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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第8回 防災記念日

「焼けちゃったよ……」とK場の母親は呟きました。
 一瞬、何が焼けたのかと思ったのですが、母親の落胆を見てK場は自分の手足が震えてくるのを感じていました。

 K場の父親であるK場源三郎は、栃木県の戦前より続く有数の漬物問屋の三男として生まれました。男三人兄弟の中で、社交的な上の二人に比べると特段の特徴もなく目立たないおとなしい子どもだったそうです。ただ、記憶力だけは抜群で、学校の成績も良く将来は学者にでもなるのではないかと近隣で噂されていたようです。
 いや、商家にとっては、それは褒め言葉ではなく、学者にしかなれないだろうという半ば侮蔑が込められた言葉でもありました。K場の祖父にあたる源蔵は、源三郎がこどもの頃から商売には向いていないと思い、奉公に出して育てるということもありませんでした。しかし、周囲から期待されていない分、源三郎は自由に生きることができたのです。
 兄弟の中では、源三郎だけが東京蒲田にある金属加工会社の役員をしていた親戚の家に預けられ、そこから芝浦の工業専門学校へ通い、そこで工作技術をひととおり習得したということです。
 源蔵は、取り得のない源三郎を、将来この親類の会社に斡旋してもらおうという腹があったようです。

 戦時中、源三郎は満州に渡り、軍人向けの医薬品調達などの仕事をしていたというのですが、実際のところは何をやっていたのかよく分かりません。満鉄調査部あたりにも出入りしていたということで、現地での政治工作員としての役割も与えられていたのかもしれません。
 戦後、満州から戻った源三郎は、いったんは栃木県の実家に戻りますが、縁談を機に、土地勘のあった東京蒲田に一家を構えることになります。
 蒲田は省線(現JR)の駅ですが、同時に大田区を東西に繋ぐ東急池上線と目蒲線のターミナル駅でもありました。
 学生時代に世話になった親類が池上線沿線の久(く)が原というところに、当時では瀟洒な家を建て、その庭の一角に残っていた掘っ建て小屋を、源三郎たちの住まいとして貸してくれたのです。
 満州時代に知り合いになった男が、池上線沿線でプレス工場をやっており、その工場で旋盤工の見習いを募集していることを知り、上京後すぐにその工場を訪ねます。
 その、蓮沼製作所という会社には、職工さんに交じって、渡り職人といわれる旋盤工が数人働いていました。
 高専卒とはいえ、源三郎はそこで初めて、職人の技に触れて、これはおよび難いと思いながらも、自分もいつかはこういった職人の列に加わりたいものだと思ったそうです。

 焼け野原になった蒲田の町を歩いているとき、道端に旋盤の機械が焼けて転がっているのを見つけ、部品毎にバラしてリアカーに積み込み、自分が間借りしている家の庭に運び込みます。
 蓮沼製作所から調達した油に三日三晩機械を浸けて、ハンマーで叩いて油を浸み込ませ、どうにかこの拾い物の旋盤を生き返らせることに成功します。
 そこで、小さな仕事を蓮沼製作所からまわしてもらって、家でも仕事ができるようになったのです。
 今では日本を代表する機械加工会社となったK場精機はこのようにして始まりました。

 昭和25年(1950)、突如として始まった朝鮮動乱により、米軍からの軍需発注が相次ぎ、K場精機を一気に中堅の工場にまで成長させます。
 わたしも、K場もこの年に生まれています。
 昭和29年(1954)には、久が原の親類の家の土地の一角を買い取り自分の家を持つところまでいくのです。さらに、多摩川大橋をわたって横浜方面に進んだ入船(横浜市鶴見区)という場所に、土地の出物が見つかり、持ち家を担保にして銀行から借金をして新工場を建設します。
 工場とひと続きの隣棟には寮が併設され、住み込みで働く若い職工たちを住まわすことにしたのです。工場はその後も順調に受注を伸ばし、銀行からの借金も当初よりも予想外に早く返済できそうな勢いでした。
 すべての歯車が順調に回り始めたのです。

