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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第14回 隣町通信③消えた街角

 ある日、facebookを見ていたら、知り合いのビデオエンジニアであるKさんが、面白い動画をアップしていた。終戦後数年の東京の町を撮影したものだが、その街角の映像がうっとりするほど奇麗なのである。

 おそらくは、占領時代のもので、当時の写真はたくさん残ってはいるが、動画となると、8㎜で撮影した、ところどころに亡霊のような雲が浮かび上がる、肌理の粗いものがほとんどである。アップされた映像ほどはっきりと、美しい形で残っているものを見たのははじめてだった。

 しかもその映像は、プロが撮影したものであることが歴然としていた。
 どこが? と問われても返事の仕様がないのだが、カメラの位置、動き、コントラストなど、素人には真似のできないものだということだけは、素人でも分かるのである。

 Kさんは、このフィルムについて次のような記述をしていた。
「終戦直後の新橋をGHQが撮影した35㎜フィルムの解像度が驚異的!」
「数年前にfacebookで『GHQが終戦直後に撮影した素材』を使った音楽PVとして回ってきたものだった」

 わたしは、一瞬にしてその映像の美しさに惹きこまれてしまった。そして、そこに映し出された場所のほとんどが、見覚えのあるものであることにも、強い衝撃を受けたのだ。なんだかなつかしい風景ではないか。
 いや、それだけではなく、この映像に映し出された通りを、わたしも歩いたことがある。それも、つい最近のことだ……。

 一体、GHQは何のためにこんな映像を撮影したのだろうか。
 そして、それはどんな経緯でfacebookに出回ったのだろうか。
 さらに、そこに映し出された繁華街、長い道路、ビジネス街は、どこに在って、現在はどうなっているのだろうか。



 一昨年、わたしは友人たちと、80年前の蒲田駅周辺の痕跡を調べて歩いたことがあった。
 小津安二郎のサイレント映画時代の傑作『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』の中に、頻繁に登場する電車が、わたしが生まれて育った街中を走っている電車であるということは、何かの本で読んだことがあった。池上線である。  
 しかし、映画の中の踏切や、橋は、現在どうなっているのだろうか。
 八十年前の映画である。
 いまでは風景も、大きく変わってしまっているに違いない。
 実際に調べ始めると、案の定、捜査は混迷を極めることになった。

 小津安二郎に関する本(通称小津本)の中には、当時の撮影スタッフである厚田雄春さんの、「あれは池上線」という言葉が残っている。
 わたしの実家は池上線の沿線にあった。
 子どもの頃は線路に釘を置いて、手裏剣を作ったり、線路わきの土手で「のびろ」を採集したり、あるいはストライキの時などは電車道を歩いたりといった思い出がある。
「のびろ」といっても分からない人が多いかもしれないが、エシャレットのような球根状の根元を持った草で、小さなラッキョウのような球根に味噌をつけて食べると美味しいのである。

 わたしが子どもの頃は、鉄道はよくストライキをやっていた。
 鉄道のストライキは、子どもにとっては、線路が解放される日でもあった。
 まっすぐに延びる平行な線路は、どこまで続いていくのだろうかと、胸を躍らせた。
 そんな池上線が移りこんでいる映像を、友人たちと一緒に、「なつかしいなぁ」と呟きながら見ていた。

 そうすると、友人のひとりが「これ、池上線じゃないぞ」と言いだした。何度も、映像を巻き戻して見ているうちに、わたしも、それは池上線じゃないかもしれないと思い始めたのである。
 では、何線なのかといえば、今は別の系統になってしまっている目蒲線である。
 目蒲線とは、その名前の通り、目黒と蒲田をつないでいた東急電鉄の路線で、蒲田と五反田をつないでいた池上線と並行して走っていた。
 わたしの家は池上線と、目蒲線に挟まれたエリアの池上線寄りのところにあったが、目黒へ出るときには目蒲線を利用した。わたしが通っていた高等学校(小山台高校)も、武蔵小山という目蒲線の駅前にあったので、高校時代は毎日、この電車を利用していた。

