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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第9回 父親の肖像

 K場源三郎は、いすゞヒルマンミンクスの助手席に、長男であるK場を乗せて島村四郎の実家である栃木県那須野が原へ向かっていました。まだ、高速道路が整備されていない時代、都心部を抜ければ道も舗装されておらず、ヒルマンミンクスはガタガタと車体を揺らしながら原野のような道を走り続けます。道中、源三郎は無言でした。何故、このとき長男を連れて行ったのか、その理由は今でも明確には分かりません。
 K場の記憶では、源三郎があまりに落ち込んでいたために、妻がK場に「おとうさんをたのむよ」と言って同席させたということらしい。

 島村の実家のあった那須野が原は、1966 (昭和41) 年より国による那須野が原開拓建設事業が行われたところで、開拓の歴史は明治の殖産興業の時代にさかのぼります。
 原野の開拓の苦労は、並大抵のものではなかったようです。那須野が原の大地は、山からの砂礫と火山灰でできていたため、その作業は石を一つずつ取り除くことから始められたといいます。島村の祖父である作右衛門は、この開拓事業に参加し、塗炭の苦しみを味わいながらも歯を食いしばって瓦礫の原野を耕作地に仕立て上げる作業を行いました。
 この島村の強力さと粘り強さは村でも評判になり、開拓農民の間ではリーダー的な存在であったようです。この作業の結果、二反ほどの耕作地が作右衛門のものとなり、稲作を始めます。父親の作造の代には、地元の中心的な農家に成長し、大量の米を地元の協同組合に納めるほどになりました。

 葬儀は盛大なものでした。
 早々に家を出て行った四男であり、逆縁ということもあって、当主の島村作造は周辺の農家には知らせずに、身内だけの葬儀にしようとしたのですが、テレビのニュースにもなった事故であり、誰もが知るところとなりました。
 近隣の農家や、商家から送られた花輪が、黒白の布がはためく生垣に沿って、島村の家の前の道一列にずらりと並び、喪服を着たものたちがところどころに立ち止まって話をしたり、若い衆が弔問客を案内したりしている姿が見えました。源三郎は、道に貼りだされた案内を見て島村の家を確認すると、直接葬儀の場へは向かわずに角を曲がり、そのまま1キロ以上も走ってから、空き地に車をとめました。
 しばらく、車の中で呼吸を整え、おもむろにドアを開け、K場の手を引いて葬儀の行われている島村家へと歩き出したのです。

 砂利道をK場親子は歩いていきます。
 蝉の鳴き声が頭上から降り注いでくる夏の午前。
 葬儀の開始時間はとうに過ぎており、焼香を済ませた近所のひとたちが横目でK場親子を見ながら通り過ぎて行きます。
 どんなに人目を忍んでも、片田舎での自家用車は目立ちましたし、源三郎の仕立ての良い喪服を見れば、東京から来た社長であることはすぐに見分けられたはずです。幼心にK場は、焼香から帰る人々の視線が源三郎と、息子のK場の身体を刺すのを感じていました。そこには、当時としては高級車に乗ってやってきた「東京の社長」に対する嫉妬めいた感情もあったかもしれません。実際には、源三郎の会社は東京ではなく横浜だったし、源三郎自身、貧しさの中から這い上がってようやく工場を立ち上げるところまで漕ぎ着けた矢先の出来事だったのです。

 二人が葬儀の行われている島村の家に到着したとき、人々が並ぶ玄関口からは、読経の席の一番奥に座っていた島村作造のうなだれる姿が見えました。まだ、たくさんの人が焼香の列を作っています。源三郎はじっと作造の方を見ていましたが、その顔は少し青ざめているような感じで、K場は不安が胸に込み上げてくるのを感じていました。何かを決したように、源三郎はK場の手を離し、「ここで待ってろ」と言い残して、作造の座っている一番奥の席まで進み出ていきました。
 その勢いに、焼香の列が乱れ、作造と源三郎がにらみ合う格好になりました。

 作造と源三郎が会うのはこれが二度目です。
 まだ幼さが顔にのこる島村四郎を連れて、作造が源三郎の工場を訪ねてきたときが最初の出会いでした。
 あのとき、「こんな役立たずですが、よろしく仕込んでやってください」と頭を下げる作造に対して、源三郎は「大事なお子さんを、預からせていただきます」と言ったのを覚えています。

