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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第16回 隣町通信⑤消えた街角−その3

 先だって、岡山県の備前、牛窓、吉備津神社、吉備津彦神社を訪問した。
 隣町珈琲探偵団としては、久々の遠隔地探索であり、桃太郎伝説の源流を探るというテーマであった。

 しかし、わたしの興味の中心は、何といっても牛窓という町にあった。奇妙な地名だが、最近では、想田和弘監督の『牡蠣工場』という映画の舞台になっている。なんで、牛窓なんだと当初は首をかしげたが、想田さんの奥さんのご実家がある町なのだそうである。映画の中に、べた凪の海の美しいショットが何度か現れる。点在する島の間を釣り船や運搬船がゆっくりと動いていく。なんとも静謐な風景である。

 わたしは、映画『牡蠣工場』のパンフレットを書かせてもらったのだが、お引き受けした第一の理由は、はやり牛窓が舞台だったということにあった。
 備前でひととき、焼き物を見てから、車で牛窓へ向かった。
 田園が続くくねくねした道をぬけて、途中オリーブ園のある丘に立ち寄ってから、牛窓の町へ入っていった。
 想田さんの映画の舞台になっていた、牡蠣工場のクレーンが見えてきて、ちょっと心がざわつき、どきどきしている自分に驚いた。



 実際にこの目で見る牛窓は、映画の中の牛窓とも違うし、想像していた町とも違っていた。しかし、どこがどう違うのかを説明するのは難しかった。
 牛窓という名前は、わたしの中では、一度は絶対に訪れなければならない場所として登録されており、長い間そのチャンスを待っていたのである。

 その理由のひとつが、わたしの好きな作家のひとりである川本三郎さんが、かつて『日本すみずみ紀行』(現代教養文庫)という紀行文集のなかで、この町を最初に取り上げていたからである。この町のバスの停留所の目の前に「ニコニコ食堂」という食堂があって、川本さんはそこでメバルの煮付けを肴に、ビールを飲んでいる。

 後年、川本さんは『そして、人生はつづく』(平凡社)の中で、亡くされた奥様が、海が好きで「老後は牛窓に住みたい」とおっしゃっていたと記している。
 そして、「町の目の前に瀬戸内の穏やかな海が広がる。島も見える。銭湯のペンキ絵のよう」と続けている。
 誰だって、こんな文章を読めば一度は、訪れてみたいと思うのではないか。



 その牛窓の町が、わたしの目の前にあった。
 それは、予想とは随分違ったものであった。
 一時期、日本のエーゲ海という触れ込みで、この牛窓がフィーチャーされたことがあった。静かな海と、点在する島。ヨットハーバーと、白い建物。確かに、エーゲ海風な風景が広がっていると見えないこともない。
 しかし、この町おこしプロジェクトは失敗に終わったようである。

 一歩足を踏み入れてみれば、牛窓はエーゲ海とは似ても似つかない場所であることが、すぐに分かる。やや色あせた、地方都市の、忘れ去られようとしている集落が、現在の牛窓の姿である。
 しかし、その最初の印象は、あることをきっかけに強烈な驚きへと変化するのだが、このときはまだ、それが何だか分からなかった。

 わたしたちは、駐車場に車を止めて食堂を探した。牛窓に到着した安心感で、急に腹が減ってきたのである。ゆっくりと、一服もしたい。しかし、わたしたちのような、ヘビースモーカーを迎えてくれる食堂はなかなか見つからない。
 店先にテラスのある小ぶりな喫茶店があったので、テラスで煙草を吸いながら、腹ごしらえをして、コーヒーを飲もうということになった。

 店の女主人と話をしていて、牛窓には旧市街があり、このあたりとは全く別の雰囲気を持っていることを教えてくれた。
「そうそう、その場所に行きたいんだよ」
 腹ごなしも兼ねて、わたしたちは旧市街へ向かった。
 そして、表通りから一歩山側に入ったところに伸びている一本の旧道に入っていったのである。

 実は、この牛窓に旧市街があって、昔ながらのしもた屋が並んでいることは、知識としては知ってはいたし、想田監督の映画のパンフレットにもそのことは触れていた。その家並みの中でも目を引く木造二階建ての重厚な建物は、想田監督の奥様のご親戚が営んでいた料亭だったところだということである。

