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平川克美

平川克美/文筆家

人生の「後退期」もまた楽し。おもしろい話は家のまわりにいくらでも転がっている。 50歳を過ぎたあなたに届けたい達人の「住まい方」指南。

第28回 路地裏映画館⑩メロドラマの基本は、同じひとを二度愛するという話型の中に

シャワーのように韓国映画を浴びる

 このところ、毎日韓国映画を観ている。

 仕事終わりに自宅のある駅の一つ先の駅前にある銭湯で1日の疲れを癒し、銭湯の隣にあるスーパーで魚の切り身を買って帰る。夕食を作り、本を読みながらオヤジの一人飯を楽しむ。妻と娘は、妻の実家に集合しているが、わたしは書斎のある池上線沿線のアパートで毎晩寝泊まりしている。一家離れ離れの生活を8年も続けてると、家族の団欒というものがどういうものだったのかを忘れてしまいそうになる。一人飯が侘しくないとは言わないが、好きな食材を調理して、好きな時間に、好きな音楽を聴きながら過ごせるのは悪くはない。
 栄養のバランスを考えたり、ゆっくりとよく噛んで、会話を楽しみながら食事をするということが、億劫になっている自分に、時々水遣りをしてあげる必要は感じている。

 そんなわけで、このところは毎日、夕食を済ませ、洗い物をして、大型のテレビ画面に向き合う。それで、毎晩映画2本立てという仕儀になるわけである。
 年間にすれば、数百本の映画を観ている勘定になる。一本の映画をじっくり鑑賞するのは至福の時間だが、シャワーのように映画を浴びる生活というのも悪くはない。以前、音楽を理解するためには、一度はシャワーのように音楽を浴びる時間が必要だと大瀧詠一さんから伺ったが、その時は、それがどういうことなのかよく実感できなかった。
 
 毎日シャワーのように映画を浴びる日々が続いたおかげで、大瀧さんの言っていたことが少しわかるようになった。名作、駄作いろいろあるのは当然だが、韓国映画の水準というものがおぼろげながら理解できるようになってきたのである。いや、この国の人々が何を求めており、この国の映画人たちが何を実現しようとしているのかが分かると言ったほうが正確かもしれない。そして、どう贔屓目に見ても、日本映画は彼らの水準に遥かに及ばないところに現在の韓国映画は到達していることを実感する。
 
 何故、韓国映画人たちは、これほどの水準の映画を作り続けることができているのか。幾人かの天才的な監督や、役者がいるからだということも考えられないではないが、それなら、アメリカ映画も、日本映画も、ヨーロッパ映画も同じことである。わたしが言いたいのは、もっと別のことだ。

 映画シーンの水準を上げるのは、恐らくは少数の天才たちではない。何年もかかって、映画芸術の底上げが行われた結果なのだ。その意味では、サッカーも映画も同じである。Jリーグが発足し、海外の強豪と何度も戦う経験を積み上げ、潤沢な予算を与えられ、教育が浸透し、ファンの目が肥えて、それでやっと世界レベルのサッカーチームが出来上がった。

 釜本や、三浦カズや、中田や、本田といった際立った才能の持ち主がいても、日本サッカー界の水準は上がらなかった。今、やっと世界と同等に戦えるようになったのは、Jリーグや、その人気を背景にして中学、高校にサッカーの裾野が広がり、観客が一つ一つのプレイに対して公正な批評眼を持つまでに成長してきたからだろう。
 こんなことは、一朝一夕にできることではないし、場合によっては、南米のチームがそうであるように、国民文化の歴史と同じだけの長い時間の蓄積があったからこそ可能になるのだと思う。

 テレビはほとんど観ないのだが、この頃はやたらに日本のここが凄いとか、外国人が日本文化に憧れているのは何故かといった自国自賛の番組が目につくようになったが、こんなことを続けて、夜郎自大な感傷に浸っているうちに、その国の文化の質は見るも無残なものに変質してしまう。

 役者一つとっても、ジャニーズとか、AKB何ちゃらとか、人気だけはあるが素人に毛の生えたような(少なくとも役者としてのトレーニングと研鑽を積んでいない)タレントばかりを起用していれば、作品の質が低下するのは目に見えている。
 