 実際に、源三郎は住み込みで働いている若者たちを家族同様に遇した。いや、家族以上に気遣い、大切に育てようと心掛けていました。
 もらいもののお菓子や果物は、まず住み込みの若者たちに分け与え、残り物を自分の子供に与えた。風呂も最初に、彼らに入るようにすすめていました。
 もちろん、仕事場では厳しく接しましたが、それも親心からそうしているのであり、いずれはこのなかの誰かに工場を継がせてもよいと考えていたのです。
 その大切な「子ども」のひとりを、工場火災で失ってしまったのです。
あれが、自分の子どもだったらどうだったのだろうかとも考えることもありました。さすがに、自分の子どもが命を失うことと今回の焼死を比較するのははばかられましたが、余所様の子であるがゆえに、余計に責任を果たせなかったことが、心に重くのしかかっていたのです。

 源三郎は、作造の前に膝行ですり寄り、そのまま額を畳の上にこすりつけました。
 ほとんど言葉にはならない嗚咽のような声を上げて、額を何度も畳に擦り付けたのです。
 傍から見れば、芝居がかった仕草にみえたかもしれません。
 作造は、最初は少し戸惑ったような様子でしたが、源三郎がいつまでも額を畳に擦り付けたまま体を震わせているのを見て、思わず両手を差出し、源三郎に頭を挙げるように促しました。
 結局、二人に会話はありませんでした。
「大切なことは何も言えない」
 焼香の列の最後尾からこの光景をじっと見ていたK場は、後にわたしに語りました。


 あの日のことは、K場にとっては生涯忘れぬ光景となりました。
 帰りの車の中でも源三郎はほとんど無言でしたが、一度だけ、「謝って済むことと、済まないことがある」と呟いたのを覚えています。
 人生には、取り返しのつかないことがあり、償いようのない過失があり、やり場のない怒りや悲しみというものがあるということです。しかし、そういったことを理解するには、K場はまだ幼すぎました。

 日ごろは豪放磊落、活動的な父親が一回り小さく見え、なんだか情けなく、同時に父親の職業はなんだか割に会わないとも感じたのです。
 別に本人が悪いわけではないのに、こんなふうに謝らなくてはならない社長という立場に立つとはやはり損な役回りだと感じていたと思います。
 それでも、K場家の長男として生まれたK場は、自分もやがてはK場精機の社長をやることになるのだろうと予感していました。
 幼かったK場には、あのとき何故父親がK場を連れていったのかを推し量るすべもなかったのですが、後年、「やはりあれは、俺に対して何かを教えるつもりだったのだろう」と述懐しています。自分の一番弱く、みじめな姿を見せることで、父親はK場にお前が後継者としてこの辛さを引き継げと語っていたというのです。

 K場には弟がいましたが、父親は弟には決してこのような姿を見せたことはありませんでした。だからK場の弟から見た父親像は、唯我独尊、絵に描いたような頑固一徹で、なんでも自分で決めて、てきぱきと物事をすすめていく歴史上の英雄のようなものでした。
 弟は長じるまで、自らすすんで父親に近寄ろうとはしませんでした。
 K場は、父親といえども、いかんともしがたいものがあるのだということを、あの葬儀の日に学んだのかもしれません。
 このK場兄弟の父親に対する感覚の違いは、わたしたち兄弟(わたしは長男で弟がいます)の場合もほとんど同じです。
 ただ、K場は学生時代に散々放蕩を尽くした後に、父親が期待した通りにK場精機を継いでやがては社長になりました。
 しかし、わたしはそうではありませんでした。


 K場の父親は、従業員の葬儀で額を畳に擦り付けるように詫びました。K場は、この光景を生涯忘れることができないと語っていました。
 額を畳にこすりつけるという表現はすこし大げさじゃないかと思われる方もあるかもしれませんが、当時の日本ではこのお辞儀のスタイルはだいたいどこも同じようなものだったのだと思います。
 わたしの両親は埼玉県の出身ですが、たまに親戚が訪ねてくると、お互いに座布団を外して両手をつき、それこそ額を畳に擦り付けるような格好で、挨拶をしていました。

 後年、わたしは空手道を習うのですが、ここでの稽古前後のお辞儀も同じです。
 起右座左。座るときは、左足の膝をつき、次に右足を折って正座します。そして両手の親指と人差し指の間に三角形ができるように手をついて、その三角形の中に顔を埋めるような格好でお辞儀をします。そして立つときは、右足から片膝立ちになって立ち上がります。
 こういった定型が生活のいたるところにありました。
 いや、この定型があったからこそ、K場源三郎はあのとき、無言のままで島村作造と対峙し、無言のままでなにごとかを伝えることが可能だったとはいえるのかもしれません。

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