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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第26回 路地裏映画館⑧心やさしい奪還の物語『こんばんは』

『Workers 被災地に起つ』をいう映画の推薦文を頼まれ、[ポレポレ東中野]での上映では監督の森康行監督との舞台対談を行った。

 映画は、東日本大震災から6年を経た大槌、気仙沼、亘理(わたり)、登米(とめ)といった町で、困っている人々に寄り添いながら業を起こしてゆく人々の姿を描いている。
“Workers”とは、日本労働者協同組合(ワーカーズコープ)のことで、全国の失業者の仕事づくりを目的として80年代に結成された組合である。

 労働者による生産共同体は、世界的な運動で、Workersもその前身組織が80年代初頭のイタリアの労働組合の運動に学んで、日本での活動を確立してきた。

 Workersという組織には、ちょっとわかりにくいところもあるのだが、労働者自身が困っている人々を組織化し、生産活動を通して自立するまで支援してゆくオルガナイザーで、全国に広がる組織の売り上げは年間で500億円にものぼる。
 ワーカーズコープの他にも、ワーカーズ・コレクティブや、関西よつ葉連絡会といった協同組合形式の生産共同体がある。日本生活協同組合、農協といった従来からの組織も、株主利益を最大化することを目論む株式会社とは異なる生産共同体である。

わたしは、右肩上がりの時代背景が変化し、株式会社を存立させてゆくための必要条件が失われた定常的な成熟社会において、株式会社に代わり得る働き方として生産共同体、消費者共同体というあり方に注目してきた。

 映画では、被災地で生き延びていくよすがを失った人々が、介護施設を運営し、過疎の村を立て直し、地域の生活拠点を設立する作業を通して自立してゆくまでの姿が描き出されている。Workersとは、こうした運動のオルガナイザーの役割を果たしている。

「一人ひとりの願いと困った」から始まる物語こそWorkers設立の根拠でもあった。
 失われてみなければ分からないものがある。
 失われたものは奪還されねばならない。


 ポレポレ東中野での上映後に監督と対談をした時、森監督は開口一番で、わたしの著作である『俺に似たひと』の熱心な読者であったことを話してくれた。
 よくよく話をしていたら、森康行監督はわたしと同じ1950年生まれで、育った境遇もよく似ていることが判明した。それで一気に親しくなり、わたしはこの監督の他の作品も観たい気持ちになったのである。

 後日、一本のDVDが監督から届いた。
 それが、これからお話しする『こんばんは』であった。
 しばらくは、オフィスのデスクの上にほっぽらかしになっていたのだが、[隣町珈琲]で森監督との対談をセットさせていたので、その前にちょっと観てみようかということになった。
『こんばんは』というタイトルは、この映画が「夜間中学」を舞台にしたドキュメンタリーだからである。

「夜間中学」?
 その存在について、知っている人は多くはないだろう。わたしもまた「夜間中学」については、その存在すら知らなかった。
「夜間高校」ならわたしが卒業した都立小山台高校にもあった。

 わたしたちが下校する時間になると、夜間の学生たちがポツリポツリと登校してくる。確か、定時制高校と呼ばれていたが、当時のわたしは、それがどのようなもので、どんな授業が行われているのかについて、特段の関心を払うことはなかった。

 当時のわたしの高校生活は、水泳部のレギュラー選手として、日々ヘドが出るほどの厳しい練習に明け暮れていた。運動に没頭するというのは、素晴らしいことでもあるのだが、その分、社会に対する関心は薄いものにならざるを得なかった。その事情は、今日でもあまり変わらないのではないかと思われる。

「夜間中学」の話に戻ろう。「夜間中学」は、「夜間高校」とは全く違うものだ。 
 そもそも、中学校は、義務教育であり、わたしたちの周囲で中学校に行かなかったものに出会うのは、難しかった。病気であるとか、外国人であるとか、何か特別な事情がない限り、義務教育である小中学校はほとんどが卒業していたからである。仮に、不登校というものがあったとしても、クラスメートの協力や、担任の努力によって、何とか形だけでも卒業まで持っていくのがほとんどだったと思う。

「夜間中学」とはどのようなものなのか。
「夜間中学」のクラスは、「こんばんは」で始まる。これが、タイトルの由来である。
 映画の最初に、プレス加工会社を経営している初老の男が出てくる。戦後、工場を創業し、社員を抱えるまで成長させた立派な市民社会のフルメンバーである。

 かれは、毎日2時間かけて、工場のある地方都市から、この学校へ通ってくる。
 かれはなぜ、どのようにして「夜間中学」と出会うことになったのだろうか。
 あるとき、偶然に墨田区にある中学校の正門の近くに掲げてある「夜間中学」の看板を見る。それは、義務教育を受けることができなかった人たちに、就学の機会を提供する「夜間中学」の生徒募集のお知らせだった。そこには、お金の心配もいらない旨が記されていた。かれは、その学校の前を通り過ぎる度に、看板を凝視し、思案していた。

 戦後のどさくさの中で、かれは就学の機会を失った。家族を養うためには、学校へ行く余裕はなかったのかもしれない。
 それゆえ、かれには、文字の読み書きができないというハンデがあったのだ。
 喋るだけなら、何の問題もなかったが、文字を書けないのは何かと不便であった。病院の受付で、住所と名前を書く書類の前で往生してしまう。だから、病院へ行くときは、いつも指に包帯を巻き、看護師に、代筆を頼んでいた。
 読み書きが不自由であるということは、単に生活が不便というにとどまらない。
 人間として生きていく上で、言い知れない喪失感や、劣等感に苛まれることもあっただろう。


