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三島邦弘

三島邦弘/ミシマ社代表 編集者

今をときめく出版社「ミシマ社」のオフィスは会社というより家である。 なぜ「家」なのか? 家だと何が違うのか? へっぽこ代表兼編集者のコラム。

第9回 サルの会社、人間の会社

 唐突ではあるが、会社とは何か、と問われたらどう答えますか?

 「会社とは、むろん株式会社のことである。すなわち、出資者による所有と、その有限責任を原則とする企業形態である」
 目の前で自信満々にこう答える人がいたら、臆せず、眉を顰めることをおすすめする。なぜなら、彼(あるいは彼女?)の言う株式会社は、せいぜい19世紀初頭にできた形式にすぎないからだ。会社の原義からほど遠いと言える。

 ちなみに、ミシマ社を設立して数年経った頃のミシマであれば、どう答えていただろうか。
 思うに、うまく答えられていなかったのではないか(目の前のことに必死すぎて)。実際のところは、会社勤めを二度辞めた人間が起こした組織なわけで、できるだけ、「会社っぽく」しないでおこうと考えていた節はあろう。
 ともあれ、たしかに当時のミシマは、会社とは何かを言語化するに至らなかった。が、その分、常に実践が先行していた。そして、結果的に、期せずして「会社」を見事なまでに実践していた。そのことに異を唱える人はいないのではないか。つまり、こんな形で。
「会社とは一軒家の中心にちゃぶ台を据えた共同体である!」
 
 哲学者の鷲田清一先生は、いくつかの本の中(『おとなの背中』など)で「会社」について、こう述べている。
「会社を英語で言えばcompany。そのもともとの意味は、パンをともに(com)食べるということです」
 食を得て、分かち合い、与え合う。そして共に食べる。
 これこそが会社の起源なのである。
 奇しくもミシマが実践していた形が、まさに会社的だったのだ。



 ところで今ミシマは、広島は宮島にいる。つい数時間前の午後6時頃、フェリーに乗って到着した。一昨日、瀬戸内三番目の大きさを誇る周防大島に行き、そこに2泊。今朝、周防大島を離れ、岩国、広島市内を経由して、先ほど宮島に着いた。
 周防大島では、初日に内田樹先生の講演がおこなわれた(その講演のすばらしさについては別の媒体で触れたい)。
 ここでは、一箇所だけを意訳的に引用するにとどめる。
「食文化を語るとき、もっとも重要な基準がひとつあります。それは、飢餓に至らないことです」

 争いの火種は飢餓にある——。なるほど、隣村や隣の部族と主食が大きく異なることがあるのは、争いを起こさないための人類の知恵だったのか。
 そうした話をうかがいながら、ミシマは一冊の本を思い出していた。
 その本とは、『ナチスのキッチン』で有名な藤原辰史氏の『カブラの冬』。その研究内容を、ものすごくおおざっぱにまとめると、こんな感じになる。

 ——第一次世界大戦前、すでにドイツは穀物、飼料などを輸入に頼らざるをえなかった。短期決戦で勝つつもりでいたドイツであったが、英国による「海上封鎖」という兵糧攻めに遭い、戦争が長期化。やがて都市部を中心に、飢餓化が進む。大量の飼料を餌とする豚の飼育までが敵視され、1915年には「豚殺し」という愚行まで敢行される。しかし、豚の大量屠殺は食糧危機の打開どころか、むしろ危機を深刻化させた。やがて、戦争に敗れたドイツ国民のなかで、「二度と飢えだけは嫌だ」という記憶が刻まれる。同時に、「もしあの飢餓さえなければ」という思いが残る。そうした飢餓への悔いがナチス台頭を後押しするひとつの背景となった。
 
 内田先生の言うとおり、食は飢餓ベースで語らねばならない。食とはかくも恐ろしきものであるからだ(この一点からも、食がビジネスの文脈だけで語られがちなことに危うさをおぼえる)。
 
 さて、それはわかったが、なにゆえ、内田先生が周防大島に?
 と思われた方も多いかと拝察する。
 その理由は、なんのことはない、飢餓を防ぐためである。より正確を期せば、飢餓を招かない動きを、先じて取り組む若者たちを応援するために来島されたのだ。