 韓国の映画を観ていると、幾人かの見知った役者が違う映画に顔を出しているが、総じて演技の勉強と、研鑽を積んできた人にしか出せない味を出していることに感心する。ソン・ガンホはその代表的な例だが、ハ・ジョンウやチョン・マンシク、クァク・ドウォンといった役者が輩出されるだけの分厚い土壌があることが実感される。よほど韓国映画に精通していないと、韓国の俳優陣の名前と顔が一致しないかもしれないが、チョン・マンシクなどは、一目見れば忘れられない役者で、ヤクザの大物から、小心者の商売人まで、どんな役をやってもハマるのだから大したものである。

彼女たちの経歴

 今日、骨太な社会派のドラマは韓国の独壇場だといっても良いと思う。『国際市場で逢いましょう』、『1987―ある闘いの真実』『弁護人』『タクシー運転手』などは、どれをとっても一級の仕上がりで、観客は胸を締め付けられるような感動を受け取ることになるだろうと思う。

 ただ、わたしは、もう少しささやかな作品、通俗的なメロドラマや、ラブコメディー、アクション映画においても、いや、そういった作品にこそ、この国の映画の底力がよく出ていると思う。
 例えば最初はちょっとした誤解から始まって、誤解が誤解を呼んで予想不可能なドタバタ劇へと発展する『彼女を信じないでください』(ソウル芸術専門大学映画学科という経歴のキム・ハヌル主演)、失恋した男にかかってきた一本の間違い電話が、予想外の恋物語に発展する『マイPSパートナー』(同徳女子大学校公演芸術学部放送演芸科卒業、高麗大学言論大学院修士課程修了という経歴を持つキム・アジュン主演)、ラジオ番組を舞台にしたラブコメディー『ワンダフル・ラジオ』(成均館大学演技芸術学部で演出を学んだイ・ミンジョン主演)など、主演女優の経歴を見ただけでも、秋元康のような芸能界鵜匠に操られれたタレントとは、一線を画しているのがわかる。
 もちろん、AKB〇〇やら、乃木坂〇〇とか欅坂〇〇とかいうグループの中にも、優れたタレントはいるかもしれないが、彼女らはどこまでいってもタレントであって、役者ではないだろう。

 最近の韓国女優の中で、最も人気の高いハン・ヒョジュ(『監視者たち』で青龍映画賞・主演女優賞に輝く。東国大学演劇映画科卒業)も、役者を目指して大学で教育を受けている。それにしても、ちょっと見にはアイドルタレントの風貌だが、微細な感情の機微を表現できるこの女優の魅力は特筆に値すると思う。

 わたしは、別に学歴がどうとか言いたいわけではない。そんなものはどうでもいいし、実際に大学で学んだからといってそれが身につくと保証されたわけでもない。ただ、最初から、映画人として生きていこうと考えているものと、運よくテレビタレントになれた少女たちとでは、映画作品に対する立ち位置が違ってくるのは当然だろう。
志の違いといっても良いかもしれない。

チャールズ・チャップリン、ソン・イルゴン、アキ・カウリスマキ……

 今回は、そうした作品の一つであり、ハン・ヒョジュが主演しているメロドラマ『ただ君だけ』について少し書いてみたいと思う。

 ドラマとしては、本作は例えば『ラブ・レター』や『猟奇的な彼女』といった名作と比べれば、色々瑕疵もあると言わざるを得ないところがある。それでもわたしは、この映画が大好きであり、何度も観たいと思ってしまう。
 別にわたしが少女趣味だとか、ロマンチストだとかというわけではない。この映画には、ストーリー上の合理性に関するいくつかの無理があったとしても、汲めどもつきぬ物語の水脈が流れており、こちら側の琴線に触れずにはおれないものが描かれている。

 ストーリーを簡単に紹介しよう。
 ボクサーだったチョルミン(ソ・ジソブ)は、落ちぶれて傷害事件を起こし服役する。出所後、駐車場の管理人になったチョルミンの元に、一人の少女ジョンファ(ハン・ヒョジュ)が訪ねてくる。視力がほとんど失われてしまったジョンファは、以前の管理人からテレビドラマのストーリーを教えてもらっていたのだ。新しい管理人であるチョルミンとジョンファは、こうして偶然に出会い、逢瀬を重ね、やがて恋仲になる。

