住ムフムラボ住ムフムラボ

平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第10回 陋巷ろうこうの神様

 K場、わたしとともに、「時空のトンネル」を潜り抜けて、昭和三十年代の自分たちが生まれた町に戻ったI坂は、どこへ行ったのだろうか。

 I坂の生家は、目黒と蒲田を結んでいた東急電鉄目蒲線沿線、鵜木駅の西側にあった。すぐ近くには多摩川が流れている。この辺りは、わたしの生家だった町工場の並ぶ地域とはすこしばかり色合いの異なる、末枯れた空気が漂っている。まだバラックが立ち並んでいたところで、K場の住んでいた山の手側の雰囲気とは好対照の人間臭さがあふれる裏町であった。

 I坂の父親富太郎は、レンズの原型にあたる光学原器を作る職人だった。
 大正生まれだったが戦争には行っていない。
 I坂も、その兄も、父親が何故戦争に行かなかったのかについての詳細を知らない。
 ただ、信心深い母親によれば、この父親にはどこか人間離れしたところがあり、神さまがついているので、国も、神様を徴兵することをはばかったということであった。
 俄かには信じがたいが、実際に身体に欠陥があるわけでもなければ、徴兵を忌避するような思想の持ち主でもなかった青年、I坂富太郎もとのには、何故か赤紙が届かなかった。
 富太郎の妻、つまりI坂の母親であるフミによれば、富太郎はモダンボーイであり、集合写真などに写っていても、誰でも富太郎を見分けることができるということである。富太郎ひとり、後光がさしたように浮き出てくるというのである。
 後年、わたしも社員旅行での集合写真を見たのだが、確かにI坂の父親は、白皙の美青年ではあったが、後光がさしているような気配はなかった。
 ただ、まっすぐにカメラを見つめる眼光には、並はずれた一途さといようなものが感じられた。

 I坂の父親も、母親も、どこか浮世離れしたところがあったのだ。
 大森駅近くにあった富田光学が、富太郎の職場だった。東京大空襲で焼け野原になった大田区で、職を探して町を彷徨していた時、大森駅近くに自分の名前に似た会社があったので、その門を敲(たた)いたということであった。
 最初は営業の手伝いということで、先輩の社員について客周りをしていたのだが、そのうち、光学原器の制作に従事することになった。レンズの原器になる測定器の製造だが、もともと手先が器用で、黙々とひとつの作業を続ける忍耐力があった富太郎は、すぐに一目置かれる存在となった。
 よほどこの仕事が向いていたのだろう。富太郎はみるみる腕を上げ、レンズ原器の神様とよばれるようになるまでに、そう長い時間はかからなかったのである。
 富田光学の社長の紹介によって、妻フミを娶り、すぐに二男二女をもうけた。その次男がI坂である。

 トンネルを抜けて、ふらふらと多摩川の河原を彷徨っていたI坂は、自分が風景の中に溶け込んでいってしまうのではないかと錯覚した。迷い犬のように、河原の葦の茂みのなかに迷い込んで、身動きができなくなっている自分を想像した。土手に腰かけて、暮れなずんでいく多摩川の黒々とした流れを眺めていると、土手下のグラウンドでは野球を終えた少年たちが帰り支度をしていた。

 I坂には、野球に誘ってくれるような仲間はいなかった。近所に螺鈿(らでん)職人が住んでいて、いつもその職人の工房に入り浸っていた。螺鈿職人には、I坂と同い年の長男がおり、I坂とその長男に絵を教えてくれた。元々は日本画家を目指していたと言う職人は、息子たちに自分の夢を託すような気持があったのだろう。そのお陰で、I坂も、螺鈿職人の長男も、小学校高学年になるころには、いっぱしの絵描きのような作品をつくれるようになっていた。  
 I坂は自分が、あの野球少年たちとはまったく違った人生を送ることになると、漠然と感じていた。しかし、だからといって絵描きになるとも思ってはいなかった。何ものにもなりたくない、というのがこの頃のI坂のいつわらざる気持ちだった。何ものでもない何か。それは何だろうかと考えると、すこし胸の鼓動が高くなった。

