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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第5回 泪橋を渡る

 旧東海道の蕎麦屋を出たわたしたち三人は、当初なんとなく決めていた目的地に向かって歩き出しました。なんとなく決めていた目的地というのは、以前テレビで放映された小関智弘さんの小説の舞台になった、羽田空港にほど近いところにある工場の町でした。
 旋盤のモーターが回転する音が響き、焼き入れした鉄を叩く槌音がリズムを刻んでいる錆色の町です。
 わたしたち、つまりK場も、I坂も、わたしも、その羽田に程近い町と似たような工場の町で生まれ育ったのですが、わたしたちの町は、今では工場は取り潰されて、跡地にはマンションや住宅が立ち並ぶ住宅街に変ってしまっています。

 今回の三人旅には、わたしたちの頭の中に残っている、昭和三十年代の「幻想の町」をもう一度訪ねてみるという目的がありました。
 子どもの時に目にした光景というものは、還暦を過ぎても頭の中に焼き付けられており、年経るごとにその輪郭はぼやけたものになってはいるのですが、それがまた強烈なノスタルジーを掻き立てるものなのですね。
 たぶんそれは、もう失われてしまって二度と再現できないものであるからなのでしょう。
 時代が進歩するということは、それはそれで便利になって快適な生活を支えてくれてありがたいのですが、同時に同じ数だけの、かけがいのない風景を失うということでもあります。
 それはある意味では当たり前のことなのですが、失われたものの本当の意味が身体の中で納得できるためには、自分の身体の変化が身に染みるほどの長い時間が必要です。
 失われた風景は、たとえばこの道の先にある小さな入り江に、行き場を失って漂流している遺失物のようなものです。
 わたしの頭の中に、今はもう何処にも存在しない風景を切り取った写真が、行き場を失ったまま、ぼろぼろになって漂流しているのです。
 それらの漂流物は、わたしにとっては、長い間忘れ去られ、ほとんど顧みられることのなかったものですが、両親の死後、わたしはそれらを、もう一度召喚しなければならないと思うようになりました。
 そのひとつでも、拾い出してセーターの袖口で表面のごみをふき取って、そこに何が映りこんでいたのかを確認してみたい。
 そんな思いを、K場やI坂と共有していました。

 目的地は決めていたのですが、はっきりとした目印があるわけではありません。地図を広げて丸で囲んで、だいたいこのあたりではないかという見当をつけていただけです。
 わたしたちは、その「なんとなく」に向かって、歩いているうちに目に入ってくる風景に興味をひかれて、あちらこちらで引っかかっては路地裏に迷い込んだり、路面店を覗いたりしました。
 わたしたちが何にひっかかり、何がわたしたちに語りかけてくるのか、最初は自分たちでもよくはわかりませんでした。
 いや、そんなことは、わかりきっていると思っていたのですが、実際に古い街道を歩いてみると、思わぬものがわたしたちに語りかけてくるということがあることに気がついたのです。

 わたしたちにとって、この大井町周辺の町はそれほど馴染のある場所ではありません。
 蒲田駅と五反田駅を結ぶ池上線沿線に住む者にとっては、この旧東海道までの間には、第二京浜国道を横切って大森山王の丘を越え、さらに第一京浜国道を横切らないと辿り着かない場所なのです。
 それは隣町であり、「わたしたちは、隣町のことを何もしらない」ということで結成したわたしたち「隣町探偵団」の絶好の探偵場所だったのです。
 あ、「隣町探偵団」のことはまだお話していなかったですね。
 K場と、I坂、そしてわたしは、還暦を過ぎて再会したときに、もう一度中学生だったときに自分たちが過ごした町や、そのときはまだ遥か遠いところに在った隣の町について調べ直してみようと話し合ったのでした。
 それは、お互いに両親を亡くしたわたしたちには、自分たちはどんな町で育ち、その町で親たちはどんな生活を営んでいたのか、そして、自分たちは「誰」によって育てられたのかを知ることで、両親を供養したいという気持ちがあったのです。
 手始めに、わたしたちがよく利用した最寄駅の隣の駅前から伸びている商店街を歩いてみました。ほとんどの店舗がすでに入れ替わっており、わたしたちが子どもの頃から知っている店はごくわずかしか残っていませんでした。
 それ以上にショックだったのは、商店街のあちこちがシャッターで閉ざされ、町自体がほとんど死にかけているということでした。
 町が死ぬということがあるのか。
 日本中のいたるところで、死にかけている町があることに気付いたのは、ほんの最近のことです。
 
