住ムフムラボ住ムフムラボ

平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第11回 死と飴玉

 遠足のバスが、小学校前で止まり、生徒たちは一旦校庭に集合することになりました。
 しかし、小学校の担任の吉田とI坂はバスを降りるとそのまま、薄暗い道を歩いてI坂の家へと急いだのです。
 学校からI坂の家までは、歩いて五分ほどで着きます。途中、遺跡が出たことで有名になった小高い丘の間に切り開いた、切通しといわれる道を抜ければ、すぐに目蒲線の踏切に突き当たります。
 踏切付近では、警察の実況検分が行われており、近所の物見高い連中もまだ残っていて、大きな事故が起きたことを物語っていました。
 その踏切の先に、I坂の家はありました。

 担任の吉田先生は怒ったような顔をして、I坂を抱きかかえるようにして踏切を渡りました。吉田先生には、周囲に集まっていたひとたちの視線が、ふたりに注がれているのが、痛いほど分かりましたので、I坂をその視線から守ろうとしていたのかもしれません。
 上空からカラスが舞い降りてきて、線路脇で腐りかけていた残飯をついばんで、割り箸のようなものをくわえたまま飛び去っていきました。
 ふたりは、家の前で少し、立ち止まりましたが、意を決したようにして家の門を入り、引き戸を引きました。
 I坂の小さな家は、玄関を入ればすぐに、六畳一間で、I坂の一家四人と祖母はそこで食事をし、夜は布団を敷いて寝ていました。
 その六畳間の右手に突き出したバラックのような小さな部屋が、父親の仕事場になっていました。
 父親の技術に、近隣の光学機器の大手が目をつけ、一気に仕事量が増えたために隣の敷地にバラックを建てI坂光学株式会社の看板を掲げたのは、この事故から数か月後のことでした。

 最初に、二人の目に飛び込んできたのは、思わぬ光景でした。
 I坂の母親が「わたしが悪かった、わたしが悪かった」と呪文のように繰り返している姿です。
 母親の前には、祖母が呆けたようになってへたり込んでいる姿がありました。
 父親の富太郎の姿は、そこにはありませんでした。
 仕事場ももちろん無人で、ひっそりとした空気が支配していました。
「あたしが悪かった」という母親の小さな声だけが、薄暗い部屋の中に響いていたのを、I坂は後々まで記憶することになります。
 そして、その数日後に、I坂の母親はそれまで信心していた成田山ではなく、蒲田の老祈祷師のところへ毎日通い始めるようになったのです。
 I坂は、いったんは家の中に入ろうとしましたが、そのままくるりと踵を返して多摩川の方向へ駈け出しました。
 そうするよりほかに、何もすることができなかったのです。

 I坂は、わけもわからずに、走っていました。
 懸命に走っていました。
 途中で、犬散歩している顔見知りの主婦とすれ違いざま、主婦が何か声をかけようとしましたが、声にはならず、そのままI坂が走る後ろ姿を見送りました。
 I坂は、こうして走ってへとへとになれば、今日起きたことが消えてしまうというような気持だったのでしょうか。
 とにかく、何かを追い払うかのように土手の上の道を走り続けたのです。
多摩川はいつものように、静かにゆるやかに、流れていました。
 あたりはすでに、暗くなっていましたが、川辺の葦が初秋の風にそよいでいました。
 I坂はしかし、風景を見ることもなく、ただ走り続けたのです。
 そのまま、自分が消えてしまえばよいという気持ちでした。
 なにもかもが、消えてしまえばよい・・・。
 そして、走りながらふと目を上げると、その先に、多摩川の流れを呆然と見つめながら佇む父親富太郎の背中が見えました。
 富太郎もまた、家にじっとしていることができなかったのです。
 走り寄ってくるI坂に気付き、無言で抱きかかえました。

 以上が、あのトンネルを出てからの、わたしたち三人の足取りと、そこで起きた出来事です。

 さて、蒲田駅西口の小高い丘にあるトンネルの中で、わたしたち三人は時間の裂け目のようなところへ迷い込んでしまったのでした。
 トンネルを出たときのわたしたちは、それ以前のわたしたちではありませんでした。
 わたしたちは、トンネルの出口で、お互いにそれが当然のことであるかのように手を振って、別れの挨拶をして、半世紀前の、それぞれの実家に戻って行ったのです。
 半世紀前の東京場末の光景の中に。

 わたしは、あのとき野良犬のエスと出会い、そしてエスの無残な死を知りました。
 K場は、横浜で従業員が焼死するという事件に遭遇し、父親と一緒に葬儀の席に出席しました。
 I坂は、妹の唐突な鉄道事故死の現場に立ち、そこから逃げるようにして多摩川土手を走り続けました。
 三人はそれぞれの仕方で、町の景観、多摩川土手で嗅いだ風の匂い、黴臭い六畳間の佇まい、子どもたちの嬌声、プスプスとガスが出ている沼、どぶ川の流れ、工場の機械音、近しいものの死、父親の油にまみれた指先、母親が拭き掃除をしている姿、近所の人々のひそひそ話、空き地の防空壕、カリスマのような大木、野良犬の彷徨などに再会することになったのです。

 わたしたちの前には死があたりまえのように、転がっていました。
 無残な行き場のない死が、町のいたるところに影のようにへばりついていました。
 死に怯えるでもなく、畏れるでもなく、当たり前の風景の一部になっていたのです。
 それだけではありません。わたしたちは、日常的に何かを殺しながら生きていたのです。わたしたちの住んでいた近所には、光明寺という寺があり、その裏にはザリガニや蛙が生息する沼地がありました。
 わたしたちは、ザリガニをとるために、蛙をつかまえて殺し、八つ裂きにしてその肉片の一部をタコ糸の先に縛り付けて沼に垂らしました。
 そうするとすぐに何匹かのザリガニがその蛙の肉片に群がってきて、釣り上がるのです。
 今度は、捕まえたザリガニの尻尾の部分の肉で、ザリガニが獲れるのがわかってきて、蛙がつかまえられないときには、最初のザリガニが犠牲になりました。

 食卓に並んだ質素な食事の上では、大量の蝿が舞っていました。
 町内会では、殺した蝿を五十匹持ってくれば、飴玉と交換してくれるというキャンペーンをしていました。わたしは、毎日蝿を殺して、マッチ箱の中にその死骸を並べたのです。
 そして、死んだ蠅の数を数えてから、五十匹ずつを一まとめにしました。
 そうして、路地裏にある町内会委員の軒先で、五十匹の死が、一つの飴玉と交換されました。
 死が、飴玉と交換される時代。
 戦争が終わって、二十年も経過していない時代の中で、わたしたちは少年期を終えようとしていました。

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