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仲野 徹

仲野 徹/大阪大学大学院医学系研究科教授

大阪が生んだ「世界一おもろい生命科学者」が、みんな知ってるようで意外に知らない「カラダと健康」についてフレンドリーな語り口で明らかにしていきます。

第28回 ヒマラヤ高地で考えたこと

 平成から令和にかけての10連休はヒマラヤのランタン谷へトレッキングにいってきました。ランタン谷は、ネパールの首都カトマンズの北、チベットとの国境近くにある、シャクナゲと山々の眺望が美しい谷です。4年前に大地震に襲われて、大きな被害があったことを覚えておられる方もおられるでしょう。
 ヒマラヤにしてはたいした高度ではない、とはいえ、標高3千メートルから4千メートルあたりを歩いてきたのですが、天候に恵まれ、最高のトレッキングでした。

 この高度になると、高山病の可能性があるので、高度順化をしながらゆっくり登っていきます。なにを好んでそんなところへ行くのかと思われるかもしれませんが、好きやからしゃあないです。高山病は個人差が大きくて、高度2000メートルくらいから症状が出る人もいます。急速に高度を上げたり、はげしい運動をしたり、アルコールを摂取したら、高山病になりやすいことがわかっています。

 経験ある方は多くないかもしれませんが、頭痛や吐き気、眠気など、二日酔いみたいな症状がでます。無理をしなければ自然に治っていきますが、悪くすると、脳浮腫や肺水腫をひきおこし、脳や肺に水がたまって生命に危険がおよぶ場合もあります。治療としては、高度を下げること、につきます。

 富士山に登った時、頂上付近で悲惨な状況を目にしたことがあります。高山病で苦しかったのでしょう、小学校3年生くらいの男の子が帰りたいと泣きわめいていました。大泣きしたりすると換気が悪くなって、いちだんと苦しくなりますが、子どもにはそんなことわかりません。教えてあげたけれど、苦しくて耳にはいらないようでした。あの子ども、きっと「一生、山には登らない」と固く決意したでしょうね。かわいそうに。


 高山病の原因は低酸素です。というのは、高いところへいくほど、酸素の濃度が低くなるからです。どれくらいかというと、平地に比べて、2000メートルでは8割弱、富士山頂の3776メートルで6割強、5500メートルで半分、エベレストの頂上だと約3分の1しかありません。

 そんなですから、無酸素でエベレストに登頂できる人がいるというのは驚くべきことです。初めてエベレスト無酸素登頂に成功したラインホルト・メスナー(1944〜)は、最後の100メートルに1時間も要しました。超人と呼ばれるメスナーをもってしても10歩か15歩進んでは雪の中に倒れて休憩した、というのですから、いかに過酷かがわかります。どんだけ息が苦しいんでしょう。

『人間はどこまで耐えられるか』(フランセス・アッシュクロフト著/河出文庫)という面白い本があります。上司のパワハラにどれくらい耐えられるか、とかではなくて、どのくらい高く登れるか、どのくらい深く潜れるか、どれくらいの暑さ寒さに耐えられるか、などについての本です。その本によると、人類が無酸素で到達できる高さは、おおよそエベレストくらいが限界であるとされています。もちろん偶然の一致なのですが、こんな偶然を知ると、神様がいてて人類の限界を試してるんとちゃうか、と妄想したくなります。

 鳥類にはすごいのがいて、オグロヅルなどは、エベレストの上空を軽々と飛んでいきます。哺乳類と鳥類では肺の構造がちがっていて、鳥類の方が、換気の効率がはるかにいいのです。だから血液中の酸素濃度を高く保てることができ、そのような離れ業が可能になっています。ヒマラヤ遊覧飛行に行ってエベレストを横から眺めましたけど、エベレストを見下ろしながら自力で自在に飛ぶって気持ちよろしいやろなぁ。

 高所へいくと、さまざまな適応が生じます。まずは、呼吸数が増加し、脈拍が速くなります。そうすることによって、できるだけ酸素をたくさん取り込み、体のすみずみまで酸素を効率よくいきわたらせようとするのです。もうひとつ、重要な適応があります。それは酸素の運搬をするヘモグロビンの増加、赤血球を増やすことです。

