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近藤雄生

近藤雄生/ライター

子どもができると夫や妻は「親」になる。 海外で5年間、放浪の旅を続けて帰国した「遊牧夫婦」が、やがて「遊牧家族」に変わっていく日々を。

第15回 親父の秘訣

 先日、久々に東京の実家に泊めてもらう機会があった。
 東京には仕事でちょくちょく行くものの日帰りが多い。年に一、二度家族で行くときは、いつも泊めてもらうものの、今回のように一人で2泊するのは、随分久々だったように思う。

 両親はともに去年70歳になった。ずっと忙しく働いてきた父親も、今年の夏でついにいったん完全に退職し、家で過ごす時間を多く持てる生活が始まった。
 ぼくが久々に泊めてもらったのは、父が家にいる時間が大幅に増え、両親の新たな二人生活が始まった直後のことだ。自分は実家を離れてもう15年近くなるけれど、父親が平日も家にいるというのは、そう聞くだけで新鮮な響きがあった。

 ぼくの父親は、あの世代の多くの日本人男性と同様に、猛烈に働いてきたほうだと思う。必ずしもそのせいかはわからないが、学生時代までぼくはそれほど父親とは話す機会を持たずにいた。そして率直に言えば、ぼくは父親が苦手だった。
 確か小学4年生のときだった。当時、父親は隔週で土曜日が休みで、ぼくは父親が家にいるとどこか緊張してしまうため、父親がいない土曜日がうれしかったし、父親がいる土曜日は少し気持ちが重くなった。
 うちには父方の祖母が同居していて、ぼくが生まれてから祖母が亡くなるまでずっと一緒に暮らしていたが、ある金曜日、その祖母が台所で夕飯の片づけをしているときに、ぼくは後ろから祖母に声をかけてこう聞いた。

「明日ってお父さんがいる土曜日? いない土曜日?」
 すると振り向いた祖母が言った。
「ええと、うん、いない日よ」
 それを聞いて、ぼくが
「やったー!」

 と喜ぶと、祖母は、ぼくの顔とその後ろを交互に見ながら、気まずそうな顔で笑っていた。その様子を見て、「はっ」として振り向くと、ぼくの後ろには、父親がいたずらっ子ぽい笑顔を見せながら立っていた。
「明日はお父さんいないからな」
 そう言うと、少し不機嫌そうでもあり、悲しそうでもあるような、なんともいえない表情で笑って父は、くるりと振り向いて台所を後にした。

「まずかったね」
 苦笑いをする祖母の顔を見ながら、ぼくは、本当にまずいことをしてしまった、と胸が締め付けられるような気持ちになった。しかし、それが本音だったことは間違いなかった。
 父がいまそのことを覚えているのか、また、そのときどのように受け止めたのか、訊いたことはない。もしかしたら、全く気にしていなかったかもしれない。しかしぼくにとっては、30年近くたったいまも鮮明に覚えているほど、気まずい出来事だったのだ。

 それからおそらく大学時代くらいまで、決して関係が悪かったわけではないけれど、父親に対するそのような気持ちはそれほど変わらなかったように思う。そして結局、学生生活を終えて26歳で結婚して妻と二人で長い旅へと出発するまで実家に世話になったのであるが、それまで父親と二人で出歩いたり話したりということはほとんどなかったし、自分としてもそういう状況になることを好まなかった。 

 変化があったのは、自分が5年間の海外生活をしている間、たまに日本に帰ってきたときのことだった。どういう流れだったのか、父と二人で電車に乗って実家に帰ったりすることがあり、そのとき初めて、何の違和感もなく二人で話し、純粋に楽しく家まで帰ることができたのである。話しながら、父が自分のことを気にしてくれていることが感じられた。ぼくもまた、久々に会う父と近況を交し合えることがうれしかった。

 1年以上振りぐらいに会うと、父も母も、いつもぐっと年をとったように見えた。もちろん自分もそうだったのだろうけれど、おそらく人は、そうして時間の経過を感じるときにふと気持ちが柔らかくなるように思う。一緒に過ごせる時間の貴重さをはっきりと実感できるからだろう。いずれにしても、そうして電車の中で話した父親は、かつてないほど柔和に見えたし、きっとぼく自身も、自然に笑えていたのではないかと思う。

 そんな経験を何度かもち、本格的に日本に帰国して京都に住みだしたのは32歳のときのことだ。そしてその後ぼくら夫婦には二人の娘が生まれ、自分はすでに40歳となった。

 親になったことで、自分自身が子どもだったころの親の気持ちを考えることは増えた。ああ、あのときはお父さんはきっとこういう気持ちだったのだろう、と想像できるように感じることも多くなった。
 また、まだ娘を抱っこしていたような時代には、突然ふと、自分が父親に抱きかかえられているような感覚が蘇ったことも何度かあった。そしていま、小学生でやんちゃになった娘に対して怒るとき、自分が父に怒られたときの気持ちも良く思い出す。特に娘が、「お父さん、○○がない~、探して!」と、ほとんど自分で探さずに言うときには、自分がまだ4歳か5歳だったころに父親に怒られた記憶が蘇る。