 というのも、周防大島では講演の日、「島のむらマルシェ」というイベントが開催されていた。オーガニックな農作物を売る場があまりなく、それならば、生産者が直接、販売すればいいではないか。そういう思いから昨年春、秋に一度ずつ開催し、今回が3度目であった。開催者たちはみな、神奈川をはじめ島外から移住してきた人たちだった。養蜂家、無肥料農法家、みかん農家など、それぞれやり方は違うが、新しい時代の農業を実践していきたいという志を共有する人たちばかり。

 日々の農業も、マルシェも、まだ大きなうねりにはなっていないが、飢餓ベースで考えたとき、必ずや必要となる動きを、とろうとしている。多くの人たちが気づいたときにはすでに手遅れ、となりがちな課題にとりくんでいる。内田先生も、その姿に未来を感じたのだろう。
 事実、その日、1万8千人を切る島の総人口の9分の1にあたる2000人がマルシェに訪れたのだ。広告代理店も役所もイベント会社もスポンサー企業も、どこもかかわることなく、彼らの思いと実行力だけで。

 そしてなにより、メンバーの人たちが「楽しそう」なのだ。大変にちがいない行動を実行しているにもかかわらず、疲弊した感じがまったくない。そのことは、イベントが終わった翌日、内田先生が帰られたあと、まる1日彼らと行動をともにさせていただいて、さらなる確信を得た。
 朝から夜中までずっと彼らはご機嫌だったのだ。

 日々の農業のあいまをぬって、ミーティングを重ね、さまざまな場所と交渉し、出展者を募り、駐車場を確保し、当日は2000人もの人たちを動員し、300人の人たちを内田先生の講演に呼び込んだ翌日に、だ。疲れがないわけがない。にもかかわらず、彼らはずっと笑顔だった。作り笑顔ではなく、ほんとうに、ずっと!

 その理由が夜、すこしだけわかった。
 急遽、メンバーの一人の家にお邪魔して、夜ごはんをいただくことになった。それぞれの家族も加わったりし、子供もまじえ、10人ほどが大きなテーブルを囲んだ。テーブルには、近所の漁師さんがくれたというひじきやら、地のものがもりだくさん。命そのものといっていい鮮度の野菜たち。
 それをみんなでいただいた。ミシマも遠慮なくパクパクといただいた。
 どんどん盛り上がる話の途中、ふと気づいた。
 これだ、これこそが、会社なんだ! と。
 彼らはひとりひとりが農家であり、組織に属している人が一人もいない。けれど、彼らがめざそうとしていること、それを実現するために、日夜、話し合いを重ね、卓を囲んでご飯を食べる。
 まさにこれが、「食をともにする」会社そのものではないか。



「会社的であるよりも、家族的でありたい」
 創業から数年、そんなふうに考えていたミシマであったが、そもそも会社と家族は、対立関係にあるのではなく、よく似た起源をもつ共同体同士なのかもしれない。
 たとえば、ゴリラ研究の第一人者である山極寿一先生は、人間とサルの違いについて、「卓を共に囲むことができる能力」(人間)と「(他者に奪われないために)個食しかできない能力」(サル)であると語っている(『考える人』2015年冬号)。

 周防大島のマルシェメンバーたちは、少なからず都会の「個食」生活に嫌気がさし、島に来た人たちである。そうした彼らが、毎日、土や草木と触れるなかで、仲間たちと集い、食をともにするようになっていったのは、実に自然なことで、「人間」的な営みにほかならない。
 飢餓を防ごうとすること。
 食をともにすること。
 このふたつを満たすために、家族は生まれ、会社ができていった。そんなふうに考えたくもなる。いずれにせよ、いずれも、人間としての能力を涵養する場であるのは間違いないだろう。
 
 というようなことを、今、ミシマは宮島の旅館で書いている。先ほど、夕食をいただいた。部屋には5卓あり、そのうちの4卓が埋まっていた。4卓いずれも卓を囲んで家族の「共食」がおこなわれていた。が、1卓のみ、ひとりであった。そこでは男がひとり、黙々と箸を口に運んでは、ときどき横に置いたノートになにやらしこしこ記していた。



 一軒家でちゃぶ台を囲む。それは今も昔もミシマ社の日常だが、東日本大震災後、東京自由が丘と京都の二拠点になり、必然、卓を囲む人数が減った。何人かが外出していれば、一人でちゃぶ台に座って食べることも増えた。
 現代において、人間であるということは存外むずかしいことなのかもしれない。
 
 窓をのぞけば、もうすっかり闇が広がっていた。

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