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平川克美

平川克美/立教大学大学院客員教授

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第25回 路地裏映画館⑦ 『マークスの山』『照柿』『レディ・ジョーカー』……合田雄一郎を探して

主人公の造形
 ミステリー作品の成否は、作家が造形した探偵や警部の魅力にかかっている。
 『ロング・グッドバイ』や『さらば愛しき女よ』が、乾いた詩情とでもいうべき雰囲気を醸し出しているのはいうまでもなく、レイモンド・チャンドラーが造形したフィリップ・マーロウという探偵の心理の底に流れている深い断念だろう。

 マーロウは自分の美学を守るために、世俗の様々な欲望を断念し、群れること、情に流されることを避け続けている一匹オオカミである。そして、それだからこそ世間の欺瞞がよく見える。マーロウは、行きつけのバーのカウンターに座って、探偵である前に、一個の文明批評家であるかのように振舞うのである。現実にはこのような人間は存在し得ないだろう。

 タフで知的、己れの美学に忠実で、極めて倫理的であると同時に、非人情という観念が作り出したモデルを小説の世界の中で、血の通った人物として描き出す。弱さや傷つきやすさを見せまいとする防御本能が作り出した精神の甲羅のようなものを、リアリティを失わずに描き出せるかどうかが、チャンドラーの作家としての技であり芸であった。

『ドラゴン・タトゥーの女』(2011年/デヴィッド・フィンチャー監督)のパンクハッカー、リスベット・サランデルも忘れられない強い印象を与えるキャラクターであった。映画の中で、最初に彼女にあったとき、誰もが「なんなんだよ、この女」と訝しく感じたに違いない。
 しかし、物語が進むに連れて、彼女の異形の風体が痛々しく、同時に彼女の内面に流れている繊細で透明な感情に心を捉えられてしまうことになる。このキャラクターを造形したことで、スティーグ・ラーソンは世界的な人気作家になったのである。

 こうした、海外の作家による主人公の稀有の造形には目を瞠るものがある。本邦のミステリーはどうか。ハードボイルドなら和風マーロウだったりダシール・ハメットが造形した私立探偵サム・スペード、あるいは謎解きの天才型ならポワロやホームズだったり、警察ものならメグレ警視の亜流のように思えてしまうのはわたしだけだろうか。

 わたしは、ミステリーに特に詳しいわけでもないし、あまたの本を読破してきたわけでもないので、日本のミステリーの中にも魅力的で独創的な人物はたくさん存在しており、ただわたしが知らないだけなのかもしれない。多分そうなのだろう。

 ただ、わたしが読み得た限りの作品の中では、なかなかこれはと思えるような人物に出会ったことがないというのも事実である。
 ただ一人の極めて稀有でありながら、強い吸引力を持つ人物を除いて。
 そのただ一人とは、高村薫が造形した合田雄一郎警部補である。

何かに突き動かされている人物
 合田雄一郎警部補は、高村薫渾身の造形である。
 合田はいつも、何かに突き動かされているように事件にのめり込んでいく。組織の中にあって、あたかも、自ら破滅を願望するような、アンバランスな潔癖さがある。スーツにスニーカー。鋭い目つきと頼りなさげな笑顔。このアンビバレンツな人物を高村は、「日陰の石」と形容した。

 おそらくは、それがどこから湧いてくるのか自分でもよくわからない熱にうなされるようにして、事件の真相へ猛進してゆく。いつも、何かに突き動かされているのだが、それが何であるのかは、かれ自身にもよくわからない。
 獲物を追っていない時の合田は、どこにでもいるどこか屈託のある、世渡り下手の一人暮らしの退屈な男でしかない。

 合田雄一郎が登場する作品は三つ。『照柿』『マークスの山』『レディ・ジョーカー』である。
 三作品とも映像化されており、そのどれもがなかなか興味深い後味を残してくれる。
 この三つの作品は、事件が解決してもなお、重くわたしの気持ちを揺さぶり続けている。

 一体、合田雄一郎を突き動かしているものとは何なのだろう。
 そして、そのなにものかに突き動かされて、警察内部で組織から浮き上がり、単独で事件の核心へと食らいついていく男を映像化するとすれば、どんな役者がそれに相応しいのだろう。