 映画が公開されたのは2003年。この時点で日本には、義務教育未修了者が170万人以上もいたのである。今でもその数はあまり変わらないのかもしれない。
「夜間中学」は、年齢も、国籍も、境遇も異なる人々に、読み書きを教える場所である。
 都内には8校(当時)しかない。
 ひとクラスは10人程度。
 その半分以上は、老人である。

 それ以外は、紛争地から逃れて日本にやってきた外国人や、出稼ぎ労働者として日本で働く中国人、そして、在日朝鮮人など。
 戦後間もない頃には、就学の機会を失った人々がかなりの数に上った。自分たちが文盲であることをカムアウトしないままに死んでいった人々も多かっただろう。

 わたしは自分の不明を恥じた。
 そういうことがあることに、これまで想いを馳せることができていなかった。
 わたしたちの父母の世代には、尋常小学校しか出ていないものがかなりの数いた。わたしの母もその一人であったかもしれない。比較的裕福な家庭に生まれ育ったが、身体が弱かった母は、満足に学校に行けなかった。

 読み書きはできたが、ローマ字を書くことも、読むことも覚束なかった。漢字も、難しいものを書いたり読んだりするのは難しかったのかもしれない。
 初等教育を受けていなければ、母語すら自由に操れないということがあるということを今更ながら思い知った。

 母も含めて、多くの日本人にとって、義務教育を修業していなかったことは、恥ずべきことではない。当然のことだ。母語教育は、国家がやらなければならない義務である。義務教育とは、国民一人一人がそれを修業することが義務であるという以上に、国家がそのフルメンバーに対して与えなければならない義務なのだ。
 
 その義務が完全に履行されているとは言えなかった。
 中学校に行かない理由は様々だっただろう。しかし、中学校を出ていないからといって、判断力や、生活力において、大学出の息子や娘の世代に劣るところがないということも当然のことである。

 言葉を読み書きできなくとも生きてはいける。
 生活力や、判断力において、劣ることはないどころか、ハンデを乗り越えてきた強さの方が目だったかもしれない。

 しかし、わたしがそうであるように、多くの修学者が当然と思っていることの機会を欠いたままで生きていることは、単に読み書きの能力がもたらす恩恵を受けることができないこと以上の喪失感を抱え込んで生きていくことを意味していた。
 ケースは「夜間中学」とは異なるが、わたしの父親も、師範学校へ入学したが、結核によって途中で学びを断念したという経験をしている。映画を見ている間、プレス機械工の社長の姿に、わたしの死んだ父親がダブって見えた。わたしの父親も、師範学校を退校したのちに、プレス職人の道を選んだからである。
 
 繰り返すがわたしたちの父母の世代、戦中派にはそうした境遇をくぐり抜けてきたものが少なからずいた。
 映画の中では、同じ思いを抱いた老人や外国人たちが、助け合い、励まし合いながら、日本語の習得を楽しんでいる様子が描かれていた。
 全日制の教師を辞めた教師たちの教え方は、感動的なほど素晴らしいものだった。

 無理をさせない。強要しない。急がない。生徒たちが自然に学ぶことの楽しさを獲得してゆくまで辛抱強く、寄り添いながら、時に突き放しながら、見守っている。
 それは、微笑ましい光景であると同時に、学びとは何か、学びによって人は何と出会うのかをはっきりと映し出していた。
 あらかじめ失われた権利は、取り戻されねばならない。
 そのために、欠けたものを、少しずつ拾い集める。
 その光景を見ていて、わたしは胸が熱くなった。


 映画では、引きこもりで就学の機会を失った少年も登場する。
 クラスの大人たちは、授業が終われば、夕食を共にする。しかし、少年はクラスメートと給食を食べることなく、自宅へ直帰してしまう。
 かれを支援するために、話しかけてもうつむいているだけで返事が返ってくることはない。
 先生に指名されても、朗読をしようとしない。
先生は、叱ることもなく、待っている。
 周囲の大人たちは、かれが話そうとしないことに対して、咎め立てをすることはない。
 みんなが参加する文化祭にも、参加しようとはしない。

 それでも、先生も、他のクラスメイトも、この少年を気にかけ、話しかける。
 少年は、沈黙を押し通しながらも、学校にだけは毎日通ってきた。
 ある日、朗読の時間に、かれは声に出して読み始める。
 その日の日記に、かれは自分が声を出して本を読んだことを、人生で最も嬉しかったことだったと記した。
 次の日から、かれの表情が変化する。
 笑顔が戻ってきたのである。
 かれは、自ら発声することで、これまで失ってきた何かを奪還したのである。

 この映画は、母語を読み書きできない人々、日本に暮らしながら、日本語がうまく使えない外国人、そして全日制の教育からスピンアウトした先生たちが、お互いの困りごとを協力しながら社会に順応してゆくまでの物語である。

「われわれはお互いに愛し合わなければならない。しからずんば 死あるのみ」というW・H オーデンの詩の一節が頭に浮かぶ。
「われわれはお互いに助け合わなければならない。然らずんば・・・」
 映画の中で、困っている人を助けているのは、同じように困っている人たちである。

 そして、その困っている人たちの間に、幾つもの小さな奇跡が生まれるのをわたしたちは目撃することになる。
 わたしは、遅ればせながらではあったが、『こんばんは』を見ることができて本当に良かったと思う。
 この地味な作品は、撮影時、資金難に苦しんだが、文科省の補助金によって、ようやく完成し、2003年のキネマ旬報、文化映画部門のベスト1を獲得した。

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