住ムフムラボ住ムフムラボ

平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第17回 隣町通信⑥消えた街角−その4「桃太郎伝説」

二つの吉備津神社

 わたしたちは、桃太郎伝説の中心である、吉備津彦神社に向かって車を走らせた。地方都市の市街地といった趣の町の角を、幾度も曲がりながら目的の神社を探したのだが、なかなか見つからない。途中小さな里山があり、そのふもとに神社の山門らしきものがあった。

 しかし、それはしかし、目指していた神社ではなかった。車に搭載されたナビは、別の場所を示していた。この辺りには黒住教の本部もある。他にもいくつかの神社がこんもりとした里山の中に散在しており、霊的な空気があたり一面に漂っている。
 しばらく付近を捜していると、吉備津(きびつ)神社の看板が目に入ってきた。吉備津神社?
 吉備津彦神社じゃないのか。

 後に分かるのだが、周辺には吉備津神社と吉備津彦神社の二つの大きな神社が2キロメートルの間隔で配置されているのだ。しかも、この二つの神社は、対照的といっていいくらいにその趣が異なっている。吉備津神社は、山門をくぐり急こう配の石段を登り切ったところにある幽玄な神社で、空に向かって大きく翼を広げたような比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)の本殿を持つ。

 一方の吉備津彦神社は、背後に霊山を背負っているとはいえ、玉砂利の向うに広々とした平地に大きな境内を広げており、池があり、庭が拡がり、全体に明るい日の光の中に社殿がある。そして、どちらも、吉備津彦を祀っているのだが、何故こんな至近距離に同じ由来を持つ二つの神社ができたのだろうか。

 吉備津彦神社の社務所で、そのあたりを訪ねると、もともとは、「大社吉備津宮」としてひとつながりの神社であったのだが、大化の改新以後の吉備の国が備前、備中、備後、美作(みまさか)の国に分けられ、大社吉備津宮は備前、備中にまたがっていたのだが、国別になったという。備前側が、吉備津彦神社、備中側が吉備津神社である。
 だから、どちらの神社も、桃太郎伝説のもとになった温羅(うら)伝説を神社由来の物語として保存している。
「ところで、桃太郎ってのは、一体何を言いたい話なんだろうね」
 と誰かが言う。

 そこで、衆議することになるのだが、何故桃太郎が、鉄器を持つ鬼退治に、犬、猿、キジという“か弱い”動物で立ち向かったのかよく分からない。
「鍵は、鬼だな。鬼ってのは何者なんだ」
「単なる盗賊じゃないよね」
「とすると、吉備を併合しようとした大和朝廷の兵隊かな」
「鬼が手にしていた鉄器も鍵だな。なにせ、この辺は日本有数の鉄の産地で、近くに多々良製鉄もある」
「大和朝廷による統一併合の舞台ともいえるし、鉄器目当ての朝鮮半島からの刺客ともいえる」
「いや、苦しめられた住民は、製鉄所の公害の被害者だったとも考えられる。そうならば、桃太郎は反公害運動の闘士だね」

「そもそも、桃太郎は何故、桃から生まれた?」
「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん=若い神や貴人が、漂泊しながら試練を克服して、神となったり尊い地位を得たりするもの)だね」
「一寸法師とか、親指姫とか、童話のなかには、小人伝説みたいなものがある」
「敵軍に母親が蹂躙されて、生まれたのが桃太郎なのかな」
「それで、桃太郎はじいさん、ばあさんに育てられたわけか」
「いや、婆さんが産んだって説もあるぞ。桃は精力効果があるって」
「だんだん、怪しくなってきたな……」
 こんなたわいもない空想的な会話を交わしながら、わたしたちは、吉備津神社の北門をくぐり、本殿へと向かっていった。

