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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第32回 路地裏映画館14 映画の中の「詩」、あるいは詩の中の「映画」―『パターソン』

幾層にも重ねられた詩的構造
『パターソン』は2016年に米国で公開されたジム・ジャームッシュ監督による美しい作品である(日本公開は2017年)。

 美しいと言う言葉は、芸術作品を形容するにせよ、自然を形容するにせよ、ほとんど何も語っていないような、使い古された陳腐な形容詞かもしれないが、この作品について一言で語ろうとするなら、やはり「美しい」と言うのが一番ぴったりする。華美というのではない。秀麗というのでもない。バスの運転席から見える町の光景、都市の中の渓谷に流れ落ちる滝、主人公の心と彼が紡ぎ出す言葉。そのすべてが、静かで美しいのである。
 そこには、特別なものは何一つない。誰もが、日々の暮らしの中で目にしているものばかりである。家から仕事場までの街路。そこで出会う人々。寂れてはいないが賑やかというわけでもないマーケット通り。オハイオブルーチップマッチの文字がデザインされたマッチ箱。特別なものが何もないが、そこには語るに足る何かがあり、それらを肯定できる主人公がいる。

 映画の舞台はニュージャージー州パターソン。アメリカではどこにでもありそうな中堅の産業都市といったところ。主演の役名は、都市名と同じでパターソン。こちらもありふれた名前である。職業はバスの運転手。そして、毎日バスを発車させる前に、運転席で秘密のノートに熱心に何か書き込んでいる。
 主人公パターソンを演じているのは、アダム・ドライバー。偶然かもしれないが、こちらにもドライバー(運転手)が名前の中に隠れている。映画は、月曜日の朝、同じベッドで寝ていた妻の「ステキな夢を見たわ。私たち子供が二人いるの。双子よ」という言葉で始まる。パターソンは、職場への道すがら双子の老人、双子らしい子供の乗客を乗せる。何か物語が始まりそうだが、何も始まらない。

 この作品の背景にあるのは、映画の中でも何度か名前の出てくる20世紀アメリカを代表するモダニズム詩人であるウイリアム・カーロス・ウイリアムズの『パターソン』という作品である。とはいえ、わたしはこの作品の邦訳を持っていない。と言うのも、アマゾンで2万円近くのプレミア価格になっているからである。ちょっと手が出ない。

 そんなわけで、邦訳本は諦めて、原書を注文したのだがなかなか届かない。いつになるか分からないので、原書を確認しないまま書く他はない。

 映画評論家の町山智浩さんの解説によれば、この詩の冒頭部分で描写されているパターソンの町の丘陵と川の作り出す光景が、映画の冒頭部分でベッドの上に横たわるパターソンとその妻ローラの寝姿が作っている光景のダブルイメージになっているということである。

 これは、ジェイムズ・ジョイスの超難解小説『フィネガンズ・ウェイク』の書き出しの部分が、ダブリンの光景描写とダブルイメージになっているのを想起させる。

riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend of
bay, brings us back by a commodius vicus of recirculation back
to Howth Castle and Environs.

川走、イブとアダム礼盃亭を過ぎ、く寝る岸辺から輪ん曲する湾へ、今も度失せぬ巡り路を媚行し、巡り戻るは栄地四囲委蛇たるホウス城とその周円。 (柳瀬尚紀 訳)

 のくだりは、あまりにも奇妙な造語の氾濫する文章だが、そのままダブリンの光景描写にもなっている。原文の表層の意味だけを辿ればこうなる。リフィー川はくねりながら、アダム教会、イブ教会を過ぎて、彎曲するダブリン湾に注ぎ込む。

 ジョイスの原文は、各単語がダブルミーニング、トリプルミーニングになっているので、翻訳は不可能とされてきたわけだが、ここでは柳瀬訳をそのまま掲載した。原文のHowth Castle and Environsの頭文字H C Eは、そのままHere Comes Everybody(ここに来るすべての人)の暗喩であり、キリストを暗示するこの小説の主人公でもあり、ダブリンの街そのものでもある。
 タイトルのFinnegans Wake自体が、アイルランドに古くから伝わる民間伝承(通夜の様子を歌っている)であると同時に、Wake には、通夜、覚醒、航跡のトリプルミーニングが隠されている。こう書いていてもほとんど意味が通じないほど、この作品には、入り組んだ構造的な仕掛けが溢れている。こうした、複層的な構造は小説ではジョイス以外には皆無だが、詩の世界では珍しいことではない。
『フィネガンズ・ウェイク』は、小説の形を借りた詩であるとも読める。T.S.エリオットの『荒地』が、聖杯伝説の形を借りた詩であるように。

 さて、平川は『フィネガンズ・ウェイク』なんていう超難解な小説を読んでいるのかと疑われそうだが、大学に入った頃の最初の一般教養の授業が、このテキストの解説だった。わたしは、他の授業は全てサボったが(当然それで留年となる)、この授業だけは休まず受講した。そして、自分が理工学部にはどうやら向いておらず、文学部へ行くべきではなかろうかと、教授に相談を持ちかけたのであった。それほど、このジョイスの冒険的な試みに魅了されてしまったということだろう。

