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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第2回 錆色の記憶

 日本橋を起点とする旧東海道は、現在の第一京浜国道に沿って品川方面に延びています。品川の八つ山橋あたりで第一京浜国道と交差して、海岸通りとの間を南進。品川宿を過ぎ、平和島を過ぎ、大森、梅屋敷、蒲田付近で呑川(のみかわ)を渡ります。

 車はほとんど第一京浜国道から海岸通りを用いるので、都心の真ん中を走っている割には、混雑もなく静かな通りであり、街道沿いには往時を偲ばせる板塀の仕舞屋が立ち並んでいたりします。
 JR大井町駅を降りたわたしたちは、駅前の横丁に迷い込み、そのまま東下して旧東海道に向けて歩き出しました。
 地元の中学校を卒業した三人は、ふとしたきっかけで再会し、町歩きを始めることになったわけですが、本日の目的地は羽田浦です。

 わたしの家は、戦後、埼玉県から上京してきた父親が営むプレス工場でした。 
 このときの同行者である中学校の同級生ふたりの実家もまた町工場でした。
 わたしは、実家を継がずに自分で小さな翻訳会社を興し、その会社を三十年近く続けていましたが、ここ数年はIT系の会社を経営したり、大学で教鞭をとったりしています。
 ひとりは家業の工場を継いで、日本有数の自動車部品メーカーに育て上げました。もうひとりは、中学校を出て以来ずっと絵を描き続けています。
 わたしたちは、中学校を卒業して、お決まりのコースを進むように、それぞれ異なる人生を歩んできたわけです。
 背の高い偉丈夫なK場が実業家で、ずんぐりとした愛嬌のある体形をしているのが画家のI坂です。
 中学校卒業以来、ほとんど付き合いの途絶えていた三人が、同窓会での再会の後、なんとなくもう一度会ってみようということになったのは、おなじ出自をもつ人間に染み着いた匂いを、お互いに感じ取ったからかもしれません。
 この日の町歩きは、部品メーカーの社長であるK場がプランを立てました。
何故かK場は、なんとなくはじめた町歩きに異常ともいえる興味をかきたてられたようでした。

 わたしは前もって、一本のビデオを二人に渡していました。
 ビデオには1984年にNHKで放送されたドラマ「羽田浦地図」が収録されていました。
 主演の旋盤職人を緒形拳が好演しています。佐藤オリエが工場主の娘の役で、ひそかに緒形に恋心を抱いていますがなかなかそれは言い出せません。工場主の娘と、腕はたつが一介の雇われ職人である緒形との間には、恋愛するには高いハードルがあるわけですね。
 工場主が病に倒れると、佐藤オリエが頼れるのは緒形拳しかいませんでした。
実は、この緒形拳は佐藤オリエの父である工場主がかつて捨てた大井遊郭の娘を自分が引き取って面倒を見ているのです。

 ドラマは、近代化に遅れをとり窮地に立たされた町工場と、その町工場を立て直すためにほとんど贈与的な貢献をする職人をめぐって、義理と人情と愛欲がからんで複雑な展開を見せることになります。
 現在も工場の立ち並ぶ東糀谷(ひがしこうじや)あたりは、戦前から戦後にかけては浜辺であり、海苔と魚介で生計を立てている家が多いところでした。
 今でも、地面を掘り返せば、たくさんの貝殻が出てくるような場所なのです。
工場主の娘との関係や、取引先からの圧力などで窮地に立たされた緒形が、海老取川(えびとりかわ)あたりの土手を、かつてそこでとれた幾種類もの魚の名前を呪文のように唱えながら歩いている姿が、観ているものの胸を打ちます。
 男女のしがらみが描かれますが、どちらかといえば、泥臭い、イタリア映画のような、土の匂いの漂うリアリズムタッチのドラマでした。

 このドラマの原作は、大田区の町工場を舞台に、すぐれた小説やルポを書いている小関智弘の佳作である『羽田浦地図』(現代書館)および「錆色の町」(『羽田浦地図』に所収)のふたつです。
 わたしは、取材で一度、小関智弘さんにお会いしていました。
 昭和三十年代の、蒲田周辺の工場労働者が何を考え、どんなふうに暮らしていたのか教えていただくために、お時間をいただいたのです。
 数日後、小関さんから一枚のDVDが送られてきました。
 それが、このテレビ版「羽田浦地図」でした。

