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近藤雄生

近藤雄生/ライター

子どもができると夫や妻は「親」になる。 海外で5年間、放浪の旅を続けて帰国した「遊牧夫婦」が、やがて「遊牧家族」に変わっていく日々を。

第1回 わが家の一番長い日

 手術室に移ると、状況は一気に進展した。
 分娩室で何時間も悲痛の叫びを繰り返していた妻の顔も、少し穏やかになっていた。ベッドに横たわった彼女のお腹にメスが入る。「うわ、痛そう……」と見ていると、彼女はまったく何事も起きていないような顔で聞いてくる。
 「いま、どうなってるの?」
 「……お腹、すごいことになってるよ。何も感じないの?」
 「うん、何も感じひん」
 医学ってなんてすごいんだ。私は心から驚いた。
 時計を見るとすでに午後8時。長い一日がいまようやく終わろうとしていた――。

 破水したのはこの前夜の午前2時のことだった。すぐにタクシーで病院に向かったが、着いたときにはすでに陣痛が始まっていた。展開は早く、経過は順調だった。「朝ごはん時には生まれてるかもね」。時折そんな話もした。痛いけれどあともう少し。そう思って妻はがんばった。しかしそこから先に進まなかった。
 妻は、いつ終わるとも知れぬ痛みの中を、苦しみ抜き、耐えに耐えた。が、生まれ出ようとする娘の頭がどうしても骨盤を抜けることができないらしい。昼もすぎ、夕方になった。
「もう無理です……」
 切るなら早く切ってほしい。あまりの痛みに、妻は声を絞り出しながらそう言った。医者はなんとか自然分娩できる道を探ってくれたが、やはりどうしても難しいようだった。「帝王切開にしてもいいですか」。医者にそう告げられると、妻は、頬の横から涙をぽとぽと落としながら、無言で頷いた。そのときすでに午後7時45分。破水から18時間近くが経っていた。
 これだけがんばったのにお腹を切らざるを得ないことがかわいそうでならなかった。でもこれでやっと妻は痛みから解放される。医者や看護師が急いで準備を進める中、妻はほっとした表情で、赤くなった目を静かにつぶって待っていた。

 そうして手術室へと移された妻が、いますっかり穏やかな顔で医者に身を任せている。
 女性ってなんてすごいんだ。妻に対して心から尊敬の念が沸き上がる。と同時に、何もできずに見ているだけの自分はいったい何なんだろうと猛烈な無力感に襲われた。
 と、そのとき、スルスルーッと飛び出すように、妻のお腹の上に赤ん坊の姿が現れた。
 「生まれましたよ!」
 看護師が、両手にその身体を抱えながら声を出した。濡れて頭に張り付いた髪の毛。白っぽい付着物。赤黒い身体。苦労して苦労して、やっと姿を見せてくれた娘を見ると、妻はその顔を見つめにっこりと笑いながら、大粒の涙をこぼしていた。
 「お父さん、こっちに来てくださいね」
 娘を抱えた看護師について、妻の足元にある小さなベッドに駆け寄った。そのベッドの上で娘は初めて、全身を震わせるようにして泣き声を上げた。すでに妻の身体から切り離され、役割を終えたへその緒に、私が形だけはさみを入れた。私も涙が溢れ出し、何も話すことができなくなった。
 そうして私は、父親になった。2009年12月のことである。

                              
 妻と私が、5年半に渡った長旅から日本に戻ってきたのは、そのまだ1年ほど前のことでしかなかった。
 旅を暮らしにしたい。そんな夢のようなことを思って日本を出たのは結婚直後の2003年6月のことだった。私は26歳、妻は27歳。それから私たちの生活はずっと、旅の中にあったのだ。
 オーストラリアに住み、東南アジアを縦断し、中国に住み、ユーラシア大陸を横断した。その間中、私は物書きとして文章を書き、妻は中国で就職もした。そうして、異国を転々としながらも仕事をして、「遊牧民」のような暮らしを続けた。
 半年後はどこで何をしているのかわからない。その不安定さが自分にはとても心地よかった。いつまでもそうして暮らしたいという気持ちもあったし、実際それが不可能でないこともわかってきた。
 しかし、時がたち、年を重ねていくうちに、少しずつ気持ちが変わってきた。旅に倦み、感動がなくなり、疲労感がたまってくる。そしていつしか、自分たちにとって日本だけが、世界で唯一の特別な場所であることに気づかされる。日本でじっくりと生活したい。そんな気持ちがいよいよ強くなってきたとき、私たちは心を決めた。「帰ろう」と。そして、アフリカのマラウィから、急きょ日本に飛んだのだ。妻も私も32歳になっていた。