桃太郎伝説

 お伽噺といえば、まず思い浮かぶのが桃太郎だろう。そして、浦島太郎、カチカチ山、かぐや姫、舌切雀、瘤取りじいさん、花咲じいさんといったところか。こうして並べてみると、やはり桃太郎には独特のものがある。
 お伽噺というものが、基本的には報恩譚、貴種流離譚、道徳譚といった話型を踏襲しており、桃太郎にもそれらの要素があるのだが、他のお伽噺の主人公たちは、何やら情けないところがあって、読者はかれらの失敗から教訓を引き出すといった塩梅だが、桃太郎の話には、どんな教訓も思い浮かばないほど、屈託がなく、単純明快で、聴きようによっては、面白みに欠けるところがある。

 柳田国男は、『桃太郎の誕生』という本の中で、信仰の度合いが希薄化して物語化していく過程を、神話、説話、昔話というように分けて考えることができるとし、桃太郎の話は、説話が近世に入って急に成熟し、もとの樹の所在は不明になったが、まだその果汁の新鮮味を失っていないものであるとしている。(『桃太郎の誕生』角川ソフィア文庫23頁)

 太宰治には、『お伽草子』という興味深い作品がある。この『お伽草子』の始まりを読むと、空襲下の防空壕の中で、避難生活に飽きた子どもたちに、父親が「お話し」を始めるという恰好になっている。
 かちかち山や浦島さんなどいかにも太宰らしい脚色がほどこされているのだが、なぜか桃太郎の話が抜けている。これについては、太宰自身が『お伽草子』の中でこんなふうに語っている。

私の桃太郎は、小さい時から泣虫で、からだが弱くて、はにかみ屋で、さつぱり駄目な男だつたのだが、人の心情を破壊し、永遠の絶望と戦慄と怨嗟の地獄にたたき込む悪辣無類にして醜怪の妖鬼たちに接して、われ非力なりと雖もいまは黙視し得ずと敢然立つて、黍団子を腰に、かの妖鬼たちの巣窟に向つて発足する、とでもいふやうな事になりさうである。またあの、犬、猿、雉の三匹の家来も、決して模範的な助力者ではなく、それぞれに困つた癖があつて、たまには喧嘩もはじめるであらうし、ほとんどかの西遊記の悟空、八戒、悟浄の如きもののやうに書くかも知れない。しかし、私は、カチカチ山の次に、いよいよこの、「私の桃太郎」に取りかからうとして、突然、ひどく物憂い気持に襲はれたのである。せめて、桃太郎の物語一つだけは、このままの単純な形で残して置きたい。これは、もう物語ではない。昔から日本人全部に歌ひ継がれて来た日本の詩である。物語の筋にどんな矛盾があつたつて、かまはぬ。この詩の平明闊達の気分を、いまさら、いぢくり廻すのは、日本に対してすまぬ。いやしくも桃太郎は、日本一といふ旗を持つてゐる男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。私は桃太郎のあの「日本一」の旗を思ひ浮べるに及んで、潔く「私の桃太郎物語」の計画を放棄したのである。 
(太宰治『お伽草子』新潮文庫より)


 太宰は、桃太郎の話を「昔から日本人全部に歌ひ継がれて来た日本の詩」だとまで言っている。そして、桃太郎が「日本一」の旗を持っていることを挙げて、とてもじゃないが、そんな快男子を描写できないと、いくらか謙遜気味に語っている。
 これをそのまま鵜呑みにはできないわけで、どこかしら、太宰は桃太郎=日本一に「筋に矛盾がある」といった言葉で、戦時下、体制翼賛物語の主人公になった桃太郎をからかっている風でもある。褒め殺しだ。
 
 この小説が書かれた時代を考えると、太宰が果たして戦時の体制翼賛的な空気に対して、どんな気持ちを持っていたのかが覗えるようにも思える。高橋源一郎は、戦時下、戦争協力せずに書き続けた作家として、太宰と、谷崎潤一郎を挙げていたが、太宰が反戦的な思想を持っていたのかどうかはよく分からないと述べていた。

 まあ、右であれ左であれ、戦争や革命といった大きな物語を語ることなど恥ずかしくてできないと思っていたのかもしれない。自分はそんな立派な人間ではないというスタンスを貫くことが、太宰の屈託した矜持だった。そのあたりのことは、小説を読んだだけではよく分からないのだが、太宰のひねくれ方が独特の味を醸し出している。

