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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第15回 隣町通信④消えた街角−その2

 映像考古学会が[隣町珈琲]で開催される日、メンバーのひとりであるHさんは開始時間より数時間前に最寄り駅の荏原中延(えばらなかのぶ)で下車していた。
 この町の様子を事前に偵察するためである。こういう探偵度が高いことが、映像考古学会のメンバーの資格である。
 会場である、[隣町珈琲]から一ブロックほど離れたところに、奇妙に道が入り組んだ場所があった。のちに、わたしもその場所を歩いたのだが、およそ現代の街並みとは似つかわしくない、ほとんど迷路といってもよいほど、細い道が入り組んでいる。
 道幅は1メートルほどで、ひとひとりがやっと通れるほどの狭さで、車はもとより、自転車でさえ通るのがはばかられる。そんな道が、縦横に走り、この区画がどのようになっているのかは、航空写真で見るよりほかはないのだ。

「これなんですけどね」
 とHさんは航空写真を見せてくれた。なんでも、そういう携帯アプリがあって、数十年ごとの地図や、航空写真を重ね合わせてみることができるのだそうである。「東京時層地図」というものだそうである。
「ね、変でしょ。ここだけ、ほかの街区とまったく違う」
 ほかのメンバーも、「ほう」とか「おお」とか、驚きの声をあげている。
「でね、なんでこんなふうになっているのか、調べたんですよ」
 いや、それは素早い。いったいに、この映像考古学会に集まってくる人たちは、こういうなんでもないことに情熱を燃やし、徹底的にしらべる性癖の持ち主ばかりなのである。

「これ、同潤会なんですよ」
 これには驚いた。こんな場所に、同潤会があったとは。
 昭和二十年頃の航空写真を見ると、この区画の周囲は空襲で焼け野原になっているように見えるのだが、この区画の中だけは10棟ほどの建物が、道に対して斜めに並んでいるのがわかる。そして、昭和戦前期の地図には、もっとはっきりと、この区画が同心円状に家並みを配置した田園都市になっていることが映し出されていたのである。

 そういえば、戦前昭和にも田園都市構想というのがあった。
 19世紀にイギリスのエベネザー・ハワードによって提唱された、都市と農村の機能を併せ持ち、自然と共生しながら生活をしてゆくための都市構想である。
 小津安二郎の映画、『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』は、昭和7年(1932)の映画だが、その舞台となった蒲田駅の西側には、実業家・黒澤貞次郎の手になる「吾らが村」という工場コミュニティーがあった。お花畑と、テニスコート、工場と、教会。水道も引き、子どもたちのための学校まで作った。
 高級住宅が、駅から放射状に延びる道に沿って軒を並べている典型的な田園都市である、田園調布もまた、この時代に出来上がってくる。

 荏原中延の戦前昭和の地図にある同潤会地区は、まさに田園調布を縮小したような、放射状に道が延び、街区は同心円状に広がっている。
 現在はこの同心円を4等分した一部分だけが、わずかに街並みの原型をとどめている。当初の形は、左上の部分はもともと学校の校庭になっていて、造られなかったので、ちょうど4分割したケーキのワンピースだけが欠けた状態だった。昭和20年(1945)の東京大空襲で、右上右下の部分も焼けてしまい、左下のピースだけが残ったということなのだ。だから、周囲の家並みが縦横に整然と並んでいるのに対して、この街区だけが、同心円状に家が並ぶ格好になっている。

 こんなところに同潤会があったとは、知らなかった。そうなると、いったい同潤会とはいかなるものなのか、俄然興味がわく。
 こういうときはウィキペディアが便利だ。

同潤会(どうじゅんかい、同潤會)は、内務省によって1924年(大正13年)に設立された財団法人である。その前年に発生した関東大震災の義捐金をもとに設立され、東京と横浜において住宅供給を行った。集合住宅「同潤会アパート」(16か所)の建設で知られている。