 さて、今回の大井町駅から、羽田浦までの町歩きは、わたしたちのプロジェクトの第2弾ということで計画したものでした。
 それまでにわたしたちは、このあたりに縁のある映画を観て、そこに映りこんでいる昭和三十年代の記憶の欠片を探して歩くつもりでした。
 しかし、実際に歩いてみると、そんなささやかなノスタルジーを遥かに超えた、長い時間の堆積、町の歴史というものに突き当たることになりました。

 それはまるで、重量を持った空気の層の中に迷い込むような体験でした。
 旧東海道は、並行して走る国道16号線(第一京浜国道)の裏街道といった趣で、人通りも多くはなく、今も残る木造の古い家並みが往時の東海道の雰囲気をわずかに残しています。歩きはじめてすぐに、わたしは奇妙な感覚に囚われました。以前、思わぬものがわたしたちに語りかけてくると言いましたが、その思わぬものとは目には見えてはいないけれど確かに存在しているものでした。
 この辺りには、何本かの川が流れてそれがうねりながら地形を形づくり、東京湾へと注ぎ込んでいます。多摩川はその代表的な川ですが、呑川や、六郷用水路、立会川といった小さな川に沿って町が出来ており、今ではその多くは暗渠になっています。わずかに残された橋柱が、そこに水辺の生活があったことを伝えてくれるのです。
 その暗渠の下に隠されている水の流れが、わたしたちに何かを囁きかけてきている。

 わたしたちが渡った橋の下にも水は流れていました。大井競馬場に近い勝島運河に注ぎ込んでいる立会川にかかる、古い小さな橋は、以前は泪橋(なみだばし)と呼ばれていました。
 そういえば、わたしが大好きだった漫画『あしたのジョー』のなかで、呑んだくれの爺さんである丹下段平が「丹下拳闘クラブ」をつくったのが、泪橋の下でした。
 あちらの泪橋は、山谷地区(荒川区南千住)にあって、こちらのものとは別物なのですが、そこにはひとつの共通点があります。
 泪橋という名前が示す通り、泪無しでは渡れない因縁の橋であるという共通点。どちらも、その橋の先にはお仕置き場、つまりは刑場があったのですよ。
 ですから、これらの橋は、この世との最後の別れの橋であり、ここを過ぎてもはや娑婆には縁のない無縁の世界へと旅立つ分かれ目の場所だったのです。

 荒川区の方の刑場は、南部藩の臣である相馬大作が処刑された場所で、その後、回向院が建立されて橋本左内や吉田松陰といった革命家が埋葬されることになりました。
 一方こちらの泪橋の先にあるのは、鈴ヶ森刑場で丸橋忠弥をはじめ、平井権八、八百屋お七、白木屋お駒といった歴史的人物が処刑されたところです。
 江戸期の浪人たちも随分見せしめのために処刑されたようです。
 江戸期、この辺りは、海に近い閑散とした寂しいところで、追いはぎや山賊が通行人を狙うには絶好の場所だったようです。
 ここに刑場をつくってさらし首にしたのは、見せしめの意味もあったのでしょう。とにかく、この鈴ヶ森の刑場で、磔、火炙りが連日のように行われていたのです。

 その鈴ヶ森刑場へ引連れられた罪人が最後に渡るのがこの泪橋です。現在は浜川橋と呼ばれており、古びた石の橋です。今は誰も、この橋が娑婆のわかれという因縁の橋だということに気がつきません。あたりまえの、小さな、古びた橋に過ぎません。
 わたしたちは、橋上の人となりました。

  彼方の岸をのぞみながら
  澄みきった空の橋上の人よ、
  汗と油の構築のうえに、
  よごれた幻の都市が聳えている。
    (鮎川信夫『橋上の人』より)

 しかし、その日の空はどんよりとした雲が厚い層をなしていました。
 わたしたちは、すぐ先の刑場を抜けて、南下し、汗と油によごれた幻の都市を目指したのです。

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