 日本に帰ると、とにかく生活を成り立たせるために旅する以上に動き回らなければならなかった。まずは京都に住むことが、京都人である妻の強い希望で決定した。そしてひとまず妻の実家に世話になりつつ、私も妻もすぐに職探しに着手した。
 私は、物書きとしてやっていきたいと考えていたが、「ライターで食べていけへんのやったら就職しいや」という妻の言葉に反論もできず、とりあえずは安定した仕事を見つけるしかないと思っていた。しかし、就職はそう甘くないことがすぐにわかった。学生を終えて就職せずに5年半の旅に出た三十男をほしい企業は予想通り多くはなかった。ただその現実は、逆に私にとってはチャンスともいえた。「就職できないからライターで食べるしかない」という状況になったからだ。私はいよいよ物書きを貫く覚悟を決めた。
 一方、社会人経験も豊富な妻は、比較的すぐに仕事が決まった。京都の大学で、英語を使う事務職員の募集がちょうどあり、採ってもらえることになったのだ。妻の経験と興味にちょうどよく合う仕事だった。
 仕事を探すと同時に、部屋探しもした。妻が主導し、かなりいろいろ見た挙句、市内の中心近くになかなか素敵な2LDKの部屋が見つかった。便利な上に、京都らしい風情もあり、特に自分のような「よそさん」にはうってつけの場所だった。私にとって京都はどこか異国のようで、旅が続いているような気分にもなった。
 そうして、なんとか帰国から2か月ほどで京都での新生活の基盤ができた。2008年12月のことである。結婚6年目に訪れた初めての日本での二人暮らし。子どもが生まれたのは、そのちょうど1年後のことだった。

 妻は術後のあれこれや麻酔があるために、もちろんすぐには起きられない。妻と別れ、私は、娘を抱いた看護師について別室に行った。そこで娘は、簡単に状態のチェックを受ける。体重、身長を測り、指の数を確かめる。そのほか目に見える範囲で、何かないかを確認する。「うん、何も問題ないですね」。看護師に笑顔でそう言われたあと、服とタオルでくるまれた娘をゆっくりと渡された。
 看護師に言われる通りに、ひじの内側で首をしっかりと支えながらそっと娘を抱いてみる。娘は、目をつぶって両腕を頭の横に上げた姿で、指や足をひっきりなしに動かしている。呼吸するのも慣れてなく、ときどき苦しそうに息をする。全身で生きようとしているのが腕を通して伝わってくる。
 1時間前には、彼女はまだ妻の子宮の中にいた。羊水の中で肺呼吸もできない状態だった。それが突然空気中にさらけ出されることで、人生が始まったのだ。これから娘のこの小さな心臓は長ければ100年という時間、止まることなく打ち続ける。私はその重みに圧倒されつつ、彼女の長い一生の始まりの瞬間に立ち会えた感動に満たされていた。
 娘の目をじっと見つめ、「おーい」と何度も呼びかけてみた。きっと目はまだぼんやりとしか見えていない。耳は聞こえているらしいが、私が誰かはわかるはずもない。ただ私は、娘に呼びかけることで、自分が父親であるということを自分自身に言い聞かせようとしていたのかもしれない。このときまだ、父親という自覚は全く沸いてきてはいなかったのだ。

 人を育てるというのはどういうことなのか。子育てとはどれほどの仕事なのか。私には、何一つわかっていない。ただ、必死に生きようとする娘の姿を見ながら私は、長旅を終えた自分たちの人生が、いま大きく動き出したことを実感していた。

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