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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第1回 「町工場のせがれ」同盟

 敗色濃厚。この言葉、好きと言うわけでもないのですが、わたしは何故かその響きに惹きつけられてしまいます。いや、それどころか何事もうまくいっているときは、まるで自分の居場所がないような気がして落ち着かず、こりゃだめだ、進退窮まった、敗色濃厚だとなると、何故か得心がいって気持ちが片付くようにすら感じてしまうのです。
 厄介な性分ですね。わたしには、どうやら勝利の美酒よりも、敗残の自棄酒の方が性に合っているらしい。
 子どもの頃より、何をやってもうまく事が運ぶシーンよりは、失敗してあたふたしている自分を思い浮かべてしまう性向があることを認めないわけにはいきません。だから、還暦を過ぎるまで生きてきて、失敗の記憶は山ほど思い浮かべることはできるのですが、歓喜にむせぶなんていう記憶は何処を探しても見つけ出すことができないのです。
 どうしてなのでしょうか。
 そんなことを考えても特段の意味はないのかも知れませんが、このわたしの性分には何か致命的なものが含まれているような気がしてならないのです。

 最近、妙に隣町のことが気になりだしまして、あちこちの路地裏に迷い込むのが習慣になりつつあります。週末になると腰が落ち着かず、今度はどこへ出向いて行こうかと地図を広げては、探検先の情景を思い浮かべてそわそわしています。
 かといって、旨いものめぐりやら、観光スポットというものに興味があるわけではありません。特に定まった行先や、目的があるわけでもないのです。ただ、古い街角に降り立った自分が、旧家の板塀やら、工場のゴミ箱からはみ出た切粉や、焼け焦げた換気扇がむき出しの居酒屋のある街角に佇んで、さて次はどの方向へ歩み出せばよいかと思案している情景が目に浮かぶのです。
 ここでも、観葉植物のある洋風のテラスや、モダンで快適そうな建築物や、評判の料理店や、高級そうなブティックというものは、何の感興も呼び起こしてはくれません。ただ、時代が付いた板塀や、緑青が浮いた銅張の家や、今にも崩れそうな廃屋、苔むした敷石などばかりが私の気持ちを吸い寄せるのです。
 時代の先端ではなく、時代そのものに興味があるというわけで、つまりはもはや誰も顧みなくなった日陰の情景に心惹かれているわけです。
 ここでもまた、どうしてなのだろうかと考えないわけにはいきません。

 ひとつの仮説を立ててもよいのかもしれません。まずは、時計の針を幕末、にわかに薩長が人気を集めた時代にまで戻してみましょうか。日本列島の周囲には、しばしば南蛮船が押し寄せ、難癖をつけては賠償金を幕府に請求してくる。幕府の財政は逼迫し、物価は上がり続けます。ひとびとは、もうやけっぱちになって、


 香こうも高くて漬けられない、
 飯屋のまんまにもりがない、
 計りにおまけが少しもない、
 どこでも酔うほど呑まれない


 などとぶつくさと不貞腐れて、鬱憤のやりどころを探しています。
 なんだか、当今の日本の姿に似ていなくもありませんな。どうやら、幕府の失政が明らかになり、二百年続いた将軍家もここにきてどんよりと敗色濃厚。
 何に対して敗色濃厚なのかは、権力闘争も相まって複雑に絡み合う政治状況のなかでは必ずしも明確ではありません。それでも薩摩、長州の暴れん坊たちが幕府転覆をたくらむには材料が出そろって、ボロボロになった将軍家。そんなときに、この将軍家に最後まで忠義を尽くしたのが会津藩主の松平容保さん。先日、会津若松で講演会に呼ばれたときに、会津の方々の並々ならぬ容保さんへの思いを受け取りました。文久二年閏八月、誰もが引き受けたがらなかった京都守護職を引き受け、敗色濃厚になった幕府をサポートし続けたこの若い殿様は、勝ち馬に乗るのは下卑たことだとでも思っていたのでしょうか。