 ピサロが16世紀にインカ帝国を征服し、金銀の探鉱とスペインの領土拡大にたくさんの人がかり出されました。それらの人々の多くが、原因不明で時には致命的な「高地病」に倒れました。最初は高山にある妖気によると考えられましたが、イエズス会の神父アコスタは「空気中の元素がこの土地では希薄で減少しているため、人間が呼吸するには適さない」と正しく指摘しました。

 ようやく19世紀になって、高山へいくと赤血球が増えてくる、ということがわかってきます。どうしてそのような現象がおきるかの鍵はエリスロポエチンが握っています。エリスロ(erythro)は「赤い」を意味する接頭語、ポエチン(poietin)は「作る」を意味するpoiesisに由来する言葉で、あわせて「赤いものを作る物質」。すなわち、エリスロポエチンとは、赤血球の産生を促すホルモンなのです。


 エリスロポエチンは腎臓で作られます。ヒトの血液細胞は骨髄で産生されますから、どうしてそんな離れた場所で作られるのかと、すこし不思議な気がします。が、これは進化的に考えると納得できます。魚類では、血液細胞は骨髄ではなくて腎臓で作られるのです。このような太古のなごりを引きずっていて、ヒトでもエリスロポエチンは腎臓で作られ、骨髄の造血細胞に機能するということなのです。

 低酸素状態になると、それを感知するタンパクであるHIF-1の量が増加し、その働きによってエリスロポエチンがたくさん作られます。そして、赤血球の量がそれに反応して増えるのです。いろいろな研究からエリスロポエチンなる物質が存在することはわかっていたのですが、その純化は、熊本大学医学部の宮家隆次先生が、1976年にシカゴ大学のゴールドワッサー教授の下で成し遂げられました。

 再生不良性貧血は、造血幹細胞の異常で、赤血球、血小板、白血球がうまく作れなくなる病気です。貧血になりますから、赤血球の数を増やそうとエリスロポエチンが大量に分泌されます。しかし、造血幹細胞に異常があるので、それに反応して赤血球が作られることはありません。ですから、再生不良性貧血の患者さんでは、血中のエリスロポエチン濃度が非常に高いままで保たれます。その結果、尿に比較的大量のエリスロポエチンが排泄されるのです。

 宮家先生は、そのような患者さんの尿からエリスロポエチンの精製に成功されました。なんと、約2トンもの尿を処理されたというのですから、頭が下がります。そのサンプルを元にエリスロポエチンの遺伝子クローニングがおこなわれ、今ではお薬として使われるようになっています。おもに使われるのは、腎不全の患者さんです。エリスロポエチンは腎臓で作られるので、腎臓が悪くなると、その産生も低下し、貧血-より詳しくは腎性貧血といいます-になってしまうからです。

 患者さんの治療に使えるのは喜ばしいことなのですが、エリスロポエチンは血液ドーピングに使われることでも有名です。マラソンや自転車、スキーの距離競技などでは、トレーニングはもちろんですが、筋肉に酸素を大量に供給することも重要です。そのためには赤血球を増やすのが手っ取り早い。その目的で、エリスロポエチンの投与や、前もって保存しておいた自分の血液を輸血する自己血輸血がおこなわれることがあって、これらをまとめて血液ドーピングといいます。もちろん規則違反です。

 なかでも有名なのは、自転車競技のランス・アームストロング(1971〜)のケースです。アームストロングはフランスの自転車ロードレース、ツール・ド・フランスで7連覇という偉業を達成しました。その速さは驚異的で、上り坂でのスパートなど、併走していた選手が呆然とするほどでした。

 アームストロングは、精巣のがんを克服して自転車競技に復帰し、その快挙を成し遂げました。ですから、その活躍は多くのがん患者を勇気づける希望の星でもありました。あまりの強さから、ずっとドーピングの噂があったのですが、がん治療で薬剤の恐ろしさを知っている自分がそのようなことをするはずがない、と強く否定していました。

 しかし、実際にはエリスロポエチンを使うなど、血液ドーピングをおこなっていたのです。これは、アームストロングをサポートしていた同僚、タイラー・ハミルトンの告発によって明らかになりました。アームストロングは認めませんでしたが、査問委員会に出席しなかったことからクロと判断され、7連覇も幻の記録となってしまいました。がっかりしたがん患者さんも多かったはずで、罪なことです。

