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仲野 徹

仲野 徹/大阪大学大学院医学系研究科教授

大阪が生んだ「世界一おもろい生命科学者」が、みんな知ってるようで意外に知らない「カラダと健康」についてフレンドリーな語り口で明らかにしていきます。

第10回 親の因果が子に報い?

第10回 親の因果が子に報い?

『疫学』という学問分野がある。広辞苑には「疾病・事故・健康状態について、地域・職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問。疫病の流行様態を研究する学問として発足。」と書いてある。ひとりひとりの病気を調べるのではなく、集団における病気の流行を調べる学問である。いまひとつなじみがないかもしれないが、時として非常な威力を発揮することがある。

 たとえば、コレラの話。19世紀の中頃、ロンドンでコレラが猛威を振るったことがある。いまでこそ、コレラはコレラ菌によってひきおこされることは子どもでも知っているが、当時はまだ病原微生物という概念もなかった時代だ。コレラがどうやってうつるか、まったくわかっていなかった。
 人口が集中して、とんでもなく不潔な町だったロンドン。いまや死語であるが、瘴気(しょうき)=病気をひきおこす悪い空気、によってひきおこされるという説が有力であった。しかし、疫学者ジョン・スノウは、この説に疑問を持ち、コレラ患者の分布を調べて『感染地図』を作成した。その結果、どの井戸の水を使っているかが、コレラの発症に大きな影響をおよぼしていることを見出した。コレラ菌の同定にはいたらなかったが、猖獗(しょうけつ)を極めていたコレラの感染を抑えこむことに大いに役立った。

 このように、疫学というマクロの目で見ると、個別の患者をみていては決してわからない、予想しなかった因果関係が見えてくることがある。こういった輝かしい歴史があるためか、戸籍や健康記録がしっかりしているためか、イギリスの公衆衛生や疫学というのは非常にすぐれている。

 サザンプトン大学の疫学者、デビッド・バーカー博士は、イングランドとウェールズの地域ごとの比較調査から、1920年ごろの新生児死亡率と40〜50年後の心筋梗塞など心血管系の死亡率に相関があることを見つけた。新生児死亡率の高かった地域ほど、生まれて半世紀ほどたってからの心血管疾患による死亡率が高かったのである。
 さすがイギリスである。保健記録がきっちりしていないとこんな研究はできない。おそらく、いまとちがって、地域住民の移動もそれほど多くなかったので、こんなことがわかったのだろう。しかし、新生児の死亡率と半世紀後になってからの心血管系の疾患の関係って、なんのこっちゃ、である。ふつう、あぁ、そうですか、で終わりそうな話だ。

 しかし、バーカー博士はさらに研究を続け、1910年から30年に生まれた男性5,000人についての追跡調査をおこなった。その結果、出生時の体重が低いほど、心血管系疾患による死亡率が高い、ということを見つけ出した。出生時の体重が低いといっても、早産、すなわち未熟児によるものではない。予定日近くに生まれたのに、体重が少ない、すなわち、お母さんのおなかのなかで栄養が悪かった赤ちゃんほど、将来、心血管系の病気にかかりやすいということがわかったのだ。
 これも、不思議ではあるが、なんのこっちゃようわからん。栄養のよかった赤ちゃんが太ったまま育って動脈硬化になるのならまだしも、逆とちゃうんか、というのが、常識的な判断だろう。だから、この論文は、発表当時、懐疑の目で見られていた。

 しかし、いろいろな国で同じような研究がおこなわれ、どの国でも同じような傾向があることがわかった。いまでは、この、胎児期における低栄養状態は、何十年もたってから、心筋梗塞、動脈硬化、糖尿病、高血圧など、さまざまな生活習慣病のリスクになる、ということは、確かな事実としてひろく受け入れられている。バーカー博士に敬意を払って、この現象は『バーカー仮説』とよばれることもある。

 もうひとつ、似たような話がある。第二次世界大戦最後の冬、ナチスドイツによって占領されていたオランダの西部は、厳冬を迎えてとんでもない饑饉に陥る。一日あたりのカロリーが500キロカロリー台にまでおちた地域もあり、2万人近くが飢餓のために亡くなった。気の毒なことだが、妊娠中にその飢えた冬を迎えた女性もいた。
 ほぼ半世紀の後、オランダの研究者たちが、バーカー博士のいたサザンプトン大学などと共同して、饑饉の時に妊娠していた女性から生まれた人たちについての疫学調査をおこなった。その結果、子宮の中で饑饉を経験した赤ちゃんは、50年の後、糖尿病、肥満、心血管疾患などに罹りやすいことがわかったのである。

