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三島邦弘

三島邦弘/ミシマ社代表 編集者

今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。 なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

第10回 その「画面」には未来が映るか?

 今回のコラムにかぎり、前もって断っておきたいことがある。
「教育関係者および子どもを育てる立場にある人たち必読」と。
 
 これから、重大な実験報告をいたします。



 ところで、次の会話、歓声、喜声、絶叫(?)はいかなる場面で起こったでしょう?
 むろん、実際の話。ある出版社での出来事である。

 「うわー、めちゃいい!」 「ひや〜、サイコー!!」
 
 出版社であれば、ベストセラーが出たときでしょう。という想像ができそうだが、「めちゃいい!」という声はその場面のものとしては、いくぶん違和感がある。
 それにしても、活字にしてみると、なんとも薄っぺらい。いや、はっきりいえば、アホっぽい。が、事実、こうした声があがったのだ。

 もったいぶらず言おう。つい先日のこと。7月中旬の、暑い暑い土曜日の昼下がり。ミシマ社メンバーは「合宿」の名のもと、京都市の中心部から車で小一時間ほどの距離にある、京北町を訪れた。ちなみにミシマ社とは出版社である。
 ある人の紹介で一棟借りをすることになっていたのだが、どんな宿かはまったく知らず。「雑魚寝になりますが」ということだけ、メールで事前に伝えられていた。

 で、実際に訪れた瞬間、部屋に入った瞬間、メンバーから自然とあがった声が、これなのである。
 茅葺き屋根の一軒家。
 広い座敷。囲炉裏のある畳部屋。中二階には北山杉で板張りされた20畳ほどのロフト。そこに寝転ぶと温かく包み込むように茅葺きの天井が見える……。

 築100年を優に越えるという改装された古民家。そこは、まるで家が野山の一部であるかのように、自然との境目がない。そのため、家の中にいるだけで、自分が自然の一部になったような感覚になる。
 メンバーも、無意識のうちにそんな感覚をおぼえたのだろう。
 だからこそ、「ああいう」声があがったにちがいない。
 それにしても、つくづく、歓声は内から湧き出るものだ。ベストセラーが出てなくても、「出る」ときは出るのだ。



 合宿から一週間ほど経った平日の夕方。ミシマは、ある映画を社内で観ることがあった。オフィスにテレビがないため、Macのデスクトップを畳の部屋に持ってきて、椅子の上に置き、テレビの代わりにした。
 映画はとてもおもしろいものだった。
 なんどもクスクスと声を出して笑った。ときどきぐっときた。学びを得ることも多かった。

 しかし……。
 それほど中身がよかったにもかかわらず、ミシマはぐったりとなった。
 鑑賞途中から、なんだか、しんどいなぁ、と感じ出していたのだが、鑑賞後には、はっきりと体が悲鳴をあげていた。くらくら、くらくら。久しぶりにめまいがし、帰宅後すぐに、ぐたっと倒れこんでしまった。

 日々の疲れに、このところの暑さが重なったのだろうか。
 たしかに、それもあるだろう。けれど、それならば、もっと疲れている日は他にもある。が、だからといってこんなふうに急変することはない。
 明らかに、DVD鑑賞を経て、おかしくなったのだ。それも、疲れというより、頭が爆発しそうな感じだった。
 
 冷静になるにつれ、ミシマは確信した。
「これはパソコンで観たせいだ」と。
 同じ画面を、じっと集中して観つづけたことで、光にやられたのだ。
 

 
 あまり最近は聞かなくなったが、昔は(半世紀以上前だろうか)、テレビを見ていててんかんを引き起こすことがままあったという。そんな話を祖母などから、ときどき耳にしたものだ。

 時代は流れ、テレビもだいぶ進化した。形状ひとつとっても、大きなボックス型だったのが、薄型が当たり前になった。おそらく画面も、安定した光で動画を再生できるようになったのではないだろうか。
 たとえば、テレビを見ているだけで、てんかんが起きるということは減ったように思える。少なくとも、個人のレベルにおいて、テレビを観ていてクタクタに疲弊したという記憶は最近ではない。
 それとは逆に、パソコンによる発作は増えているにちがいない。これも、個人の実感にすぎないが。
 とりわけ動画をパソコンで観れるようになってからというもの、



 ……大変失礼した。
 以上のことを約2時間かけて書いたところで、急に、なんだか気分が悪くなった。それで中断したのだ。そのため、こんなふうに途中で文章が切れてしまった。再び、「くらくら」に襲われるのを回避しての結果だとご理解いただければ幸いこの上ない。

 さて。
 動画をパソコンで観ることの怖さについて、であった。
 とりわけ脳に与える影響について。
 これについては、非常の注意を喚起されるにしくはなし、であろう。

 たしかに、パソコンは万能マシーンである。文字を書くことも、計算することも、絵を描くこともできれば、音楽を聴くこともでき、動画を観ることもできる。
 しかし、それゆえ、専門の機器ではない。映画、動画を観るための、あるいは音楽を鑑賞するための、専門のツールではありえない。いうまでもなく、優れたアンプとスピーカーとプレーヤーで聴くサッチモと、パソコンで聴くそれは、まったく「別物」である。

