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江 弘毅

江 弘毅/編集者

住まいと街の健全な「交通」が行われてこそ人がハッピーになる、 という街的生活者の住生活充実コラム。今日も「ごきげんなネタ」てんこ盛りで。

第1回 消費財ではない道具。庖丁、オーディオ。

 長い間、街のことを書いたり編集したりしていて、「街場」とか「街的」なんていう言葉も勝手に単語登録させていただき、がんがん書かせてもらっているものの、「家」でいることが結構好きなのである。

 家で音楽(といってもクラシックではないです念のため)を聴きながら酒を飲んだり、料理をしてつまり魚を刺身にしたり煮付けたりして日本酒(純米吟醸とかではないです)を飲んだり、たまにパエリアをつくって白ワインで楽しんだりする(オシャレでやってるわけじゃない)。

 ただし、友人の有名仏レストランのソムリエや鮨屋の腕利き板前を呼んで、ホームパーティーというのはしない。その理由は家が狭いしキッチンや食器が貧弱だというのではない(それもあるが)。

 外部や他人から隔離され囲まれた自分の私的な空間に、そういう「街場のプロ」を呼んでみんなで集まって、彼らの腕前を披露してもらったりサービスをしてもらうのは気の毒というか、そういうことを企画するこちらのスタンスが傲慢だという気がするからだ。バルバリー種の鴨の黒トリュフ詰めとラ・ターシュと合わせる、みたいなことはレストランでやるもんだと思っている。
 庭で炭火をおこしてバーベキューをしたり、長い竹を切ってきて流しソーメンをしたり、手巻き鮨やたこ焼きのホームパーティーなら、レクリエーションとしてほほえましい楽しさがあるが、街場の店の料理人やサービスのプロは街の現場(=店)こそが似つかわしい。
 仏料理の巨匠アラン・デュカスとはもう10年ぐらい懇意にして頂いているが、普段の家の食事では奥さんが料理をしている。こういうことは、わかる人にはわかりすぎるわかることだ。

 料理の話になったのは、今、新潮社の『波』という雑誌で「有次と庖丁」という長い文章の連載をしているからで、キーボードを叩き始めると、頭の中が半分そればかりになってしまうからだ。

 その取材ものの連載は、世界に冠たる京都・錦市場の庖丁と料理道具店[有次](1560年創業)の庖丁が、どのようにつくられてきたか(案外知られていないが、メイドイン堺である)。京料理の板前や料理人との関わり合いのなかでどのように発展し、お互いに影響を与えてきたかなどなどのルポルタージュだ。

 どこの家でも2〜3本はある「庖丁」というありきたりの道具が、本物のプロ仕様とどう違うのか。その答えは、違わない、というところが妥当だと思う。現に今の[有次]の顧客は、一般家庭ユーザーが半数以上で、もともとがプロ仕様の鋼の柳刃庖丁や牛刀を主婦(夫)たちが平気で買って帰る。これはすごいことだと思う。

 それでも決定的に違うことがある。それは庖丁の普段の手入れのことだ。鋼の庖丁は当然錆びる。だからプロはそれこそ毎日のように研いでいるし、使い終わればその都度しっかり洗って磨く。

 わたしはそういうことが煩わしい、というよりも根が横着だし出来ないので、結局錆びないモリブデンバナジウム鋼のステンレス庖丁を使っている。ドイツのゾリンゲン製の三徳庖丁で、それはそれでよく切れて申し分がないと思っているし、刃を入れて前後させるだけの専用のシャープナーでしゃっしゃとやると切れ味が戻る。
 この連載が始まるまでは、うちの庖丁がよそのものと比べて、よく切れるかどうかということも考えなかったし、シャープナーは有効だということを知らなかった。というより庖丁つまり道具への接し方が「使えなかったら買い換える」というところにあったからだ。

 そして決定的に変わったのは、野菜や魚や肉を自分で切ることがどんなに楽しくて難しいかということを知ったことだ。よく切れる庖丁で新鮮なキャベツを切ると、気分がいいからサラダにしたくなる。ネギの細切りなんか香りからして違う。だからスーパーで袋入りの「8種類の野菜サラダ」や「刻みネギ」を買わなくなったし、マグロや鰹のタタキはサクで、イカは1匹そのまま買って帰って自分で切って刺身にする。