 しかし、頭で知っているということと、実際にその場に立ち、同じ空間に居て五感が受け取る印象は随分と違うものだ。わたしも、同行の友人たちも驚きの声を上げたのである。そこには、戦前からの特徴のある建物が、そのままの形で、時間の風雪に耐えるように並んでいた。
 どの建物も、壁板が煙でいぶしたように黒く焦げている。木造三階建てという珍しい入母屋家屋もある。随分栄えた場所だったことが、すぐに了解された。
 しかし、今は半分ぐらいの建物には、すでに人が住んでいない様子であった。



 それは、かつての賑わいが消えた街角であった。
 かつて、この地は遍歴する海の商人たちの、中継地にあたっていて、朝鮮通信使もこの地を訪れ、あるものはこの地に住み着いた。料亭があり、遊郭があった。この地からほど近い三井金属日比精練所付近には、日比遊郭があった。
 津山、玉島、倉敷、笠岡にも立派な遊郭があった。
 岡山県の瀬戸内海沿岸部は鉄の精錬所が多く、戦時中は米軍捕虜を強制労働に使っていたために、終戦間近の空爆を免れたという説もある。日比を舞台にして、牛窓をロケ地にした今村昌平の『カンゾー先生』は、そのあたりの事情を映像として見せてくれている。

 今村昌平のロケハンは、瀬戸内一帯の集落を巡ったのだろう。そして、町医者に徹して生涯を全うしたカンゾー先生が、往診に毎日走る街角にぴったりの場所を見つけた。それが、牛窓だった。おそらくは、そんなところだろうと思う。

「すごいね」
「そうだな、こんなところがまだ残っているんだな」
「ああ、驚いた。まるで、戦前昭和にタイムスリップしたような気分だ」
「なんだか、吸い込まれそうになるな」
 そんな会話をしながら、わたしたちは町のすみずみまで、探索した。

 町のいたるところに、猫がいた。都会の猫は、人影を見れば、じっとこちらを見返した後、一目散に逃げ出すのが常だが、牛窓の猫はわたしたちにほとんど関心を示さない。落ちていく陽の光を惜しむかのように、日当たりのよい場所にじっと座っている。
 猫は幾つぐらいなのだろうか。
 わたしには、これらの猫たちは、何百年も生きて、牛窓の歴史をその身体の中に記憶している守護神のようなものではないかと思えてきた。



 ところで、なんで、牛窓なんだろう。
 喫茶店で売られていた一冊の、童話がその由来を伝えている。
 千八百年前、日本の西の国で争いがあり、日本の王が大阪からかの地へ向かったという。夕日が真っ赤に燃えて、海が金色、銀色にきらめいて錦のようであった。それで、このあたりの海を錦海湾(きんかいわん)という。
 船がその錦海湾にいかりをおろしたとたんに、八頭の怪物が船を襲った。王さまは何本もの矢を放ち、怪物の体はばらばらになって、海に沈んだ。
 それで、黄島、前島、青島ができた。

 この戦で、王は傷を負い、やがて死んでしまう。
 王のきさきである神功皇后(じんぐうこうごう)は、逃げ去る敵の武将である、唐琴の王子を討ち取る。その場所を唐琴の瀬戸という。
 おきさきは、腹帯をしめ、髪を切り、鎧兜で武装して、西の国へ向かう。西の国を平定したのち、船が瀬戸内の沖を急いでいた時に、海から巨大な牛の怪物が現れた。

 このとき、白い髪のおきながあらわれ、怪物のつのをつかんで、投げ倒します。
 このおきなこそ、住吉明神の化身であった。
 怪物の名前は牛鬼。その牛鬼が、住吉明神の化身に投げ飛ばされて、ころんだ。
 牛鬼がころんだ。牛転び。牛まろび。これが、訛って「うしまど」になった。
 牛窓という地名には、こんな伝説が残されていた。
 わたしたちは、この地域のそれぞれの場所が、独特の呼び名を持っていることに気付き始めていた。



 そのとき、わたしたちは、数千年前の空気の中に入り込んでしまったような気持ちになっていた。
「これは、もうひとつ行かなければいけないな」
「ああ、そうだ。吉備の国の深奥へと入っていかなくてはなるまい」
 衆議はすぐに一致した。
 わたしたちは、さっそく車に乗り込み、吉備の国の秘密の中心地である吉備津彦(きびつひこ)神社へ向かった。その地こそ、桃太郎伝説の発祥地であったからである。(続く)


註)文中、牛窓の伝説に関しては、「牛窓再発見の会」1990年発行、牛転の話 文:窪田聡 絵:廣畑一男 を参考にした。

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