 乗車駅は、内田樹が住んでいた「下丸子」か、その隣駅の「鵜の木」であった。わたしの実家は、鵜の木からも、下丸子からも徒歩10分程度でたどり着く距離にあった。
 わたしたちは、俄然、映画の中を走っている電車が何線であるのかを突き止めたい衝動にかられた。
 最初は、映像をストップさせて、当時の電車の写真と見比べたり、インターネットのなかを渉猟したりしていたのだが、敵もさるもので、なかなか尻尾をつかませてはくれなかった。電車の前面に設置された終着駅を示す方向盤の文字も、映像からは読み取ることができなかった。
 電車の映像からだけでは、それが池上線なのか、目蒲線なのかの判断がつかなかった。

 そこで、わたしたちは、その電車が走っている背景の景色を特定しようとしたのである。そうすると、ジグソーパズルのピースが嵌るように、いくつかのピースが現在の風景の中に嵌ったのである。たとえば、それは送電線であったり、風呂屋の煙突だったりした。
 そして、今は暗渠になっている六郷用水路の水面が、画面のあちらこちらに映し出されていることを発見した。
 鉄道路線と、六郷用水路の位置関係から、様々なことがわかってきた。
結論から言えば、映画に映し出されていたのは、池上線と目蒲線の両方であった。ほぼ、半分半分。
 小津映画の話は、すでに別な場所で書いているし、遠からず一冊の本にまとめるつもりなので、これ以上は書かない。



 GHQの映像に話を戻そう。あの映像の中に、わたしたちがこのときの捜査で歩いた場所がいくつか映し出されていた。いや、このときの捜査というよりは、その発展形として出来た隣町探偵団という、蒲田周辺を探索する爺さん探偵たちが歩きまわった場所である。
 その一つが、羽田浦と呼ばれた、町工場が並んでいた町であった。映像の中には、羽田飛行場への通路にあった羽田弁天橋から産業道路に出るまでの通りの光景が、紛れもなく映し出されていることが分かった。

 羽田弁天橋といえば、70年安保闘争で、機動隊と全学連が橋上の攻防を繰り広げた場所である。1967年10月8日、中核派の学生・山崎博昭(京都大学)が仲間の車両に轢かれて死亡し、学生17人、警察官646人が重軽傷を負った。
 まだ、高校生だったわたしは、その光景の一部始終をテレビ画面で見ていた。
 機動隊の攻撃で、学生たちは、橋の下を流れる海老取川に追い込まれたり、橋から川へ落下する学生もいたように記憶している。

 現在は、羽田から蒲田へ抜ける道路は、フィルムに映し出されている道路と並行して走っている環状八号線に続く道が主流になっている。こちらは、稲荷橋を渡って大鳥居へ向かう。
 この二本の通りには、町工場がずらりと並んでおり、往時の「ものづくり大田」の面影は今も残っている。



 しばらく後、フィルムを発見したKさんが、facebook上で「映像考古学会」というものを作りませんかと呼びかけた。
 そこには「会長は、ヒラカワ先生にお願いしたい」という一文が添えられていた。
 わたしは、この呼びかけにすぐに反応し、ではオフ会を[隣町珈琲]でやりましょうと返した。
 後日、好事家たちが、[隣町珈琲]に集合した。
 その姿、顔立ちを見るだけで、その道のプロであることがわかるような面々であった。
 そして、その会合において、GHQフィルムが映し出された通りが、確かに蒲田から産業道路に繋がる通りであることを示す証拠が提出されたのである。
 
 さらに、このフィルムの正体が何であったのかについての驚くべき答えが、Kさんから証拠品とともに示されたのである。
 驚いたことに、[隣町珈琲]に集まってきた面々のうちのひとりは、店の周辺を事前調査していた。そこでまた、ひとつの謎を発見したのである。
 そして、隣町珈琲のある荏原中延(えばらなかのぶ)という町の、わたしも知らなかった秘密まで明らかにされたのであった。
 その詳細は、次回に記すことにしよう。

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