アスリートが目指すべき「境地」という括りにおいてはそう大きく変わらない。

 わかっている。イチロー選手と私とでは「月とスッポン」なのは百も承知だ。しかし心の奥底に鎮座するアスリート特有の「負けず嫌い」がそれを許してはくれなかった。「年間200本」のときも今回も、イチロー選手の言動を目の当たりにしたとき、ほとんど脊髄反射的に自らの選手時代が思い知らされて頭を垂れてしまうのである。もっとやり方があったのではないかという後悔すら生じるのは、未だ現役選手への未練が断ち切れないからか、それとも私が根っからのアスリートだからか……。
 個人的な感懐はこれくらいにしておこう。

 元アスリートではなく一研究者としての立場からみれば、イチロー選手は他のどのトップアスリートとも一線を画す存在であると私は思っている。それは「自分の言葉を持っている」という点に尽くされる。

「理屈で理解させてくれないと、消化不良な感じがするんです。(中略)自分がどういう状態にあるか、それを把握して準備をするためには、そういうことは必要ですからね。それは、感覚だけに頼っていては難しいですよ。確かに感覚も大事ですけど、それだけでは長続きしませんから」

 ここからわかるように、イチロー選手は自分の状態(感覚)を理屈(言葉)で理解するように努めている。感覚を深めるのが主たる取り組みである現役選手でありながら、自らのプレーの因ってきたるところについて積極的に言語化を試みる。こんな現役アスリートを私は寡聞にして知らない。彼ほどの語彙を持ち合わせた選手も他のどの競技を見渡したところで見つけられない。
 身体論の研究、特に言葉と感覚の関係性について思索を進めている私からすれば、イチロー選手の言動には否応無しに惹きつけられる。

 とはいえ、イチロー選手のコメントは容易には理解しがたい。煙に巻くような物言いに否定的な考えを示す人も少なからずいて、なかには「憎まれ口を叩く」と評する人さえいる。今回の記録達成後の記者会見でも、
「ここにゴールを設定したことはないので、実はそんなに大きなことという感じはまったくしていない」
 と口にしたが、これを聞いたある知人は「もっと素直によろこびを表せばいいのに可愛げがない」と言っていた。

 だが、これはよくよく考えてみれば当然のことだ。なにせ4257本もの安打を打つ人である。実践に裏打ちされた確固たる哲学がなければ、これほど膨大な数のヒットを量産できるはずがない。その哲学から紡ぎ出された言葉に聞く側がとっつきにくい印象を抱くのは、だから致し方ない。

 先ほど「途方もないこの数字が示す記録のすごさは、たとえ野球経験がなくともそれなりに想像がつく」と書いた。これにはいささか説明が必要となる。
 私たちの想像が及ぶのは、この記録を達成するまでの道のりがどれほど困難であるかについて、である。野球をする者、それにスポーツをする者にとっては、この困難さは肌感覚でわかるはずだし、たとえ未経験者であっても積み上げた数字の大きさから「すごい」ということはなんとなく想像できる。

 しかし、その道の険しさには想像は及んでも、世紀の大記録を達成したイチロー選手の「境地」に至っては想像が及ばない。及ばないどころか、まったくもって想像を絶する。なぜなら誰もがイチロー選手ではないからである。
 道半ばでもがき続けた者は、その遥か先へと続く道の果てしなさは想像できても、その先の道を歩み続ける者の「境地」は謎に包まれている。

 繰り返すが、イチロー選手のコメントが容易には理解しがたいのは、だから仕方がない。「まるで禅問答のようだ」と新聞記者やジャーナリストや私たちを悩ませるのは必然である。
 スタジアムに足を運んだ数万人にも及ぶ観衆の期待を一身に背負い、さらにテレビ画面を通したそれ以上の人たちの期待をも受け止めつつ、安打を放ち、盗塁を決め、レーザービームのような送球を繰り出す。イチロー選手の他にこうした経験を有する者は誰一人いない。だからこそ彼が知覚することやそれに伴う思考の軌跡はそう易々と理解できるはずもないのだ。

 イチロー選手は万人の想像を絶する世界でひとり奮闘している。そんな彼の言葉が、一義的な理解を許さない含みのある物言いになるのは至って自然のことで、漆黒の闇の中を自身の才覚だけで歩みを進める者の言葉がわかりやすいわけがないのだ。

 あらためていうまでもなかったかもしれないが、これがイチロー選手と向き合うときの私たちの立ち位置である。彼の言動は、こちら側からは決して想像が及ばないと自覚しつつ、それでも目一杯に想像力をねじ込みながら、その真意を探ろうと努めるときに輝きを放つ。そうして初めて、彼が言葉に託した「独特の感覚」を手繰り寄せることができる。

 少し例を挙げてみよう。たとえば、
「要するに“準備”というのは、言い訳の材料となり得るものを排除していく、そのために考え得るすべてのことをこなしていく、ということですね」
 という言葉からは、人は言い訳を探すものだという人間理解と、その材料を排除するための実践的手段として「準備」を捉えていることがわかる。