 が、そのためには庖丁=道具は自分の道具になっていなければならない。庖丁がまるで体の延長のようにならないとダメだということだ。

 その前に道具は消費財ではない、ましてファッションの流行やブランドの消費情報ではない。そういうことをプロの料理人の庖丁との接し方を目の当たりにしたことと、自分自身の道具への意識が変わったことから知った。
 引き出しのなかに、切れないからとそのまま放ってあるステンレスの庖丁は、いつまでも錆びないから地球のゴミで、鋼の庖丁は鉄だから水に溶け地に還る、というロハスとかの消費的なものの見方以上の発見だったかもしれない。

 きっと[有次]の和庖丁を買った人の何人かは、庖丁を錆びさせたり逆に頻繁に手入れするようになって、そんなことに気づくようになるだろう。その時はもう消費者でなく実生活者である。
 同時期にオーディオについて、たしかに接し方が変わった。


 ○オーディオアンプを買い換える

 わたしは子どもの頃からブラスバンドをやったり、兄がジャズにはまっていたり、月刊誌『ミーツ』の編集者をやっていたときは、音楽担当だったので人よりもたくさん音源に接してきた。
 今もラテンバンドでコンガを叩いたり(その昔は岸和田だんじり祭で鳴物係を10年弱していた)、趣味の欄には「音楽鑑賞」などと書いてしまうような音好きだ。

 当然、家にはオーディオ機器があり、夜遅くにデカい音でサルサやレゲエを鳴らして家族や近所からの顰蹙を買ったりもしている。すまない話だ。

 30年は使っているわたしの70年代後半製スピーカは旧い。ウーファの回りのゴムは溶けてしまったり、ツイーターは引っ越しの際、当ててしまってへっこんでるが、いい音だと思う。

 大学を卒業して実家から一緒に持ち出したアンプは、10年ぐらい前から左右のバランスが全然違っていて、ここ2〜3年は同じボリュームで音が出なくなった。だから買い換えようとした。

 ヨドバシなどの家電量販店やオーディオショップに並んでいる新しいアンプは、デジタル化されてすごくコンパクトで安い。けれどもちょっといい従来形式のアンプになるとものすごく高い。いわゆるハイエンド・オーディオというやつだ。

 いろいろとアンプを見て聞いて歩いて「ボーナスをもらったら買おう」「いや、それでCD何枚買えるのか。やっぱりやめとこう」というのを2シーズンほど繰り返していたら、アンプの右チャンネルが完全に死んでしまった。そのメーカーはすでになく、修理はきかない。ガーンである。

 仕方がないので友人の音楽バーで使っていて予備で置いているアンプを1万円で譲ってもらった。このアンプも壊れたアンプと同世代のものである。早速つなぐといい音で、これは前のよりもええやんか、と思った。

 そういうことがあって、日本橋のオーディオ専門店に行くと、担当の人がすごくいい人で、「その中古アンプ、ただみたいなものですから、壊れるまでつかったらどうですか」てな感じだ。それよりもケーブルを変えたりコンセントを変えるといい音になりますよ、といろいろ実際に聞かせてくれる。へえ、そういうものなんだ。

 わたしは新しいアンプを買い換えることを後回しにしてそれらを変えた。買おうとしていたアンプの予算は30万円で、ケーブルは2メートル×左右2で計2000円でお釣りがきた。
 これで「やった、成功した」と思ったわたしは、コンセントも変えた。医療用のコンセントをオーディオ仕様にしたものらしい。これは1万円ぐらいだったが、その際ついでだからということで、スピーカーとアンプをつなぐケーブルだけでなくそのコンセントのケーブルも変えた。つまりひとつ空いていた分電盤から、オーディオ専用の回線を引いた。

 劇的に変わった。「結局、カネのことじゃない」と言うことなかれ。それはそうだが(笑)、おかげでカル・ジェイダーやフリート・ウッドマックのCDを大人買いしたり、また70年代の懐かしいあの世界の音を聴き直すことになった。

 それは聴き直す、というよりも30年経って「へえ、こんな音楽だったんだ」という再発見の方が多かった。そういう繰り返しで、次はいよいよアンプを買い換えることになった。気がつけばアンプを譲ってもらってすでに4年が経っていた。

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