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近藤雄生

近藤雄生/ライター

子どもができると夫や妻は「親」になる。 海外で5年間、放浪の旅を続けて帰国した「遊牧夫婦」が、やがて「遊牧家族」に変わっていく日々を。

第26回 子どもへの「負荷」ってなんだろう

 年長組にいる次女が、最近再び、保育園に行かなくなった。「再び」というのは、ちょうど1年前の同じ時期にも同じようなことがあったからだ。

 この連載にもすでに書いたが、昨年保育園に行きたがらなくなったときは、大きな地震が起きた直後だったため、地震が関係しているのかもと考えた。結局、地震に原因を求めることが難しいほど彼女の不登園は長引いて、理由はよくわからなくなったのだが、そこそこ行ってくれるようになるまでに2か月ほどかかり、毎日安定して行くようになるまでにはさらにもう1か月ほどの時間が必要だった。

 原因ははっきりしない、というか、安易に明確な原因を求めるべきではないようにも思った。ただ、あえて、その理由らしきものを言語化しようとすれば、自分の意思をはっきりと伝えることがうまくできず、友だちや先生と思うようにコミュニケーションが取れないことが、彼女にとって負担になっていたのではないかと想像した。

 その時期を脱した後も、周囲とあまり積極的に話したがらないのは変わらずだったが、とりあえず毎日スムーズに行ってくれるようにはなったため、何らかの壁を乗り越えたのだろうと思っていた。そして今年の4月、年度が替わり年長組になってからは、朝、保育園に送るとき、先生に抱っこされなければ別れられない、ということもなくなり、あっさり別れて、友だちと遊ぶことができるようになったため、これでもう行きたがらなくなるようなこともないだろうと安心していた。

 しかし安定した状態は、今年の6月半ばに急変した。去年と驚くほど同じ時期に、去年よりも激しく行きたがらなくなったのだ。


 ある週開けに、行きたくないと言い出して、ひとまず保育園まで連れていったものの、どうやっても別れることができず、仕方なく連れて帰った。その日を発端に、日々、行きたくなさは増していき、基本行かなくなってしまった。朝なんとか保育園まで行ってはまた一緒に帰ってくるという連続だった。そうした中で、水族館への遠足があり、それには行きたそうにしていたのだけれど、不運にもその朝、本当に体調を崩してしまった。

 なんとか保育園までは行き、本人も行きたい感じではあったものの、どうにも体調が悪くて、泣く泣く断念して帰宅した。すると午後、熱も上がってきたので夕方病院に連れていくと、溶連菌に感染していたことが判明した。そしてそれ以降、体調が戻っても、行きたくないという気持ちは、さらに上昇したようだった。

 安易に原因を求めるべきではないと思いつつも、どうしてだろうとつい考えてしまう。元号が平成から令和に変わった時の長い連休のせいじゃないかなどとも想像した。しかしやはり、そんなことでは説明できる気がしない。なんとなくそれっぽい原因を無理やりでっち上げて納得しようとすれば、それこそ問題の本質を見誤るだろう。
 理由はどうあれ、とにかく次女は行きたくないのだ。その気持ちをできる限り理解しようと努め、向き合うことが大切なのだろうと思う。

 個人的には、行きたくないのであれば無理に行く必要はないと思っている。娘にも彼女なりの思いや苦悩があるのであり、その意思を尊重したい。また、保育園の場合、行ってくれと説得する理由が最終的には、行ってくれないと仕事ができないというこちら側の理由に行きつくため、子どもを無理強いすることにどうしても腰が引けてしまう。

 それでも、じゃあ、行かなくていいよ、とすんなり言うことも容易にはできない。仕事ができなくなるというこちら側の事情は、長引けば決して軽視できないということもあるし、何よりも、行きたくないといえば行かなくていい、という状況にすることが果たして子どもにとっていいのかどうか、自分自身わからなくなっている部分があるからだ。

 行きたくなければ、学校には行かなくていい。というのは最近よく聞く言葉だし、自分自身、学校でも保育園でも、基本的にそう思っているのは前述の通りだ。実際に学校に行きたくないという意思を貫き、どう生きればいいかを手探りで探した結果、その人なりの道が開けていった人を何人も知っている。
 また、学校というシステムが誰にでも合うものではないことはよくわかるし、無理やり行かせても、決して本人にプラスにはなっていないように見えるケースも多いからだ。