『照柿』はNHKのドラマ(1995年)で放映された。脚本は井上由美子、合田雄一郎を演じたのは三浦友和である。
 舞台は、青梅線拝島(はいじま)駅周辺である。立川から青梅(おうめ)方向に向かって、拝島、福生(ふっさ)、羽村(はむら)、小作(おざく)といった駅が並んでいる。

 それぞれ、昭島(あきしま)市、福生市、羽村市と市は異なるが、周辺の風景はほとんど変わらない。多摩川流域の緑豊かな自然を切り開いた開発地に東芝やカシオなど有数のメーカーの工場が並んでいる。米兵向けに洒落たショップが並ぶ基地の街、福生だけは例外だが、拝島も、羽村も、小作も、これといった特徴のない、つまらない街並みが続いている。

 わたしは、仕事の関係で何度もこの地を訪れている。東芝も、カシオもわたしが経営していた翻訳会社のお客だったからだ。
 仕事終わりに、どこか洒落たカフェでお茶でもと思うのだが、どこにもそのようなものを見つけることができなかった。田園の自然の中に、経済と産業が土足で入り込んでしまったような、日本中の大都市周縁部の典型的な場所である。
 あれから二十年も経過しているので、今は景観も変わっているのかもしれないが。

 事件の舞台は、わたしがこの場所へ通っていた時代の青梅線沿線である。
 思考力を奪い取るような猛暑の中で、物語は思わぬ方向へ展開してゆく。合田は、容疑者の足取りを追ってこの地へ迷い込む。そこで、偶然のように一人の女と巡り会う。そして、理性を蒸発させてしまうような熱暑の中で、女に惹かれていく。嫉妬と恋情と、事件に対する使命感の間で、合田の心は揺れ動く。

 なかなか、難しい役柄である。この複雑な役柄を、三浦友和は見事に演じていた。それまで、青春映画の主人公であり、山口百恵の夫であるということ以外、特に注目もしていなかった三浦友和がこれほどの役者であったことをわたしは初めて知った。

 合田雄一郎が最初に登場する『マークスの山』には崔洋一による映画版(1995年)と、WOWOWの連続ドラマ版(2010年/水谷俊之監督)の二つがある。
 映画版の合田雄一郎は中井貴一、WOWOW版は上川隆也が演じている。
 映画版は、ミステリー作品としてはそれなりに面白い仕上がりになっているのかもしれないが(まあ、それは好き好きですね)、わたしは全く感心しなかった。

 まず第一に中井貴一という役者が、合田雄一郎の鬱屈した暗さにそぐわないのである。あれでは、ただの正義漢であり、中井の上品な清潔感のあるパーソナリティーでは、内面にとぐろを巻いているどす黒い憂愁は滲み出るはずもない。端的に言って、ミスキャストという事だ。わたしは、中井貴一という役者が嫌いではないし、映画『アゲイン 28年目の甲子園』(2015年/大森寿美男監督)のような人情たっぷりの世界や、時代劇の中に適役がある役者なのだ。

 日頃は余りキャスティングに注目する方ではないが、合田雄一郎のようなキャラクターは、演技の上手い下手以上に、役者の存在感が求められる。
 ところで、マークスとはMARKSであり、殺人者に狙われた大学山岳部のメンバーの頭文字である。なぜ、彼らが襲われなければならないのか。そこには、学生運動衰退期の凄惨な内ゲバの時代背景が関係している。おそらくは、この辺りの背景が崔洋一好みなのかもしれないが、そうした政治闘争の扱いもまたわたしには後味の悪いものだった。政治的な風景の上っ面を撫でているといった印象を拭えなかったのである。

 では、WOWOW版はどうだったのか。わたしは、上川隆也という役者についてほとんど何の知識もなかったのだが、はぐれものの警部補という役柄を熱演しており、テレビという媒体の中で活躍する警部補としてはかなり満足のいくものだった。

 今のところ合田雄一郎ものでは最後の作品になる『レディ・ジョーカー』も映画版(2004年/平山秀幸監督)とWOWOW版(2013年/水谷俊之・鈴木浩介監督)の二作品がある。
 WOWOW版では、『マークスの山』同様、上川隆也が合田を演じている。映画版は石原プロモーションの作品で、合田を演じているのは徳重聡という役者である。『レディ・ジョーカー』も、映画版よりWOWOW版の方が楽しめた。