 それは夜、両親の寝室で遊んでいたときのことである。大切にしていたコーラの匂いがする練り消しゴムが見当たらなくなった。おそらくちょうどそんなときに父親が機嫌よさそうに入ってきたので、ぼくは言ったのだ。
「ねりけしがなくなっちゃった。探して」
 すると父は、そうか、と言い、何度か軽く布団を持ち上げた。すると探しものはすぐさま出てきた。

「ほら、あったよ」
 ねりけしを手に、そう優しげに父親が言うので、ぼくは、ああ、よかった!と、「はい」と手を前に出した。すると父親は急に真剣な顔をして、ねりけしをしっかりと握り直した。こちらに渡してはくれなかった。そしてこう言った。
「ゆうき、ちゃんと探したのか? 自分で探しもしないで、すぐに『探して』っていうのはだめだぞ!」
 父が真剣に怒っていたのか、またはただ注意するという程度だったのかは定かではない。けれども、ぼくにとってそのときの父親の言葉は軽くはなかった。父親が怖く見えたとともに、まず自分で探さなければならなかったと、とても強く感じたのだ。

「ちゃんと探したのか? 頼む前にまずは自分で探さないとだめだぞ」
 いま自分が娘にそう注意するたびに、そのときのことを思い出す。そして思うのだ。親に言われたことは、子どもには、親が思っている以上にずっと心に残るものなのだ、と。

 あれから30年以上が経った。ぼくは40代に、父は70代になった。
 その父が、こないだ2泊している最中のある朝、ぼくがバスに乗って最寄りの電車の駅まで行くというとき、バス停まで送ってくれると言った。家から歩いて5分もかからず、ぼくも場所をよく知っているバス停だ。それでも父親は言った。
「いや、いいから。一緒に行くよ」

 晴れた朝、二人で家を出てゆっくりと歩き出した。父は短パンにサンダル姿。ぼくはその父親に、以前から引退後にしようと考えているといっていた計画について、それがどうなっているのかを尋ねた。聞けばその計画が実際に形になるまでは相応の準備が必要で、今後1年近くはその準備に時間がかかりそうだという。
「70を過ぎると、億劫になってなかなか進まないんだよ。でも、がんばるよ。ゆうきたちがくれたペンケースをいずれ新たな仕事で使いたいからな」

 ペンケースとは、何年か前、いずれ引退して新たな仕事を始めるときのために、誕生日だったか父の日だったかに、妻とぼくからプレゼントしたものである。さりげなくそういってくれる父親の心遣いがうれしかった。そして最近は、会うたびに父親が気遣いの人であることをつくづく感じさせられるのである。
 父はよく、このように言うことがある。
「親父の秘訣は長生きすることだよ」

 ぼくの父方の祖父、つまり父の父は50代で亡くなっている。だからぼくは会ったことはない。そして父もまた、決して祖父とそれほど距離の近い関係だったわけではないらしい。それは時代のせいや祖父の性格によるところもあっただろう。
 けれどもおそらく父は、もし祖父がもっと長く生きていれば、自分との関係も変わり、もっといろいろと話す機会ももてていたはずだと感じている。さらにまた父は、ぼくや兄と、長い間決して距離が近くはなかったことを自覚している。
 しかし、ぼくが子として生まれ両親に育ててもらってから40年という時間を重ねる中で、関係は確かに変わっていった。父はその経験上、どうしても時間が必要だと感じているのだろう。

 体験として知っている父親は、ぼくには父しかいない。だからぼくもまた、父と自分の関係を思い返しながら、いま娘たちと向き合っている。見習っているところもあれば、反面教師としているところも多少はある。ただ、娘たちが妻にべったりで、「お父さんは向こう行って!」といわんばかりのときには、ふと、父を煙たく思っていた自分の幼少期を思い出す。
 台所で祖母に「やったー!」と喜んでしまったときの自分の姿と父の顔を思い出す。あのとき父は何を感じていたのだろう。どう思っていたのだろう――。

 何分か待つとバスが来た。主に高齢者にとっての大切な足となっているそのバスに乗り込むと、白髪の父はバスの外から、動かずにこちらを見つめていた。バスが動き出すと同時に父も静かに歩き始め、少し笑みを浮かべてこちらに手を振りながら、何十年も前からある小さな電気屋の角をゆっくりと曲がっていった。
 その背中をぼくは、自分が70代になったころにふと思い出すのかもしれないと思い、胸がつまった。

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