 だがその一方で、学校、あるいは保育園でも、集団生活を送っていれば、何らかの負荷がかかったり、我慢しないといけないことが生じたりするのは誰にとっても避けられないことだと思う。それゆえに、もし子どもに学校なりの生活で何らかの負荷がかかっていたとして、それがおそらくそれほど大きくはないだろうという場合、その度に、行きたくないのなら行かなくていい、としていたら、乗り越えるべき負荷を乗り越えられる力を身につける機会を失うような気がするし、結果、将来、社会で生きづらくなるのではないかとも危惧してしまう。
 社会の中で、他人とともに生きていくことは、常にそれなりに負荷がかかるものだからだ。


 近年、学校では、子どもに負荷がかかることが極端なまでに避けられているような気がする。たとえば、友だちを呼ぶときに、呼び捨てだと攻撃的に受け取られる可能性があるからダメだとか、あだ名で呼んではいけない、などと決められているという例も聞く。

 確かに、このようにルールを作れば、おかしなあだ名をつけられていじめられる子どもは少なくなるのかもしれない。また呼び捨てを禁止し、互いに「くん」や「さん」をつけることを義務付ければ、なんとなく和やかな関係が築けているように見えるかもしれない。

 しかし、名前の呼び捨てが意味するところは、両者の関係性によって全く異なるし、あだ名も、いい使われ方をすれば、人と人との関係性を近づけたりする良さもあるはずだ。呼び捨てやあだ名で呼ぶことで何か問題が生じるとしても、決してそれ自体に問題の本質があるのではないだろう。注目すべきは、その奥にある本質の部分であるはずだ。

 いまは、少しでもネガティブに働く可能性のあることはすべて、教育の現場から取り去られようとしているように見える。とにかく子どもにできる限り負荷をかけないことが至上命題になっているようだ。その背後には、子どもに負荷がかかることに不平を言う親の存在や、何か少しでも問題があれば一斉に叩くメディアや世論、そして教員の多忙さといった要因があると思われるが、学校があまりにも人為的に負荷を取り除かれた環境になると、子どもたちは、社会に出たときに直面する様々な負荷に対応できなくなってしまうだろう。

 つまり、多少の負荷は、学校時代から経験しておくことが必要なのではないかとぼくは思っている。もちろんそれは、差別やいじめのようなことを許容していい、ということでは全くない。先の呼び方のことでも、いじめなどにつながるのであれば適切に対応することが必要だが、何も問題が起きないうちから先回りして、あらかじめ予防線的なルールを作りすぎない方がいいのではないかということである。


 保育園に行きたくないという次女と向き合いながら、日々そんなことを考える。そして、自分たち自身の問題となると、社会を論じるようには語れないことに気づかされる。行きたくないと言っても、ちょっと嫌そうなだけだったら無理に置いていく方がいいのか、それとも本人の意向を最大限に尊重すべきなのか。ちょっと嫌なだけなのか、本当に嫌なのかの境界はどこにあるのか、それはどう判断できるのか。本人が行きたくないと言っているのであれば、すでに負荷は十分に大きいといえるのではないだろうか……。

 結局、親として、こうするのがいいだろうと信じることをするしかない。自分の場合、仕事柄、時間を自分で調整しやすいということもあり、まずは本人が行きたいと思えるように粘り強く話をした上で、どうしても行きたくないというのであれば、その意思を尊重する、無理やり置いていくということは決してしない、というルールを課している。

 この原稿を書き進めつつあった6月最後の金曜日も、やはり難しい状況だった。午前中は、ともに保育園で過ごしながら、うまく一人で過ごしてくれるようにあれこれと策を練ったが、結局預けることはできなかった。仕事をするのはあきらめて、一緒に保育園でご飯を食べて、一緒に帰るということになった。

 そしてこの原稿を書き終えようとしている月曜日の朝(7月1日)も「保育園、いやだ」と連呼する娘を前に、妻と二人で説得を試みた。ぼくは今日は東京に行かなければならないが、妻は仕事が休みである。とりあえずお母さんと二人で保育園に行くだけ行って、いやだったら帰っていいから。そう言ったが、イスに張り付いて動かない状況に。結局なんとか、保育園まで行くことにはなったものの……。

 今週は、大学の講義にも連れていこうか。90分間静かに座っていてくれるだろうか。
 悩ましいが、おそらく本人が一番つらいはずだ。なんとか、この時期を乗り切ってほしい。

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