住ムフムラボ住ムフムラボ

平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第6回 ここを過ぎて幻想の町

<NEW>この回の後編はこちらから

前編 時間の中を迷う

 K場とI坂とわたしの三人は、羽田浦を目指して歩いているつもりでした。
 泪橋(浜川橋)を渡れば、すぐ先は鈴ヶ森の刑場です。鈴ヶ森の刑場跡の火炙り台に掲げられた説明板には「八百屋お七を初め火炙りの処刑者は、皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て足下に薪を積み、縛りつけて処刑された」というおっかない説明がありました。
 現在の刑場跡には、そんな恐ろしい光景が想像できるような雰囲気ではありません。
 わたしたちの歩いていた旧東海道は、この刑場跡のすぐ先で、第一京浜国道(国道六号線)と合流しており、車が頻繁に行き来しています。
 歴史とはある意味で残酷なものです。
 この国道を行き交うドライバーは、誰ひとり生きたまま火炙りにされた受刑者たちのことを考えることはないでしょう。
 彼らにとって、もちろん残酷な処刑は恐怖であったでしょうが、歴史の中でその存在すら忘れ去られてしまうことはさらに恐ろしいことかもしれません。
 わたしたちもまた、町の散歩者として遺跡のひとつを訪ね、そのすぐ後にはきれいに忘れ去って、次の目的地へと向かって歩いているのです。

 刑場跡を通過したとき、中天には太陽がまぶしく輝いていました。
 わたしたちは、そのまま南下して羽田浦まで歩いて行く予定でしたが、平和島を抜け、梅屋敷を越したあたりから周囲の風景が微妙に変化してくるのを感じていました。
 やたらに神社仏閣に行き当たるようになったのです。
 椿神社、円頓寺、栄林寺、稗田神社。
 さきほどまで、晴れていた空の四周から雲が湧きあがってきて少しずつ太陽を包囲しはじめていました。
 そのあたりから先の記憶がどうもはっきりとしないのですが、どうやら道に迷ったようで、そろそろ羽田浦が見えて、最終目的地である東糀谷(ひがしこうじや)の工場の町に着くだろうと踏んでいたのですが、気がつくと広大な空き地に出ていたのです。
 空き地とはいっても、後楽園球場が一つ入ってしまうような広さで、その先にはこんもりとした林があり、林のさらに先には何本もの煙突が佇立していました。
 煙突からは白煙が上がっており、そのまま雲に届くのではないかと思えるほど長く中空に伸びていました。
 どうやら、そこは蒲田駅の西側の操車場あたりらしかったのですが、わたしたちは、その空地の光景に忘れがたいような懐かしさが込み上げてきて、草地を踏み分けて林の先まで小走りに進み出ていきました。
 草原を行く仔馬のギャロップのような感じで、わたしたちは時間を遡行しているような心もちになって空き地の果の雑木林に辿り着きました。

 ずっと昔、わたしたちがまだ小学生だった頃、わたしたちはこの空き地まで遊びにきたことがある。
 ふと、そんなことを考えていると、雑木林の先に小高い丘が見えてきました。
 そこが空き地の終端でした。
 小高い丘に登っていくには、空き地の張り巡らされた鉄条網を越えていかなくてはなりません。
 垂れ込めた雲間から光が差し込んできているのですが、ぽつりぽつりと雨が落ちてきています。
 晴れと、曇りと、雨が一緒になっているような奇妙な空模様となりました。
 わたしたちは、どうしてなのか今でも判然とはしないのですが、この先に、あの小高い丘の上に立てば、わたしたちのほんとうの目的地が見えてくると思い込んでしまっていたようです。
 それには、どうしてもこの鉄条網を越えなければなりません。
 しかし、鉄条網は蜘蛛の巣のように厳重に張り巡らされており、これを乗り越えるには相当の出血を覚悟しなければならないという感じでした。
 このとき、わたしの少し先を歩いていた画家のI坂が大きな声を上げました。
「おい、こんなところにトンネルがあるぜ」