 DVDを友人のふたりに渡してから、ほどなくして、K場が電話をくれました。
「観たぞ。ありゃたまらない作品だな。俺たちの生まれた町が映っている」
 このとき、わたしは、やはりK場はあのドラマにはまったなと思いながらひとつの提案をしてみたのです。
「お前も、そう思ったか。あれを観て、俺は自分が何ものか、自分がどこから生まれてきたのかを反芻する気持ちになった。いま、もう一度、あの場所を尋ねてみないか」
 画家のI坂は、最初はあまり乗り気ではありませんでしたが、K場が言ったひとことが、I坂の画趣を突き動かしたようでした。
「なあ、I坂、お前はポップアートみたいなものを描き続けているけど、何かが足りないと俺は思う。俺たちが生まれ育ったルーツのような場所をもう一度お前に、見てもらいたい」。さすがは、名経営者です。
 このひとことで、I坂が動きます。
 わたしたちが強く惹かれたのは、この原作のタイトルである「錆色の町」という響きでした。I坂の画趣をつきうごかしたのも、「錆色」という言葉だったのです。
 わたしたちは、町工場の倅として、「錆色」が何を意味しているのかについて瞬間的に理解しました。そして、もはやわたしたちの現在の住処の周辺には存在していない「錆色」をもう一度見てみたいという衝動にかられたのです。

 大井町駅前は再開発が進んでいます。昭和三十年代は、場末の雰囲気ながら、活気のある商店が並び、路地裏には深夜まで灯がともされ酔客を引き寄せていました。
 いまは、近隣にイトーヨーカ堂や、丸井が立ち並び、駅舎も近代的なものに建て替えられています。当然ながら、かつて栄えた路地裏は、なんだかうらぶれた、落魄した町になってきています。
 大井町は、もともとは、古くから栄えた海に接した宿場町で、延喜式という平安時代の律令にも記されています。江戸時代は、落語や講談でもおなじみの鈴ヶ森刑場が有名ですね。大井競馬場や、大井埠頭は戦後に整備され、近隣に工場が多いことなどから多くの労働者が棲みつく町として賑わいを見せたのでしょう。
 落魄したとはいえ、迷路のような路地裏には、飲み屋や小料理屋が立ち並んでいて、いったんこの路地裏に迷い込めば、一気に時代を半世紀遡ったような空気に支配されます。

 わたしたちは、「町が変わっていってしまうのは寂しいな」「マンションが次々と建ちならぶと、町の顔がなくなっちまう」などと言いながら、路地裏を抜けて、坂道を下り、京浜東北線の東側にある第一京浜国道を横切り、旧東海道へと入ります。
 しばらく歩くと、街道脇にひっそりと、しかし重厚な日本建築のそば屋がありました。わたしたちはお互いに目で合図をして、当然のようにそば屋の暖簾をくぐり、そこで一息入れることにしたのです。
 これから歩いていく先にある羽田浦の風景に思いをはせながら蕎麦をすすり、酒を酌み交わしているうちに、酔いが回ってきました。
 わたしたちは現代の日本からスリップして四十年前の東京の町へ入り込んでしまったような奇妙な錯覚にとらわれてしまったようです。そして、気がつけば、わたしたちはパワープレスが単調なリズムで金属板を型抜きする音や、旋盤がブンブンと回転音をあげている東糀谷の一角に立っていたのです。

 そこはまさに錆色の町でした。
 工場の脇に設えられた木おけのなかには、細く光ってクルクル丸まったテープのような形の、旋盤が削り取った切粉が積み上げられていました。
 木おけの底のあたりには、雨が流れ出て、アスファルトの路面の上に鈍く光る錆の模様を描き出していました。
 アスファルトの上の錆の模様。
 これこそ、わたしたち三人の記憶の深層に焼き付けられていた最初の絵画でした。
 わたしたちは、旧東海道のそば屋で酒を酌み交わしているうちに、目的地である東糀谷の工場の町を尋ねる前に、すでに「錆色の町」に出会ってしまっていました。
 
 そして、東糀谷から南側を流れる多摩川に沿うようにして西へと延びる工場地帯の一番外れにある「錆色の町」がわたしが育った町だったのです。
 このとき、わたしは、かつて自分の周囲に起きた奇妙な事件を思い出していたのです。わたしたちは十九歳。高校を卒業してまもない頃の話です。

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