住ムフムラボ住ムフムラボ

平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第7回 エスのいた風景

 捜索の手がかりを失った親父は、落胆したように「あいつ、どこにいきやがった」と呟いたきり、居間で寝転んでしまいました。
 家の中に、心配と不安の空気が淀んで、いつもよりも空気が重く感じられます。
 母親もわたしも押し黙ったまま、何もすることができずにじっとテレビの画面を眺めていました。
 昨年、新しく入ったテレビのスイッチが入れられたまま、だれがチャンネルを替えるでもなく、ブラウン管には前後の繋がりを失った映像が流れていました。
 しばらく、観るともなく画面の方に目をやっていると、ニュースが始まり、横浜の新築の工場が焼けて、噴煙が上がり、空が赤く染まっている映像が流れていました。
 1人死亡と、ニュースは伝えていました。

 この年(わたしが小学校に入った年だったので、1957年だったはずです)の7月、長崎県の諫早で豪雨があり死者、行方不明が992名を数えました。
 9月にはソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功して、米ソの宇宙開発競争がいよいよ本格的に始まろうとしていました。

 石井さんの「失踪」は7月のむし暑い晩の出来事でした。
 その夜、かなり遅くなってから、石井さんはそっと工場に戻ってきました。
 ガラガラという引き戸の音で親父はすぐにそれを察したようです。
 眠っていた親父はむくりと起き上がり石井さんの部屋のある工場の二階へ駆け上がって行きました。しばらくすると、親父は石井さんの腕を引っ張って降りてきて、居間に座らせました。
 石井さんはただうなだれて、親父の説教を聴いているようでした。ときおり、涙をうかべて、何かを訴えようとしていたようですが、言葉がうまく喋れないために、あーとか、うーという唸り声にしかならないようでした。
 結局そのときは、何があったのかよくわからかなったのですが、あとで、母親がわたしに説明をしてくれました。

 わたしの家から100メートルほど西側に、草が茫々と生い茂っている空き地がありました。空き地の隅には、直径1メートルほどの大きな井戸があって、周囲には鉄条網が張り巡らされていたのですが、ところどころ破られていて、子どもたちにとっては恰好の遊び場になっていたところです。わたしたちはその遊び場を、「ジャングル」と呼んでいましたが、実際には灌木の林で、中央には大きな椎の木があたりを睥睨するように立っていました。椎の木は、7月には鬱蒼と葉を茂らせ、葉陰になっている木の周囲は丸く土が露出してピッチャーマウンドのようになっていました。
 土の上には、椎の実が何粒も転がっていました。
 どんぐりを細くしたような、流線形をした木の実で、これを食べると「どもり」(吃音)になるぞと脅されていたものです。
 石井さんにはじめて会ったとき、椎の実を食べたんだろうかと思ったものです。
 わたしは、友人たちとこの椎の木に登って遊びました。子どもが上るのにちょうどいい木というものがあるのですね。
 この「ジャングル」は、野良犬や野良猫にとっても恰好の棲家であり、石井さんはそのなかの赤毛の犬をよくかわいがっていたそうです。
 毛並みのあまり良くない、耳の垂れた中型の雑種で、名前はエス。これも石井さんが名付けたのですが、以来わたしの家にやってきた4匹の犬はすべて、エスと名付けられることになりました。

 さて、そのエスは最近姿を見せなかったのですが、どうやら具合を悪くして生死の間を彷徨っていたようです。石井さんは毎晩、仕事終わりには「ジャングル」に行って様子を伺い、夕食後には余ったご飯を持って、エスに食べさせていたということでした。
 ところがここ数日、エスはほとんど歩くことが出来なくなっており、石井さんが見に行ったときにはまさに、息を引き取る直前だったようです。
 結局エスは、石井さんによって見とられたわけです。
 石井さんは、しばらくは呆然としていたようですが、墓をつくらなければならないということで、穴を掘りはじめたそうです。
 エスが死んだ直後は、石井さんはそのまま自分が育った埼玉県の村まで、エスの遺体を抱えて行こうと思ったそうです。
 当時、石井さんはまだ中学校を卒業したばかりの青年であり、ホームシックにもなっていたと、母親は言います。というのは、以前にも一度、夜中に工場の二階を飛び出して、あてもなく町を彷徨っていたことがあり、事情を聞いてみると、自分の両親の家にもどりたいと駅に向かったのですが、お金が無くてただ町を彷徨っていたということでした。

 数日後、石井さんのお父さんが工場を訪ねてきてくれました。
 わたしは、自分が想像していた農家のおやじのようなひとではなく、白っぽい背広に身を包み、高級そうな眼鏡をかけた、白髪の紳士だったことに驚きました。
 あとで、母親に見せてもらったのですが、差し出された名刺には、医学博士 石井幸造という文字が大きく印刷されていたのです。その脇には東京大学教授という文字も見えました。
「東大の先生の息子がねぇ」と母親はため息まじりに、「わからないもんだ」と何度も呟いていました。
 東大教授の息子が、場末の町工場に何故住み込みで働くようになったのか。
 地方の名士ともいえる医者の一族の中で、石井さんは障がい者として生まれ、やり場のない孤立を深めていったのかもしれません。野良をうろついていたエスに自分を投影していたのでしょうか。いや、詳しい事情は何もわかりませんが、とにかく、わたしは、石井さんのお父さんは、東大の偉い先生なんだということ、その息子がわたしの親父のやっている町工場にやってきて住み込みで働いているという事実を知り、その落差を理解しかねていたというのが、実際のところです。
 父親の前で何度も頭を下げている紳士は、やがて土産物の饅頭を置いて帰っていきました。
 立派な白髪の紳士が、薄汚れた作業服の父親に頭を下げている様子をみて、わたしは少しだけ父親が偉く見えて誇らしいような心持になっていました。
 同時に、石井さんがなんだか可哀想にもなりました。