 話があらぬ方向へ逸れそうですが、わたしが強調したいのは、時代を分けるような戦いの後に、勝った方よりは敗軍のほうに心情を寄せてしまうような傾向というものが確かにあり、それには理由があるということです。
 丁度その頃、太平洋の向うでも、大陸の南北でアメリカ人同士が殺し合いをしていましたが、時代が下っても南軍の兵士に心情を寄せてしまうような心の傾向というものが彼の地にも連綿と受け継がれている様子です。
 歴史にはイフはないといいますが、わたしはイフがあったっていいじゃないか、もし戊申戦争で勝敗が分かれていたら、その後の日本はどうなっただろう、もし、アメリカ南北戦争で南軍が勝利していたら、その後のアメリカはどうなっていただろうと夢想するのは、敗れ去りしもののどこか現代というものにたいする批判精神のなぜるわざかもしれません。
 この歴史のイフは勝者は顧みることがありません。イフは、常に負け側の特権的な夢想です。いや、負けた側が、みずからの存在理由を説明し証明するためには、このイフを考えるということがどうしても必要なのです。
 ひとつの仮説と言いながら、まだ仮説らしきものを立ててはいませんでしたね。その仮説とは、わたしたちが、負けに心情を寄せる理由のひとつは、戦後の日本人というものの出自こそが、負け組であるということであり、わたしたちは負けて死んでいった父母たちの後裔であるというところにあるのではないかということなのです。
 わたしが、好きな作家である永井荷風もまた、負けた側に常に身を寄せる物書きでした。荷風が範とした成島柳北もまた徳川家に仕える学者でありました。荷風の散歩は、いつもどこか敗残の跡ばかりを巡っていたようにも思えます。ああそうそう、山本周五郎原作で川島雄三が映画化した『青べか物語』でよそものの先生を演じた森繁久彌、あのひとは成島柳北の姪孫なんだそうで、森繁森重が唄う船頭小唄なんてのも敗色濃厚な唄でしたね。

 さて、なんだか愚にもつかないことを綴っておりますが、これからわたしにとっての町と住まいの物語を始めたいと思います。わたしの町へのこだわりに、これまで書いてきたような一種、奇妙な反時代趣味が濃厚な雑文にお付き合いいただければと存じます。
 平成二十一年に母親が、二十三年に父親が他界したあと、わたしはそれまで介護のために移り住んでいた実家を離れることになりました。車で数分のところに妻子の待つ家があるのですから、そこへ戻ればいいようなものですが、わたしはなんとなくもう少し実家のあった町に暮らしてみたいと思っていました。わたしの家は東京の世田谷区というところにあり、どちらかと言えば閑静な住宅街の中にあり、実家のある大田区の臭気はそこにはありません。大田区のわたしの実家のあったワンブロックには、四軒の町工場があり、いつもプレス機械や切削機の音が響き、油の匂いが漂っていました。陋巷というほどではないのですが、文化的で清潔な町というよりは、職人と工員たちの町にわたしは育ったのです。
 戦後から、高度経済成長期までは朝鮮戦争の特需などもあって大変に活気のある町でしたが、昭和が終わるころにはすっかりと様変わりして、四軒あった町工場はすべて廃業してしまいました。わたしが、文化的な世田谷に戻らなかったのは、自分が育った池上線という三両連結のローカル線沿線の町にもう少し留まっていたいという気持ちがあったからです。
 わたしが生まれ育った町も、最近はすっかり様変わりしており、かつての油臭い工場の町から、モダンな戸建てやマンションが立ち並ぶベッドタウンに変身しています。
 現在、わたしは同じ町の中学校を卒業した友人たちと定期的に町歩きをして楽しんでいるのですが、おもしろいことに三人とも町工場の親方の倅だということです。
 わたしも、わたしの友人である自動車部品製造会社の社長も、成長の過程で自ら生まれ育った町から離れ、還暦近くになって親の介護のために舞い戻るといった境遇を共有しています。もうひとりの友人は、中学校を卒業以来絵描きの道を志し、還暦を過ぎた今でも絵筆を握ってこつこつと売れない作品を作り続けています。
 その三人が、あるとき両親がいなくなった後のわたしの実家で酒を酌み交わしながら、こんな会話をしたのです。

 「親父たちが懸命に家族を養っている頃、俺たちは遊びほうけていたわけだ」
 「なんだか、このままこの町から昔の記憶が無くなっていくのは寂しいな」
 「いや、寂しいじゃなくて、記憶はもう一度掘り起こさなくてはいけないんじゃないか」
 「そうそう、記憶を掘り起し、親父たちの時代を供養するのを俺たちはどこかに忘れてきた」
 「それは、俺たちがナニモノの倅であり、俺たちが何処から来たのかを探ることでもあるな」

 およそ、こんな話になったわけです。
 いや、ほとんどは、愚にもつかない冗談や自らに忍び寄る老いの兆候や、病気自慢や艶笑話だったのですが、この会話がわたしたちの酔狂な企画のきっかけとなりました。

 それから一週間後、わたしたちは大井町の駅に集合したのです。
 わたしたちは、大井町の路地裏のような飲食街を抜けて、旧東海道に入り、一路羽田浦をめざして歩き出しました。
 これが、わたしたちの生まれた町、育った町、隣町を探検する記念すべき第一日目でありました。物語はその旧東海道の一軒の蕎麦屋から始まります。(次回に続く)

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