 閑話休題。映画はパターソンの月曜日の朝の起床から始まり、ほとんど変わり映えのしない1週間が淡々と描写されてゆく。朝6時ごろ目覚め、妻(同棲の恋人かもしれない)にキスをし、まずそうなシリアルを食べ、ランチボックスを手に職場へ向かう。昼休みは滝の見える公園で妻が作ってくれたお弁当を食べる。登場人物は、パターソン、その妻ローラ、そして彼らの飼い犬であるブルドッグのマーヴィン。それで全て。バスの乗客や、バーの常連客や、ランドリーで行き合ったラッパーなどは、パターソンという町の風景に嵌め込まれたもう一つの風景に過ぎない。

 バスの故障と、行きつけのバーでの恋愛絡みのちょっとした出来事以外は、事件というようなものは何も起こらない。この映画には、いわゆるドラマツルギーも無ければ、ストーリーすらないと言って良い。それにもかかわらず、いや、それ故にこそ、この映画には何かがある。わたしの好きな言葉で言えばsomething for nothing (何かのためではない特別なこと)があるのだ。人の生涯だって同じである。映画のような劇的なことが起こることは滅多にない。退屈といえば退屈であり、平凡といえば平凡な生涯だったと思いながら死んでゆく。ではそれが意味のないことかと問われれば、そんなことはないと誰もが言うだろう。そこには何かのためではない、特別なことがある。

 パターソンにとって「詩」こそ、何かのためではない、特別なものなのである。そして、それは、パターソンにとってだけではなく、この映画を観ている観客にとっても同じだ。そう観客に思わせることができれば、この映画作者の本懐は遂げられたということになる。

何のために、パターソンは毎日、詩を書いているのか
 パターソンは詩を書いているバス運転手である。バス運転手をしている詩人とも言えようが、かれは職業詩人というわけではない。そもそも、職業詩人というものが成立するのかどうか。日本においても、詩だけを書いて生計を立てている詩人はほとんど皆無なのではないだろうか。パターソンの場合には、自らノートに記している詩を発表するというつもりもないようである。彼の作品の読者は、パターソン本人と、恋人のローラだけである。
 
 映画の中で使われているパターソンの詩、そしてパターソンが職場から帰宅する途中で出会った少女の詩は、すべて2014年にウイリアム・カーロス・ウイリアムズ賞を受賞したロン・バジェットという詩人の作品であるらしい。残念ながら、わたしはロン・バジェットの作品を読んだことがない。邦訳もされていないようである。映画の中で、仕事終わりの帰り道、パターソンは詩を書いている少女と出会う。「詩を書いているの、聞きたい?」と少女がいい、パターソンが頷くと少女は詩を読み始める。

Water falls
from the bright air
It falls like hair

Falling across a young girl’s shoulders
Water falls

Making pools in the asfalt
Dirty mirrors with clouds and buildings inside


明るい空気の中から水が落ちる
髪の毛のように
水は落ちる 少女の肩越しに
アスファルトの上に水たまりを作る
水たまりには雲とビルディングが映し出される

 いい詩である。これが、ロン・バジェットである。
ロン・バジェットもまた、本職は教師であり、職業詩人ではない。

 パターソンは、バスの運転手だが、かれの周囲には、まるで空気のように、詩が満ちている。少女の場合も、コインランドリーで行き合うラッパーも、バスのフェンダーミラーに映る乗客たちの言葉も、パターソンにとっては詩であり、詩の題材なのだ。ある時は、自ら詩の中に入り込み、ある時は観察者として詩の外部から詩を眺めている。パターソンが詩を書く理由は、発表するためでもないし、詩人として認められたいからでもないようだ。彼は、自分を包み込んでいる空気を吸い込むように、詩の言葉を吸い込み、白紙の上にその言葉を吐き出しているだけなのだ。

映画の中の唯一の事件
 パターソンの詩の唯一の読者である妻(あるいは恋人)のローラは、詩を発表することをすすめる。だって、それはとても良い詩だからと彼女は言う。気の無い返事をするパターソンに、コピーだけでも取っておいた方が良いと念を押す。ローラは詩人ではないが、毎日カーテンや壁に図柄をペイントしている。ローラもまた名前のない芸術家であり、発表のあてのない「作品」を作り続けている。

 ローラはパンケーキを焼く。町の集まりで、パンケーキを販売する。それが、この映画の中で現実的なものの全てである。パターソンが毎日職場に通い、バスを運転するのも同じだ。彼らにとって、現実とはパンケーキを焼いたり、バスを運転することであるのだが、現実と同じぐらい、いやそれ以上に詩を書いたり、ペイントしたりする時間が重要なのだ。彼らの人生を詩やペイントが彩り、詩やペイントの中に、彼らの人生が息づいている。そのように、映画の中に詩があり、詩の中にこの映画は息づいているのである。

 ある日、パターソンとローラが不在の時、愛犬のマーヴィンがパターソンの詩が書かれたノートをバラバラに食いちぎってしまう。パターソンの無名の詩が、あっけなく消えてしまう瞬間である。パターソンは落胆し、ローラは慰めるが、詩は戻ってはこない。そして、パターソンの判子で押したような日常が続いてゆく。

 詩を失ったパターソンは、いつものように滝の見える公園で町の景色を眺めている。そこに、日本人の詩人が声をかけてくる。詩を通じて、見ず知らずの二人の中にちょっとした交流が生まれる。ささやかだが、とても意味のある交流である。

 別れ際に、日本人の詩人はパターソンにプレゼントを手渡す。それは、白紙のノートである。二人が分かれるところで映画は終わる。

 1週間が終わり、次の週が始まる時、パターソンはその白紙のノートにまた、詩を書き始めるだろう。

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