 K場とわたしはその場に走り寄り、周囲をコンクリートで固めてある小さなトンネルが鉄条網の真下に掘られているのを確認しました。
 一体何のためのトンネルなのかと、訝しい気持ちでしたが、このトンネルを潜り抜けるとそこにあれがあることを三人とも分かっていたように思えます。
 このトンネルに異様な興味を示したK場を先頭に、I坂、わたしの順に、四つん這いになって、トンネルの中に入っていきました。
 少し進むとトンネルの中は意外に広いことがわかり、わたしたちは立って歩くことができました。
 トンネルの外で、急に雨音が激しくなっていく様子が感じとれました。
「おい、なんだか寒くねぇか」とK場が言いました。
 トンネルの中には、かすかに冷たい風が通っている様子で、温度も外よりは数度は低いように感じられました。
 トンネルはそれほど長くはなく、かといって短くもない長さで、中ほどまで行くとまるくホール状になった空間があり、その先は二股にわかれていました。
 右側は上り坂になっており、左は下りでした。
 右側は空間が狭くなっており進みにくかったのですが、わたしたちは、迷わず右の道を進みました。
 というのは、右のトンネルの奥には満月のような光が見えていたからです。
 それが出口であることはすぐにわかりました。

 今にして思うことがあります。
 あのとき、もし左側のトンネルを降りて行ったらわたしたちは、どこに辿り着いたのかと。
 わたしたちは、右側のトンネルを進み、すぐに出口に辿り着きました。
 そこは、空き地の終端から見えた小高い丘の上のようでした。
 あまりにあっけないので、なんだか物足りないような気持でした。
 しかし、トンネルを出て、背中を伸ばしているときに、目の前に広がる光景をみたときに、わたしたちは思わず息をのみ、目を見合わせたのです。
 トンネルに入ったときに、外では雨が激しく草地を叩く音が聴こえていたのですが、トンネルを出た場所に立ったわたしたちの視線の先には、時代を半世紀ほど遡ったようななつかしい町が、夕日を浴びてシルエットになって浮かび上がっていました。
 それは間違いなく、わたしたちが生まれ育った工場の町でした。
 草地を駈けているときの、時間を遡行するような感覚が、まだわたしの頭の芯でうずいていました。

後編 プレス機の音

 トンネルのなかで、わたしたちに何かが起きたとしか言いようがありませんが、それが何であるのかはまったく説明の仕様がないのです。
 トンネルを出たときのわたしたちは、それ以前のわたしたちではありませんでした。
 わたしたちは、トンネルの出口で、お互いにそれが当然のことであるかのように手を振って、別れの挨拶をしました。そして、黙ったまま、視線の先にある半世紀前の、それぞれの実家に戻って行ったのです。

 実家までの道中、わたしは自分が過ごしてきた長い時間の中で見てきた光景を、巻き戻しているフィルムを見ているような気持で眺めていました。
 交番のある駅舎を過ぎ、八百屋や魚屋が縁台を並べている商店街を過ぎ、古びた木造の小学校校舎を横切り、細い路地をぬけ、米屋と酒屋が並んでいる先の角を曲がり、とぶ板が並ぶ古い工場の町を歩くことになったのです。
 そこには、見覚えのある二軒続きの工場兼住宅がありました。

 今日は、日曜日なのでしょうか。
 工場はお休みのようでした。
 わたしは、母屋には入らず、そのまま工場のドアを開けて・・・。
 わたしは、半世紀も昔の自分の家の、機械の並んだ工場の中に入りました。
 そのとき、わたしの実家の工場のグラインダー(研削機)の前には、近所の悪ガキたち数人が並んでいました。べえごまを研ぐために、グラインダーが使えることをかれらに知らせたのはわたしでした。

 わたしの実家の工場は、池上線の沿線にありましたが、間近に明電舎の社員アパートがあって、20世帯ほどが暮らしていました。当時の家族形態は、親二人、子二人が一般的でそのアパートにも多くの子どもがいたわけです。その中のひとりで、わたしよりも十歳ほど年上の兄貴分には、押しかけ家庭教師をしてもらったり、文学書を読ませてもらったりと、随分世話になったものです。
 毎朝、毎夕、ちょっとした空き地があれば、べえごま遊びが行われ、子どもたちの歓声が響いていました。バケツにシートをかぶせて、それぞれが自分の持ちゴマをシートの上に回転させる。コマのエッジが触れ合うと、一方はシートの外へとはじき出さされ、相手に捕られてしまいます。
 二人でやるときは「対馬(たいま)!」、三人以上だと「一天下(いってんか)!」という掛け声で、シートの上にお独楽を放ってはじき合いの競技が始まります。
 みなそれぞれ、コマの芯を削って重心を下げ、相手のコマの下手に潜り込むための鋭いエッジを作りますが、鉄製のコマを削るのは一苦労でした。
 以前はべえごまをコンクリートに擦り付けて底端をとがらせていたのですが、グラインダーを使うようになってからは、近所のガキたちがオレもオレもと言って、工場の休日を狙ってわたしのところへやってきていたのです。
 唸りを上げて回転する研削版にべえごまを押し当てて削っている光景は、いまでもわたしの目に焼き付いています。
 時折、削りくずが目に入って、目を赤く腫れあがらせることもありましたね。