 準備がパフォーマンスを積極的に向上させるというよりは、凡打に終わったり、感覚がしっくりこなかったりするときに、ほぼ自動的に意識が過去に遡って準備不足という原因を探り始めることを問題視していて、そこを境に調子が下降してゆくことを懸念している。
 だから「考え得るすべてのことをこなしていく」。未練を残さず、後悔を生まないように。
 つまり調子が落ち始める転轍点をこの言葉は示している。

 次の言葉もまたそうだ。
「たとえば、あるプレーが、自分にとってはそれほどのことではなかったのに、第三者的にはファインプレーに見える。その見方に乗るか乗らないかによって、自分が次にどこを目指すのかというのは変わってくると思います。(中略)僕は絶対に乗りません。そういう時期はとっくに過ぎました」

 あくまでも強い打球を打つことを目標にしている彼はプレーの善し悪しを自らの体感に因っている。
「満足感というのはタイトルを獲った、獲らないということで得られるものではないですね」
 という言葉からもわかるように、身体の内側から伝わる快感情が絶対的な基準としてある。だから傍目にはファインプレーに見えてもイチロー選手本人からすれば納得がゆかないことがある。記録の上ではホームランでも、思い通りにバットコントロールができなかったのであれば、それは「凡打」として自らの経験に刻み込む。外部評価よりも身体的実感を重んじる。そうすることで感覚を深めてきたのだろう。

 外部評価に流されることで感覚が狂うことをイチロー選手は身を以て知る。ただ、結果を残さなければならないプロである以上、外部評価は無視できない。監督に認められなければ試合に出場できないし、ファンに評価されなければ選手として身を立てることができない。自分が何者かを知らしめるためには外部評価を優先する時期はある。
 そう認めた上で、今の自分はその時期は過ぎた、だから外部評価には絶対に乗らないと冷静に自己分析しているのである。

 オリックス時代には、一本のセカンドゴロから自分が探していた感覚を見つけたことがあるという。第三者からみれば凡打だが、イチロー選手にとっては長らくのスランプから抜け出る大切な一打だった。
 ヒットやホームランは誰が見てもそうとわかるが、打った本人の身体感覚は本人にしかわからない。ヒットであっても感覚的には打ち損じということがあって、それは誰にもわからない。チームメイトや監督にだってそのすべてをわかりえないし、メディアやファンはどうしても結果のみに目を向けがちだ。
 油断をすればこうした第三者の目に囚われ、感覚が狂い始める。たまたまヒットが打てたことを肯定し、「しっくりこない」という感覚の狂いが置き去りにされる。
 ここでもまた調子が下降する転轍点を指摘している。

 一本一本のヒットを積み重ねてきた結果として今日のイチロー選手がある。ここから想像すると、常人には理解しがたい技術を身につけつつ「高みに登り詰めた」という印象がどうしても拭えないが、こうして彼の言葉を一つひとつ見ていくとどうやらその限りではない。
 どちらかといえば「攻め」に打って出るという姿勢ではなく、自らの身体感覚を頑なに「守り続けてきた」のではないか。
 踏み絵を踏まないように今もなお闘い続けている。その踏み絵を、イチロー選手は言葉で象ってくれているのだ。

 イチロー選手について語りだせばキリがない。次の一言で最後にしよう。
 「どれもこれも、ほんの数ミリの違いなんです。しっかりと捉えられるはずのボールばかりだったのに、よし、いける、と思うと、体がミスをしてしまう。気持ちによって体の動きにミスが出るというのは、技術という部分の話ではないですから、簡単に修正するというわけにはいきませんしね」

 技術は容易に修正できるが、気持ち(心)はそうではない。体の動きを狂わせるのも心である。そしてその修正には困難が強いられる。修正が困難ならばそもそも狂わないようにすればよい。だから、心が乱れ始めるポイントを言葉で象り、看板を立てる。一度はまった落とし穴に、もう二度と落ちないように。そして後から来るものにここは危険だよと知らしめるために。
 微かな心のざわめきを感知し、それを言葉で象ることで未然に対処する術を身につけたがゆえに、今日のイチロー選手がいる。

 イチロー選手は、自分に与えられた最大の才能を「たとえ4打席ノーヒットでも、5打席目が回ってきて欲しいと思える気持ちかな」と捉えている。しなやかな筋肉でもなく、類い稀なバットコントロールでもなく、気持ち(心)こそ自分の才能だと言い切るこの自信は、絶えず揺れ動き、けっしてつかみどころのない心と格闘した経験から生まれたのだと私は思う。
 感覚を追い求め、それとほぼ同時並行で言語化するという困難な努力を絶え間なく続けた努力の果てに、才能と見紛うほどの自信を手にいれたのだ。

 そんなイチロー選手に私は憧れる。自らの心と向き合い、いわば「真の精神論」を築き上げようとする彼の境地を、大リーグ3000本安打を達成したあとも追い続けたい。

〈出典〉
スポーツマガジン7月号増刊「イチロー 4257安打達成速報号」(ベースボールマガジン社)
石田雄太『イチロー・インタヴューズ』(文春新書 2010年)

コラムニストから選ぶ

PAGETOPへ