 I坂が実家の開き戸の前に立つと、母親フミの声が聞こえてきた。声とはいっても、誰かと会話をしている声ではない。I坂の母親フミはかつては、成田山新勝寺に通う熱心な真言宗の信者だった。しかし、ある事件がきっかけになって新興宗教である辛言会(しんげんかい)の熱烈な信者へと改宗した。そして、その事件以後、時間があればほとんどの時間を、念仏を唱えて過ごす毎日だった。
 念仏を聞いているうちに、時間があの事件の日まで巻き戻される気がした。
 あのとき、I坂が家にもどると、祖母の前で母親が涙を流しながら「わたしがわるかった」と何度も何度も繰り返した。
 I坂が母親の涙を見たのは、このときが最初で、そして最後だった。

 I坂の母親の父親にあたる永田実は、一風変わった遊び人であったが、日本で最初にアメリカ車を使ったタクシー会社を立ち上げた人物として知る人ぞ知る存在であった。フミは幾分かはその血を引いている。亭主である富太郎は経営の才覚はまったくない、頑固一徹の職人肌だったが、フミには父親から受け継がれた商才と経営の才能が備わっていた。
 富太郎に光学原器制作の会社を立ち上げさせ、数人の従業員を雇入れるまでの会社に育てた栄誉は、フミにこそ与えられるべきだろう。

 I坂光学株式会社の実質的な経営者として、フミは毎日仕事場に入り、レンズ研磨の仕事をこなし、従業員の世話をし、朝晩の家族の食事の用意をした。
あるとき、商店街の八百屋で買い物をしたとき、店員が釣り銭を多く渡したことがあった。フミは、家に戻り、すこし自慢気に富太郎に話した。
 その瞬間、富太郎の顔色が変わった。
 喜んでくれるだろうと思ったフミだが、富太郎は「すぐに戻って返してこい!」とフミをどなりつけた。富太郎は曲がったことが大嫌いであり、気に入らない仕事の依頼は受け付けなかった。しかしそれではなかなか釜の蓋が開かず、顧客との間を取り持っていつも頭を下げるのはフミだった。お客にも富太郎にも嫌な思いをさせずに仕事を続けられるようにしていたのである。見方によっては、フミは、売れない芸術家に寄り添って、その生活を支える気丈な情婦のようであったかもしれない。
 仕事に熱心なあまり、まだ幼かったI坂兄弟の面倒を見る余裕はなかった。I坂兄弟は、自分たちで時間のつぶし方を工夫するしかなかったのである。

 その日、I坂の末の妹である、たか子は暗くなっても家に帰ってこなかった。いつもなら、ほったらかしにしておいても、夕飯の頃までには、子どもたち全員が家に戻っているはずだった。
 たか子は、友だちと光明寺の池で見つけた一匹の猫をどうしたものかと思案していた。家に連れて帰れば、母親は怒るに決まっている。そのうち日が暮れてきて、とりあえずは、友だちが家に連れて帰るということにして、光明寺から帰ることにした。
 帰り道、頭の中から猫の姿が離れない。
 ちょうど目蒲線の鵜ノ木駅(現在は多摩川線鵜の木駅)近くの踏切を渡って後ろを振り返ったときに、一匹の野良猫と目が合った。それは、友だちが連れて帰ったはずの野良猫だった。
 たか子は、頭の中がカッと熱くなり、自分でもよくわからないまま、猫の方へと走り出した。鵜ノ木駅を発車した目蒲線がすぐ近くに接近していたことには、まったく気が付かなかったのである。

 I坂はその日は、小学校の遠足の日にあたっていた。山梨県の河口湖を出発した帰りのバスが新宿で環状七号線に入ったときは、日ほとんど暮れかかっていた。バスの最前列に座っていた担任の教師が、ふり返ってI坂に手招きした。
「I坂、ちょっと」
「なんでしょうか」
「いや、落ち着いて聞いてくれ。
 さきほど、学校へ連絡したら、目蒲線で事故があったということだ。
 まだはっきりとはしないのだけど、どうやら、お前の妹が、事故に巻き込ま  
 れたらしい。
 今からバスを降りて、タクシーに乗り換える。先生も一緒にお前の家へ行く」
 一瞬、事情が呑み込めなかった。
 あの踏切ではつい二か月ほど前、ひとが飛び込んで大騒ぎになったことがあった。

 I坂は現場を見に行こうとしたが、母親に止められた。
 後に、切断された胴体と、脚が線路の上に転がっていたという噂が広がった。
 見に行かなくてよかったと、I坂は思った。
 そんな悲惨な事後が、まさか自分の妹の身に起きるなどとは考えたくない。
 でも、担任が言ったのは、そういうことじゃないのか。
 タクシーのなかで、I坂はたか子のことを思った。母親の顔と、父親の顔が交互に頭の中を巡った。 (つづく)

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