 同様に、ミシマが観た映画の再生動画が、普段、専用のDVDプレーヤーとテレビ画面で観るときと比べ、格段に質の悪いものだったことは論を俟たない。
 この質の悪い万能マシーンを長時間見つづけたとき、いったい、何が起きるのか。てんかんとまではいかなくとても、そうとう、脳によろしくない作用を及ぼしているのではないか。
 先日の映画鑑賞を経て、わが身体は「間違いない」と言っている。この二時間のライティングでの「異常注意報」からも、その確信はさらに深まった。

 忘れてはならないのは、なんの実績もないということだ。
 つまり、「映画をパソコンで数時間集中して観ても人体に与える被害はない」という実績などありはしない。安全の保証は一切ないのだ(管見の及ぶかぎり)。
 裏を返せば、いまこの瞬間瞬間、ユーザーによって実験されているといっていい。

 脳に甚大な被害を及ぼす。あるいはまったく問題ない。どちらが「証明」されるにしても、ずいぶんと年月を要することだけは明らかである。いまは、そのどちらでもない「間」に過ぎない。
 そのことをユーザーはけっして忘れてはいけないだろう。
 なんといっても、安全保証のない製品を、自己責任で使っているのだから。

 ただひとつ、個人的体験を通して確信をもって言えることがある。
 いつの日か、「昔の人って、あんなもので映画を観てたらしいよ」「ありえなーい」「ねえ、あんな身体に悪いものを、よくも……びっくりだわ」という会話がなされているだろうということだ。
 私たちは、日々、「そんな」代物を使っている。
 むろん、そんなものを教育のツールにしてはいけない。脳を柔軟にすべき教育の場が、脳を破壊する場になってはいけないのは、自明というほかあるまい。


 
 ためしに電源の入っていないパソコンの前に、5分ほど、じっと座ってみた。
 残念ながら、京北町の茅葺きの古民家に身をおいたときのような、内なる歓声は湧いてこなかった。
 これはなにも、五感が開かれなかったというばかりではない。
 学びがない、ということを同時に意味している。

 ミシマが今回の合宿で得た最大の学び(あるいは再発見)は、いい場所は人を勝手に育ててくれる、ということである(ヴォーリズの建築物に入ったことがある人であれば、そのとき感じる高揚感や安心感を思い出してほしい。ツルツルの出来合いの校舎に入った瞬間に感じる残念さとは、もはや比較するまでもないだろう)。

 事実、1泊2日の合宿中に話したこと、共有したことは、言語のレベルをこえてメンバーに深い学びをもたらした。残念ながら、数値化したり、具体的にこれと差し示すことはできない。ただ、なんだかわからないけど、どんどん面白くなっていく! という感覚が、絶対的な感覚が宿ったのだ。
 あのとき、茅葺き屋根の一軒家に包まれたとき、メンバーの間で、五感の開放とともに、学びの発動がたしかに起こった。
 
 有吉佐和子さんの初期作品のひとつに、『私は忘れない』(昭和35年刊)という小説がある。
 東京で女優をめざす若い万里子が、夢破れ、気分転換に、偶然雑誌で知った「忘れられた島」黒島へ行く。軽い気持ちで行ったはずが……。離島で待っていたのは、医者不在、台風のたびに襲われる生死の危険、食うや食わずの壮絶な生活……そこで見て、体験したことを、小説の最後に、みずみずしい言葉で回想する。そのなかで、1台のテレビが万里子の帰京後、島に寄付されたことで起きた変化について触れる箇所がある。

「東京では、テレビがあると勉強しないからといって、入学試験準備の子供があると、テレビを処分する家があるんです。それなのに、島ではテレビが来てから、勉強する子がふえた……この差は、いったい何なのでしょう」

「島ではテレビが来てから、勉強する子がふえた」
 文明的、文化的な一切がなかった島では、テレビが島の人々にちがう世界を見せることになった。いわば、テレビが学びを発動させたのだ。
 このことは、「飢え」が学びを発動させる土壌であることを教えてくれる。つまり、黒島でテレビが子供たちを勉強に駆り立てたのは、究極レベルの文化的飢え状態にあったからだろう。

 そう考えれば、ミシマ社メンバーが京北町で、開放され、発動したのは、その反対で、それほどに自然と切り離されたところに自分たちの日常があるということだろう(たとえ、ちゃぶ台のある古民家がオフィスであったとしても!)。
 いま、私たちほとんどすべての都会人(都市に住んでようが地方に住んでようが関係なく)は、自然に飢えている。タッチパネルに囲まれ、パソコンに触れつづけ、wifi電波の飛び交う場所に身を置いている。

 そんな日常で「学び」のスイッチを子どもたち(もちろん大人も含め)に押させようとすれば、日常にないものとの接触しかない。どれほどパソコンを便利に使えるようにしようとも、あるいは仮に、身体への「安全」が保証されるようになっても、学びの発動がないかぎり、自発性、自主性を育むことは不可能なのだ。
 何かを本当に学ぶということは、自主的に学ぶという以外にないのだから。
 


 いい場所、いい空間は人を勝手に育ててくれる。
 ……と書いたところでミシマは思った。たとえ大自然に行けなくても、そういう機会はいっぱいあるなぁ、と。いいバー、いい宿、いい美術館、いい家、いい場所……はもとより、変な場所、汚いところ、おかしな空間、おもろい人たち。どこであれ、パソコンやスマホとは切り離された「生身」であれば。
 大自然に包まれたときほどの大発動はなくても、日々のなかで小さな発動をくりかえし起こすことはできるだろう。
 
 まあ……。
 間違いなく言えることは、ひとつ。
 そろそろ、パソコンを閉じるときだ。わたしもあなたも。

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