 好事魔多し。
 工場建設から三年目の夏の明け方近く、工場から突如どす黒い噴煙が上がります。その日は、接近しつつあった台風の影響で強風が吹いていました。
 火はまたたくまに工場全体を包み、明けきらぬ空を真っ赤に染めました。
 源三郎は、この日は徹夜明けで、昼過ぎまで久が原の家でゆっくりしていたのですが、突然の電話で横浜の工場が焼けていることを知らされます。どこをどう通って行ったのか、ほとんど記憶がないほど動転していた源三郎でしたが、現場に駆け付けたときは、すでに工場は黒焦げになっていて、焼けただれた柱や、焦げた機械類の間から水蒸気がシューシューと音を立てて空中に吸い込まれていました。

 その光景は、源三郎の目に生涯焼き付いてしまいました。
 野次馬を掻き分けて、工場のすぐ手前まで進み出た源三郎は、その場で消火作業にあたっていた消防士に、自分が工場主であることを告げて、こう訪ねました。
「中はどうなってるんだ」
「けが人は?」
「え、どうなんだ、全員無事なのか?」
 消防士は、まだ詳しいことはわからないと述べたのですが、その場に居合わせた住み込みの工員たちが一様に目を落しているのを見て、不吉なものを感じていました。
 戦争を体験してきた源三郎にとって、工場が焼けてしまったことは、悔しいとはいえ、まだそこから再起すれば何とかなるという気持ちがあったのですが、自分が生まれ故郷から預かってきた子どもたち、つまり住み込みの工員たちの安否が気がかりだったのです。
 できるなら、そのまま灰になった工場の中に飛び込んで、探し出したい気持ちになっていました。
「山村、三里、本郷、内村……」と、煤で真っ黒になった従業員の顔を確認しながら、そこにいるべき人間がいないことが分かるまでに多くの時間を必要とはしませんでした。
「島村はどうした。島村がいないじゃないか」
 島村四郎は、栃木県の農家の四男坊で、年の離れた兄弟からは、「シロ」「シロ」と犬のように可愛がられていました。色白で、痩躯、どこか栃木の山猿とは違った、群れから離れた貴種のような感じだったと、後に源三郎は述懐しています。
 その四郎の姿が見えない。

 そろそろ日が明けようとしている時間の出火であり、工場の住み込み棟には五人の従業員が眠りこけていました。
 三里が異変に気づき、すぐに外に逃げ出そうとして仲間に声をかけようとしたのですが、不思議なことに声が出ないのです。
 ところどころで吹きあがる火の中を、二階から転げ落ちて、その後はよく覚えていないのですが、気が付いたら四つん這いになって工場の敷地に這い出していたということです。山村も本郷も内村も何とか自力で逃げ出すことができたのですが、ぐっすりと眠りこけていた島村が異変に気付いた時には、一酸化炭素中毒で身体が動かなくなっていました。
「ひとりいたぞぉ」という消防士の声で、数人の消防士がまだ煙が上がっている工場の母屋のほうへ入り込み、しばらく焼け跡を掘り返すような作業をした後、水蒸気の立ち上る焼け跡の中から、源三郎の方へ遺体を抱えた消防士が歩んできました。
 源三郎は、自分からも遺体の方へ駈け出して行こうとしたのですが、消防士に右腕を掴まれ、目を真っ赤に腫らしながら推移を見守るほかはありませんでした。
 遺体の確認作業の最中、源三郎は自分の身体から一気に力が抜けていくのを感じ、そのまま跪いてしまいました。
 何か、叫びたかったのですが、声は出ませんでした。
 昭和32年(1957)、8月11日。
 その日が、後年立派に立ち直ったK場精機の防災記念日となりました。

 源三郎の長男であったK場にとっても、この日のことと、その後の出来事は生涯の事件として記憶されることになりました。
 K場は、父親に連れられて、栃木県の島村の実家へと向かったのです。
 その日は、焼け死んだ島村四郎の葬儀が行われることになっていたからです。

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