 あの空き地から工場に辿り着いた翌日、わたしは工場の二階にある部屋で目覚めました。
 下ではすでにガタン、ガタンというプレス機のリズミカルな音が聴こえていました(わたしは、まだ小学校へ通う子どもでした)。
 工場の二階は、六畳が二間続いた長方形の間取りになっています。
 片方の六畳には、今でいうロフトのようなものが作られており、二層構造になっていました。上の段にわたしと弟の寝床が作られており、下の段は、住み込みで働いていた若者(「わかいし」と母親も父親も呼んでいましたが、あれは若い衆のことだったのでしょうね)の寝床になっていました。
 もう一方の六畳間には、テレビが置かれており、毎週金曜日の夜はプロレス中継を見るために工員たちと近所の人たちがここに押し寄せてきました。

 住み込みの「わかいし」ふたりは、ふたりとも聾唖者で、耳が聞こえないようでした。声は出るのですが、明確な言葉にはならず、時折「うっ、うっ」という音が口から洩れ出るばかりでした。
 昭和三十年代の初頭は、極端な人手不足で、わたしの父親は、郷里の聾学校に勤務していた知り合いの先生に、工員を送ってくれるように頼んでいたようです。そしてやってきたのが、石井さんと、風間さんという二人の聾唖の若者だったのです。
 二人とも高校を卒業してそのまますぐに、実家の工場に就職してきました。まだあどけなさが残る、十八歳でした。それでも、小学生の私から見れば、随分大人に見えたものです。風間さんは、精悍な四角い顔つきで、どことなく映画俳優のような雰囲気を持っていました。一方の石井さんは天然パーマで色白で、ロカビリーの歌手のようでした。
 ふたりとも、わたしと弟をよくかわいがってくれて、とくに風間さんは絵がうまく、わたしが描くマンガの主人公の顔を手直ししてくれたり、図工の宿題を手伝ってくれたりしたものでした。
 ある晩、わたしの父親が「風間、ちょっと来い」と怒ったような顔で母屋の方へ引っ張っていきました。なにが起きたのか、最初はわかりませんでしたが、後で、父親と母親の会話を聞いて、その理由がのみこめました。
 風間さんは、工場の機械を使って、刃渡り15センチほどの短刀を作っており、それを親父が見つけて、「いったい、何のためにこんなものを作っているんだ」と詰問したのです。
「ちょっと目はなすと、こんなことやっていやがって」と親父は嘆きながら、「俺はお前に人様を傷つけるような道具こさえるために、仕込んでいるんじゃねぇんだぞ」と言ったそうです。
 風間さんは、親父が何を怒っているのかよく聞き取れないままにうなだれていたそうですが、弁解しようにもうまくしゃべることができずに、涙をこらえていました。
 親父も、銀色に光る短刀が工場の隅に置かれていたのに仰天して、これは何か悪いことに使うのではないかと早合点したようでした。
 ほんとうは、風間さんはわたしの工作の手伝いのために、ナイフを手作りしていてくれたのですが、コミュニケーションがうまくいかずに、誤解されて一方的に叱られてしまったのでした。

 あの頃は毎日何かしら事件が起きていたような気がします。
 風間さんの騒動の次は、石井さんでした。
 ある晩、石井さんが家を出たきり、夕食の時間にも姿を見せず、どこかへ消えてしまったのです。
 一体何があったのでしょうか。
 父親はあちこち探し回ったのですが見つからず、怒ったような顔をして戻ってきました。
 石井さんは何故、家を出て行ってしまったのか。そして、それから何があったのか。
 この顛末はまた次回にお話ししたいと思います。

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