 ジョンファが完全に失明してしまう前に、角膜の移植手術をすれば目が見えるようになることを知ったチョルミンは、手術代を稼ぐために裏街道で行われている危険な格闘技の八百長試合に出場する。チョルミンは壮絶な試合を制して賞金を稼ぐのだが、八百長賭博に失敗したやくざ組織に狙われて再起不能の重傷を負う。

 チョルミンからの懸賞金で行なったジョンファの手術は成功し、ジョンファは開眼する。
 目が見えるようになったジョンファの前に、目が見えなかった時に出会ったチョルミンが偶然のように居合わせることになる。ここから先は、ぜひ映画をご覧いただきたい。チョルミンが何故危険な賭けに出てまでジョンファを救おうとしたのかについては、もう一つの伏線が絡むのだが、こちらは物語的には面白いが無理があった。

 映画好きの読者はもうお気づきだろうが、このストーリー展開は、チャールズ・チャップリンの『街の灯』とほとんど同型である。この映画の監督、ソン・イルゴンが、チャップリンへのオマージュとして(あるいはパクリとして)この作品を作ったことは明白である。男が危険なボクシングの試合に出ることで金を稼ぐというところまで同じである。ここまでストーリーを似せてしまうと、通常なら白けてしまうということもあるだろう。

 それにもかかわらず、本作は大ヒットし、多くの観客の涙を誘った。おそらくは、元のチャップリン作品について知らない観客がほとんどだったということもあろうが、大ヒットの大きな理由の一つは、この話型には単に純愛物の立て付け以上に、人の感情を揺さぶる原形的なものが潜んでいるからである。
 
 大恐慌の時代のアメリカの街の片隅で起きた出来事が、現代の韓国の街で再現されるわけだが、そのことに不自然な感じはない。いつの時代でも、どこでも、起こりうると人々に信じさせる力がこの話型のなかに潜んでいる。そして、こんなことは実際にはほとんど起こり得ないことも、誰もが知っている。そして、そうであるがゆえに、この夢物語は強い吸引力を持っているのだ。
 
 多くの場合、恋愛は勘違いであり、それを助長しているのは視覚そのものである。
 視覚の中の理想の恋人について実のところ何も知らないままに、人は勘違いのような恋愛に溺れる。美人であるとか、美男であるとか、そうした外観は、距離があってこそ意味を持つ他者の属性であって、一緒に暮らしてみれば、そうしたことはほとんど意味をなさない。至近距離で暮らしてみれば、この外観的魅力はマイナスにしか作用しなくなるということもある。その難問をくぐり抜けて運命の人と出会うためには、視覚だけではないもう一つの補助線が必要になる。

 さて、もう一人、チャップリンの作品の立て付けを借りて、ほぼ同名のタイトルの作品を作ったフィンランドの鬼才がいる。いうまでもなく、アキ・カウリスマキである。カウリスマキの『街のあかり』は、チャップリンの『街の灯』のストーリーとは全く違うものだが、そこには通底しているものがある。

 それは、最も大切なひとは、目の前にいるのだが、生きている人間の目にはそれは見えないということである。それでも目の前の人間が、自分にとってかけがえのない他者であることに気づくためには、視覚とは別の身体感覚の助けが必要だったのだ。これが、もう一つの補助線ということである。
 
 花売りの盲目の娘の目が治ってから、浮浪者に零落したチャップリンの存在に気づくのは、手を握り合った時の感触からであった。
 カウリスマキは、その部分を『街のあかり』のラストで見事に表現している。いつも女に騙されて、痛い目にあっていた主人公コイスティネンは、手の温もりを通じて、目の前にいたホットドッグスタンドの売り娘が運命の人であったことに初めて気づくのである。

 見えているがゆえに見えないものがある。見えないがゆえに、見えるものがある。生きている人間には、なかなかそのことに気付かない。
 それに気付くとき、人は同じ人を二度愛するというような奇跡を体験する。

 ただ、もう一度言っておこう。そんなことは滅多に起こらない。いや、長く、退屈な夫婦生活の終盤には、そんな奇跡が誰にでも起きるのかもしれない。

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