 その数日後、わたしはひとりで石井さんが作ったというエスの墓を見にいきました。
 そこには、石組みと段ボールの箱でつくった小さな墓標が作られていました。
 墓は雨でぬれて、ほとんど形を留めてはいませんでしたが、マジックインキで書かれた「エス」の文字は読み取ることが出来ました。
 話はこれだけですが、実はこれで話が終わったわけではありません。
 わたしが、その墓標の前で手を合わせていると、足下に一匹の中型犬がすり寄ってきたのです。そして、わたしがその場を去ろうとすると、なんともうらめしそうな目でわたしをじっと見つめていました。
 そうやってしばらく見つめ合っていたのですが、わたしが家にもどろうとすると一定の間隔を保ちながらついてくるのです。
 そうして、二匹目のエスがわたしの家にやってきたのでした。

「ねぇ、飼っていいでしょ」とわたしは一人で残業をしている親父にせがむと、どういうわけか親父は頑として受け入れようとしません。
 石井さんのことが頭にあったのかもしれません。
「だめだ、そんな野良犬飼ってどうする、うちは工場だぞ」
 と親父は怒ったような顔をしています。
 それでもわたしが執拗にせがんでいると、親父が興奮して出て行けとばかりにエスのお尻を蹴り上げました。
 わたしがエスにしがみつくようにして泣きだすと、わたしからエスを離そうとしてちょっと取っ組み合いみたいな感じになって・・・。
 そのとき、仕事台の横にあったガス台の上のヤカンに身体のどこかが触れて、煮立ったお湯の入ったままヤカンが床に転げ落ちました。
 熱湯がエスの横っ腹にかかってしまい、エスはキャンキャンと吠えながら逃げて行ってしまったのです。
 しばらくすると、エスは戻ってきたのですが、横っ腹をやけどしてしまったようでした。
「しょうがねぇやつだな」と言いながらも、親父が折れてわが家でエスの面倒を見ることになったのです。

 しばらく後に、エスの横っ腹の毛は抜けておちてしまい、直径20センチほどのケロイド状の皮膚がむき出しになってしまいました。
 横っ腹が癒着してしまった不格好の犬は、わたしと石井さんによくなつくようになりました。
 親父はその光景を見ても、一緒になってエスと遊ぶということはありませんでした。夜中に、エスのところにいって、横っ腹に何か薬を塗っていたことを後に母親に教えてもらいました。
 わたしは、エスを認めてもらいたくて、すこしずつ芸を仕込み、エスもお手、お座り、伏せ、ちんちんなどひととおりのことができるようになり、工員たちも自分たちの仲間でもあるかのようにエスをかわいがってくれるようになりました。
 次第にエスは工場の人気者になり、首輪も外されて、いつも工場の一角に座って、工員たちが仕事を終わるのをじっと座って待っているようになりました。
 工場が終われば、工員のだれかがエスを連れ出して、「ジャングル」まで遊びに行きました。
 エスのいる風景は、わたしにとって幸福な幼年時代として記憶されることになりました。

 しかし、わたしたちとエスの幸福な時間は長くは続きませんでした。
 数か月後、エスはあっけなく死んでしまったのです。
 学校から帰るといつものように、犬小屋のエスに挨拶に行ったのですが、エスの姿が見当たりません。
 わたしは、まだ仕事をしている石井さんに、エスがいないけど何かあったのかと尋ねましたが、石井さんが消息を知るはずもありません。

 その日の夕方、不吉な噂が近所から流れてきました。なんでも、池上線の踏切近くで犬が電車に惹かれてバラバラになってしまったというのです。
 まさかとは思ったのですが、わたしが父親にそのことを話すと、父親は黙ったまま頷いていました。父親はすでに知っていたようです。
「かわいそうになぁ」と呟き、わたしを抱きかかえるようにして、現場を見に行ってはいけないよと言いました。
 わたしは、二代目エスの人生を思って、何のためにこいつは生まれてきたのかと、運命の不公平を呪いたい気持ちでした。
 いや、犬だから人生ではありませんが、エスがエスであること、背中に大やけどを負って痛い思いをしながらも、わが家に棲みついてくれたこと、わたしや石井さんと過ごしたつかの間の平安もすぐに不慮の事故が奪ってしまったことが、どうしても納得できませんでした。
 わたしは、こういったことから何かを学んだのでしょうか。
 それはいまだによくはわかりませんが、ひとも犬も生きていくのは考えていたほど易しいものではないということだけは、心に刻みつけたように思います。

 さて、時空のトンネルを抜けて地元に戻ってきたわたしの友人、K場にも事件が待ち受けていました。
 夕方の六時を回った頃でしょうか。久が原の実家のドアを開けたK場は、上り框の奥の茶の間で、電気も付けずに悄然とうなだれている母親に出会うことになります。
「どうしたの」とK場は母親に声をかけましたが、母親は畳の上にぺたりと座ったまましばらく顔を上げようとはしませんでした。
 しばらく、二体の蝋人形のように対峙する時間がながれ、ようやく母親が「焼けちゃったよ」と呟いたのです。
 K場の家に何が起きたのか、ここに詳しく書いておきたいのですが、その話はまた次回にしたいと思います。

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