 なるほど、同潤会とは、関東大震災の後の、住宅供給のための財団だったのか。



 わたしにとって、同潤会アパートといえば、江戸川乱歩の小説を思い出させる。乱歩のたとえば『陰獣』とか『D坂の殺人事件』、『人間椅子』などを読んでいると、上野や谷中あたりの古い洋館が登場するのだが、これらの所在を調べてみると、どうやら同潤会アパートであることが分かってくる。しかし、16か所に建てたという鉄筋コンクリートの同潤会アパートだが、代官山や青山、大塚といった場所は出てくるのだが、荏原中延にはアパートは建設されていない。
 どういうことなのだろうかと調べていくと、「首都圏総合住宅研究所」が受託したという業務の中にこんなものが見つかった。



平成19年度より行われている同地区の住宅市街地総合整備事業(密集住宅市街地整 備型)における推進事業の7年目。中延2丁目の旧同潤会地区の共同建替え検討(防災街区整備事業による)のほか、地区計画導入候補地区における懇談会の開催、相談会実施、ニュース発行等を行った。旧同潤会地区では、より見直した計画案に基づく個別の従前資産評価及びこれに基づく権利床取得可能面積の提示を行い、個別聞取り調査を実施した。

 どうやら、東中延地区にあった同潤会の住宅は、鉄筋コンクリートではなく、木造であったようである。なぜ当時、同潤会が木造の住宅を作ったのかについてははっきりとしないが、おそらくは鉄筋と木造の二本立てで、震災後の住宅供給を行ったのだろう。ただ興味深いのは、アパートの方はどちらかといえば建物中心だが、木造の同潤会地区は当時話題になっていた田園都市構想がからんで、エリア全体が設計されたということである。

 住宅生産振興財団のホームページを覗くと、興味深い記述があった。「まちなみ図譜・文献逍遙」という出版物紹介記事である。筆者は、東京大学大学院准教授・大月敏雄氏(現在は教授)。そこに『建築寫眞類聚 木造小住宅』なる本が紹介されており、これがじつは、財団法人同潤会が建設した関東大震災被災者向けの木造普通住宅という復興住宅の本格的な写真集なのである(それはまだわたしの手元にない。アマゾンで検索しても見つからない)。
 記事はこんな調子である。

ところで、同潤会の復興住宅で有名なのは同潤会アパートである。今となっては、上野下アパートが残っているだけだが、東京・横浜の15カ 所に建設された。同潤会では、関東 大震災の復興住宅として、これらアパートメントと、ここで紹介する木造普通住宅の2種類を用意していた。 いずれも賃貸集合住宅であるが、都心部には鉄筋コンクリート造のアパートメントを、そして郊外部には木造長屋の住宅地を、という二段構えの復興計画である。

 やはり、こちらの想像したとおりで、二段構えの復興計画で、荏原中延の方は、郊外型なのであった。そして、この地には合計で356戸の同潤会木造普通住宅が建設されたのである。さらに、児童遊園、公益質舗(東京府社会事業協会)、娯楽室、医院(櫻井茂四)などが、付帯施設として配置されていた。
 この記事の最後に、写真が添付されている。
 おそらくは、『建築寫眞類聚 木造小住宅』の写真なのだろう。この写真には心底驚嘆した。これほどの美しい街並みが、わたしがやっている隣町珈琲のすぐそばにあったのである。



 つまりは、こういうことだった。関東大震災の後に、その復興計画の一環として、内務官僚だった池田宏が同潤会の構想をつくった。池田宏とは、災害復興院総裁の後藤新平の右腕だった人物であり、後藤の強い政治力と決断力によって、同潤会構想は実現してゆく。そして、その理事の中に田園都市構想を携えた建築家が入り込み、主に東大建築学科から研究者たちが集められたのである。

 いま、同潤会跡地を歩くと、当時の面影は見る影もない。当時ここに暮らした人々も、ほとんど入れ替わっているだろう。古い建物が密集し、細い通路が縦横に入り組んでいる街区は、いまや防災危険地域として再開発の議論の俎上にある。町も人も、長い年月の間には年老い、若年の活力を失う。わたしが喫茶店をつくった目と鼻の先に、このような田園都市があったことを記憶しているものは、ほとんどいない。
 往時茫々である。
 ただ、当時の写真を眺めていると、この場所が、震災後の希望の町であったことが、実感されてくるのである。

住宅生産振興財団HP「まちなみ図譜・文献逍遙」(東京大学大学院・大月敏雄准教授〈現在は教授〉)より
https://www.machinami.or.jp/contents/publication/pdf/machinami/machinami065_16.pdf

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