 話を戻そう。
 桃太郎伝説にアプローチするためには、その元になった温羅伝説を訪ねなくてはならない。この温羅伝説を童話本にしたものが、吉備津神社のウェブサイトに掲載されている。

 その『キビツ彦の温羅退治』は、「ある日、百済の国の王子、温羅という恐ろしいものがやってきた」と始まる。温羅はひげをはやし、目は虎や狼のように輝き、身の丈4メートルもあった。ということは、温羅は朝鮮半島を渡ってきた外国人を描写しているようにも見える(事実、このあたりには古来、朝鮮通信使が頻繁に寄港してきている)。タタール人という空想もわいてくる。

 日立金属のホームページには、「たたら」の語源として、興味深い記事が掲載されている。
「たたら」とは、ふいごとか、熱を意味する言葉で、その語源は、諸説あるが、古代朝鮮語の「加熱する」や、ダッタン語で猛火を意味するタタトルから転化したという説を紹介している。いずれにせよ、タタールとたたらは、繫がっており、この地域近隣にたたら製鉄があり、刀鍛冶が多いのも、この地が鉄の産地であり、鉄を求めて、国内のみならず、中国、インド、朝鮮といったところから技術者が流入してきたのだろう。

 さて、誰だかよくわからない温羅だが、この邪鬼は、逆らう村人を射殺したり、釜茹でにしたりと、暴虐の限りを尽くす。村人は時の朝廷に救助を求め、そこにキビツ彦が派遣される。キビツ彦と温羅の弓矢合戦が行われるが、キビツ彦の妙案で、放った矢が温羅の目を射抜く。

 温羅はこれはかなわんと、キジに姿を変えて逃走する。キビツ彦はタカに変身して、これを追いかける。温羅は鯉に変身して、血吸い川に逃げ込む。キビツ彦は今度は鵜に変身してこれを追いかける。ついに、キビツ彦は温羅を捕え、その首を刎ねる。

 ところが、その首が、その後何年もの間、吠え続けて村人を悩ますことになる。キビツ彦は、家来のイヌカイタケルに命じて、この首を食わせようとしたが、まだ首は吠え続けた。キビツ彦は吉備津神社のお釜伝の下に、この首を埋めるのだが、それでも13年もの間、首は吠え続けた(それが、吉備津神社に今も残る「鳴釜の神事」である)。

 だいたいこんな筋書きなのだが、いや、温羅伝説は、桃太郎伝説とは似ていて非なる物語である。
 ただ、ここで、イヌカイタケルという人物が出てくるのに注目したい。温羅がキジに変身するという場面もあって、桃太郎が連れていた、イヌ、サル、キジというのは、おそらくは吉備津彦の側近の部下の名前からきているのではないかという推理も成り立つ。

 勿論、柳田国男が指摘するように、もともとは信仰だったものが、物語として語り伝えられるようになったものであるわけで、史実としてこれを捉えるのは無理があることは承知の上での、空想である。

 私たちは、空想をめぐらしながら、吉備津神社の境内に立ち、あらためてその独特の本殿を見上げていた。かつて、このような建物が日本にあっただろうか。入母屋屋根から、天に向かって矢じりのように突き出た比翼。なんだか、これに似た建築をどこかで、観た覚えがある。だか、それがいつのことで、どこにあったのかは思い出せない。

 本の中だったのか、映画のワンシーンだったのか、それとも、旅先だったのか。よくは思い出せないのだが、私はそこに、何か日本古来のものとは異なる異国的なものを感じたのである。もし、この私の印象が正しければ、おそらくは、吉備津神社も、桃太郎の伝説も、日本古来のものというよりは、日本と朝鮮半島を行き交った人々による、合作だったということもありうるだろう。

 吉備の国が、列島を統一した大和とは異なった空気を醸成してきたのは、やはり、この地が日本の辺境であり、列島を激しく行き来したアジア人たちの海路に位置していたからなのかもしれない。

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