 もちろん、エリスロポエチンもドーピング検査の対象です。しかし、それをすり抜けるために、医師が非常に巧妙なスケジュールを組んでエリスロポエチンを投与し、検査にひっかからないようにしていたのです。このあたりの生々しい話は、同僚のハミルトン自身が書いた『シークレット・レース』(ダニエル・コイルとの共著/小学館文庫)に詳しいので、興味のある方は読んでみてください。

 ドーピングは選手間に不公平をもたらします。しかし、血液ドーピングの問題はそれだけではありません。赤血球数が増えすぎた状態を多血症といいますが、そうなると血液が固まりやすくなって、脳や肺などに血栓ができて梗塞をひきおこす危険性が高くなります。命に関わるトラブルになりかねません。だから、決しておこなうべきではないのです。


 オリンピック選手らがおこなう高地トレーニングも赤血球を増やす方法です。1968年、標高2000メートルを超えるメキシコシティーでのオリンピックが契機になって始められたもので、マラソンの君原健二選手(1941〜)がメキシコオリンピックで銀メダルを獲得できたのも、メキシコシティーや富士山、乗鞍などでの高地トレーニングのおかげとされています。これは薬剤を使ったりするわけではありませんから、ドーピングではありません。

 高地トレーニングというから、高地でひたすらに運動するのかと思っていたのですが、そうでもないようです。酸素供給能も重要ですが、それだけで速くなるわけではありません。高地では酸素濃度が低すぎて十分な練習ができませんし、疲労回復に時間がかかります。赤血球の数が増えても、トレーニング不足になったら、何をしていることかわかりません。なので、高地に滞在して、すこし高度を下げたところでトレーニングをおこなうという方法がとられます。
 他にも、人工的に低酸素にする施設が利用されることもあります。いずれにしても、書いてるだけで息が苦しくなってきそうで、凡人にはとてもできそうにありませんわ。

 チベットやアンデス、エチオピアなど、地球上では1億4千万人もの人々が高度2500メートル以上の場所に住んでいます。なんか、すごいですね。これも何を好んでという気がしますが、やむにやまれぬ事情があったのでしょう。そのような人たちの間では、赤血球が増えていると考えるのが普通です。ところが、不思議なことに、必ずしもそうではありません。アンデスの高地住民は赤血球が多いのですが、チベット系の高地住民ではそんなことがありません。はて、どうしてそうなっているのでしょう?

 じつは、チベット系の高地住民には特定の遺伝子型があって、その遺伝子型を持っていると、先に紹介した低酸素に反応するタンパクであるHIF1があまり機能しなくなります。その結果、エリスロポエチンがあまり作られず、赤血球数が増えないのです。

 酸素濃度が平地の6割くらいしかないのに赤血球が増えなかったら苦しいだろうという気がしますが、大丈夫なのです。ヒマラヤ登山で大活躍するシェルパ族をご存じでしょう。シェルパ族の人たちも赤血球数は多くありませんが、高地での運動能力は抜群です。赤血球の数は多くないけれど、血流の増加や換気の効率化などによって酸素供給を補っているからです。

 どうして、赤血球数が増えないような遺伝子型が広まったかというと、多血症による危険性が原因だと考えられています。ドーピングのところで書いたように、多血症になると血栓ができやすくなります。そのデメリットと赤血球増加によるメリットが進化的に天秤にかけられた結果、チベット高地の居住者では赤血球を増やさない方向への進化が選択された訳です。驚いたことに、このような進化は、わずか数千年の間、進化学的な意味でいうとほんの短い期間におこったものです。いやぁ、なんだかすごいと思われませんか?

 すごいといえば、ランタン谷トレッキングでのポーターさんたちの身体能力には目を見張るものがありました。50~60キロもの荷物を背負って、数キロのリュックの我々よりも速く歩きます。中には、歩きにくいだろうにサンダル履きの人もいます。お金がたまったら登山靴を買うそうで、見ていてなんだか申し訳なくなりました。

 パルスオキシメーターという、血液中の酸素飽和度を測る器具があります。高所のトレッキングツアーでは必ず携行されていて、健康チェックに適宜測定します。ごく普通にしているポーターさんたちに測ってもらったら、大きく深呼吸をする我々の数値よりも優れていてびっくり。やっぱり何かがちがうんですなぁ。 ということで、楽しいだけでなく、勉強にもなったトレッキングでありました。

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