 高村薫の原作を映像化するには、2時間という映画サイズでは足りないのかもしれない。WOWOW版の方は、7回にわたって放映され、一気に見るにはかなりの長尺になるが、小説の細部まで作り込まれている。登場人物の揺れ動く心理の襞を描き出すには細部が重要なのだ。

 テレビドラマとしては、この作品が三作品中では最も面白い。背景にあるのは、実際にあったグリコ・森永事件で、迷宮入りした事件の真相はこうだったのではないかと思わせるような説得力がある。
 この、日本現代史の矛盾の中から生み出された、稀有の事件の中に、合田雄一郎を置いてみたらどうなるのか。作家の高村薫ならずとも、興味をそそられる設定である。上川隆也は、ここでも熱演している。

 このWOWOW作品は、脇を固める演技陣が濃厚で、作品全体に強いリアリティを与えている。犯行グループを演じているのは、泉谷しげる(渡哲也)、豊原功補(吉川晃司)、板尾創路(大杉漣)、金子ノブアキ(加藤晴彦)、高橋努(吹越満)。警視庁側の、モロ師岡、渡辺いっけいの演技も光っていた。(カッコ内は映画版のキャスト)。
 この作品では、犯行グループが主役で、合田はむしろ話を進めるトリックスターのようなポジションなのだが、ある意味で犯行グループの心の歪みや葛藤は、そのまま合田も体現しているとも言える。

合田雄一郎とは誰なのか
 さて、合田雄一郎ものを全て見て、わたしはまだ存在していない映像作品を観てみたいという誘惑を抑えきれない。それは、合田雄一郎を三浦友和が演じる『レディ・ジョーカー』である。三浦友和なら、あの人間臭い合田をどう演じるのか。
 ここまで、書いてきて気づいたことがある。
 合田雄一郎にこれほど惹かれた理由は、最初の映像化で合田を演じた三浦友和に惹かれてしまったからではないのかということである。

 わたしたちは小説を読んで、主人公のイメージを自分なりに頭の中で描いている。しかし、そのイメージはどこか薄ぼんやりとしており、いくつかの断片的印象を寄せ集めたもののようである。断片は、これまで実際に何処かで出会ってきた人物だったり、映画や演劇の中のパーソナリティーだったりである。わたしたちは純白の無地の上に、全く新たにひとりのリアリティのある人物像を描き出すことはなかなかできないものだ。

 もし、最初に映像化された作品の中の人物が、自分が思い描いていた人物とかけ離れていた場合、わたしたちはその映像作品が原作とは別物なのだと思い込む事で、違和感を払拭しようとする。一種の合理化の心理が働くわけである。

 例えば、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』(1973年/ロバート・アルトマン監督)を最初に映画で観たとき、エリオット・グールドが演じたフィリップ・マーロウはわたしの思い描いていた人物とは似ても似つかないものであった。映画はそれなりに楽しめたが、わたしの中の違和感はなかなか拭いきれないままであった。あれは、チャンドラーのマーロウではない。

 後に、映画館で『さらば愛しき人よ』(1975年/ディック・リチャーズ監督)で、マーロウをロバート・ミッチャムが演じているのを観て、マーロウはこんな人物だったのかもしれないと少し溜飲を下げたのであった。
 これは、考えてみれば不思議なことである。自分が思い描いている、輪郭のおぼろげな人物を、現実の人物の中に探しているわけだから。

 例えばわたしが作家なら、自分が造形した人物をどんな役者にやってもらいたいかと考えるだろう。しかし、自分が造形した人物とは、無から生まれたわけではなく、わたしがこれまでに出会ってきた人物をヒントにして作り上げたものなのだ。そこには、わたしの欲望が投影されているはずである。

 そして、自分の描いていた人物を演じる役者が見つかると、今度はその役者の欲望を通して、小説の主人公の肖像が上書きされていく。
 なんだか、ややこしい堂々巡りのようだが、こんなところに、「想像上の人物」の秘密が隠されているのかもしれない。

 今にして思えば、三浦友和という役者によって、わたしの中にあった合田雄一郎のイメージは、ほぼ完全に上書きされたということなのかもしれない。
 それは原作者にとっては迷惑なことなのかもしれないが、観客にとってはこれ以上はない幸運なことだと言わなくてはならないだろう。

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