 どうしてこのようなことが起きるのだろう? 栄養状態が悪くなっても、遺伝子に突然変異などおきないのである。だから、ゲノムDNAの塩基配列に変化が生じたわけではない(ゲノムとか、DNAとか、塩基配列とか、なんのこっちゃわからん、という方は、前回(第9回)の『自分の「ゲノム」を知りたいですか』を読んでみてください)。
 まだ、完全にわかっている訳ではないけれども、このような現象は、『エピジェネティクス』という概念で説明できると考えられている。これは説明し出すとえらく長くなるので、興味のある人は、拙著『エピジェネティクス』(岩波新書)を読んでいただけたら、誠にうれしゅうございます。
 ここでちょっと宣伝。この本、あちこちの新聞でも書評にとりあげられ、なかなか好評なのですが、むずかしいてようわからん、というお叱りも受けています。どうも、完全に理解しようとする生真面目な人ほどそういう印象を持たれるようです。お買い求めいただいた節には、そんなに一生懸命読まずに(?)、ぼんやりわかったような気がする、という程度で読み進めていただけたら幸いでございます。おもろい小ネタもいっぱい仕込んでありますし。はい、話をもどします。

 エピジェネティクスの定義はいろいろあるけれど、DNAの塩基配列の変化なしに細胞がある状態を記憶する現象、と言うことができる。そのエピジェネティクスでいくと、バーカー仮説でも、オランダの饑饉でも、お母さんのおなかの中にいた時の状態が、ある種の記憶として細胞に刻み込まれ、それが、半世紀もたってから、病気の罹りやすさに影響を与えると考えられるのだ。

 では、なにを記憶しているのか? それは「栄養を倹約しなければならない」という環境だ。妊娠の初期に、低栄養状態にさらされると、その状態にあわせて適応する。いいかえると、少ない栄養で生きていくのに適した細胞から成り立った体になってしまうのである。
 生まれてからも、そのような低栄養状態が続くのであれば問題はない。というよりも、エネルギーを倹約できるのだから、望ましいことかもしれない。ところが、生まれてからの栄養状態が良ければ、いや、普通程度であっても、相対的には栄養過多になってしまう。そのことが、肥満や糖尿病といった生活習慣病のなりやすさにつながっているのだろう、と考えられている。

 我が国における生まれたての赤ん坊の体重はどれくらいか。1950年代の平均体重は、3,100グラムであったのが、70年代にかけて100グラムほど増加。そこから減少に転じて、いまでは、2,900グラムと、ピーク時にくらべておおよそ200グラム少なくなっている。その原因を特定するのはむずかしいけれど、女性の痩せ願望が大きいからだろうと推察されている。
 日本では、昔から、小さく産んで大きく育てる、のがよしとされてきた。妊娠中に太りすぎると、高血糖になったりすることもあって、母子ともにとってよろしくないのは間違いない。けれど、「倹約表現型」の考えからいくと、小さすぎるのもよろしくない。栄養が少なすぎても、遠い将来、生活習慣病になりやすくなるというリスクを背負わせかねないのである。なにごとも中庸が肝心なのだ。

 体質、というものは、従来、遺伝子とかゲノムとかの問題として語られることが多かった。もちろんそれは最重要である。しかし、ここに書いたように、それだけではなくて、エピジェネティクスによる細胞の記憶、というものも重要であろう、というようになってきている。ほかにも、アルコールや喫煙も、エピジェネティクスを介して、赤ちゃんにいろいろな影響をあたえるかもしれない、と考える人もいる。
 ちょっと逆向きに考えてみよう。うまく細胞の記憶を変えてやることができたら、すばらしいと思われないだろうか。ひょっとしたら、なにかの薬剤を使って、細胞の記憶を書き換えることができたら、倹約表現型とは逆に、どんどんエネルギー代謝をよくするような記憶を導入することができるかもしれない。今の段階では、あくまでもフィクションだけれど、可能性という点ではゼロではない。

 最後にもうひとつ、おなかの中の赤ちゃんだけでなく、父親の栄養状態が子どもの健康に影響を与える可能性があるというお話。すこし特殊な状況なのではあるが、スウェーデンでの疫学記録から、祖父の飽食が、息子や孫に短命をもたらしたという集落が知られている。実験的には、高脂肪食で太らせた雄ネズミから生まれた娘ネズミは、糖尿病になりやすい状態になることが報告されている。
 不思議なことである。ただ、先に述べた倹約表現型仮説にしても、この栄養によって獲得された形質の遺伝にしても、おもしろい現象なのだけれど、残念ながら、いまのところ、どの細胞がなにをどのように記憶するのか、について、正確なことはわかっていない。それどころか、いずれわかるようになるかどうかすら、現時点ではわからない。

 子宮内での経験といい、父からの遺伝といい、まるで、親の因果が子に報い、である。いやはや、なんだかすごすぎるのである。子孫に悪しき影響を残さないためにも、健康状態に気をつけんとあかんのやなぁ、と思う。とはいうても、わたしは、もちろん妊娠できないし、子供をつくるあてもないから、関係ないかもしれんけど。

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